三十二
両親に千夜のことを打ち明けるのは早いと新之介に言われたのをいいことに、縁談が進められるのを手をこまねいている己の情けなさを、冬野はあらためて痛感していた。
千夜のことを
唯一の頼もしき相談相手である新之介からは、父から釘を刺されて何もできないと謝られていた。
こうなれば、両親に本心を打ち明けるしかないと思えど、踏み切れないのは、覚悟が足りないだけではない。
千夜のことを言ってしまえば、両親が頑として反対するに決まっている。
縁談話も進んでいることもあり、無理矢理にでも引き裂かれてしまう恐れがあるからだ。
だが何もしなければ、決められた運命を
やけになりそうだったのを止めたのは、稽古が終わり道場を出ると、いつかのように菫が待っているのが見えたからだった。
冬野の少し後ろを歩く菫の、そのまた後ろには侍女が遠慮そうについてくる。
親戚の法要で新之介はいないので気まずい心地だった。
「先日はお花を持ってきていただいたみたいで。母上がよろこんでおられました」
「冬野さまは気に入っていただけましたかしら?」
送り先は蓮ではなく冬野だったのだと、菫は暗に言った。
「はい。無風流な私にはもったいないほどきれいかと存じます」
「冬野さまは相変わらず謙虚でございますのね。
夫婦になるといえど、その前にお心を通わせたいと私、思っておりますの」
冬野の足が止まった。
そのときはっきりと、縁談話が生半可なものではないと思い知らされる。
動揺している顔を見られないように、冬野は振り向かずに言った。
「菫殿、その話は……」
「高村さまはご承知くださったと、父上さまから聞いております」
「しかし、菫殿もこんな私が夫では……」
そこまで言いかけて、冬野は口を
振り向いたときに菫の顔を
傷つけられたというのに、それを表に出さずにに耐えているような、
自分が
菫のことを避けているのは冬野の気持ちによるものだ。
未来の夫から避けられていることを察した菫からしてみれば、好き嫌い以前に傷つかないはずはない。
身勝手かつ、菫に対する思いやりに欠けていた。
「……冬野さまは、私のことが嫌いなのですね」
「決してそのようなことは……
私は、私自身の問題で縁談はまだ早いと考えているのです」
気休めの嘘を吐くよりは正直に気持ちを
一度弱々しくなったと思っていた菫が、今度は
「冬野さまがどうお考えになろうと、もう決まったことです」
何も言い返せなくなった冬野に、菫もそれ以上は言わなかった。
屋敷に着くまで二人の会話は途切れていた。
昼時を過ぎた翌日の満月屋では、いつものように縁側に腰をかける姿は変わらず、どこか落ち込んでいる二人であった。
「今日はお千夜さんも悩みがあるみたいですね」
「いえ……」
冬野のためにも、早く関係を終わらせなければと悩み始めた千夜である。
だが、実際に冬野に会ってしまえば、言葉は喉元にもせり上がってこなかった。
「おこがましいかもしれませんが、同じような悩みかもしれませんね」
どんなに想い合ったところで、終わりは見えていた。
だからこそ、一時とは知りつつ二人でいる時間が長く続けばよいと、甘い夢を思い描いている。
縁談話が舞い込んだことで、急に現実から目を背けなくなって、冬野は嫌でも
どちらかが別れを切り出せば、
それがわかる二人だからこそ、ましてや簡単に諦められる
この世界に、こんなにも諦められない人がいるのだと、刹那の中で噛みしめている。
「山王祭に一緒に行きたかったのですけど、生憎と用事ができてしまいまして……」
天下祭りが迫る江戸には、浮き足立った者で溢れている。
往来には今にも祭りの喧騒が聞こえてきそうであった。
「もともとご一緒はできませんから……」
もしも誰かに冬野と一緒にいられるところを見られていたら、しかもそれが冬野を知っている人であれば、ただごとでは済まされない。
花見のときは、
秘かな逢瀬だけしか、許されていなかった。
「いっそのこと、ばれてしまったほうが」
千夜は驚いて、冬野の顔を見た。
冬野の真剣な顔に、冗談で言ったわけではないと
「お願い……それ以上はおっしゃらないで……」
この有限の時間まで消えてしまいそうだからと、言葉にできなかった気持ちを
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