三十

町は爽やかな初夏の色になって、ぐんと気温が上がったものである。

それでもまだ酷暑には遠い日のことだった。


「すっかり常連さんになりましたわ」


にこにこと気取ったところのない大店の奥方が顔をほころばせた。

ひょんな縁で千夜と知り合ったつゆと君の親子は、満月屋に通うようになっていた。

つゆは日本橋にある油問屋の内儀で、大店と呼べる立派な店の人間でありながら、庶民が通うような一膳飯屋に足繁く通っているのは、やはり満月屋の料理が美味だからである。


ことに娘の君が満月屋と千夜を気に入っていて、つゆもまた、すっかりとりこになっていた。


「いつも来てくださるのを楽しみにしてます」


千夜も可愛い子どもと気さくな奥方に、目を細めている。


「お千夜ちゃんのお蔭で、前よりも店が繁盛しているのよ」


そうかやが口にするのを、つゆが聞くのは何度目だろうか。


一番は千夜を目当てにやってくる若い男性客が増えたことだが、その他にも満月屋には旗本やら同心、大店の親子が通うようになっていた。

すべては千夜の縁である。


「君、おねえちゃんと遊びたい。神田明神に一緒に行くの」


君が幼い声でつゆに言った。


「わがまま言わないの……」


と言いつつ、つゆはすぐに一人娘に甘い母親の顔になっている。


「これから神田明神に足を運ぶつもりで……お千夜さんがよろしければ、一緒に行きませんか?」


負けずに満月屋にも娘に甘い親がいて、


「片づけはいいから、これで上がっちゃっていいよ。ね、お前さん」


「もちろんだ。俺たちの分までお参りしてきておくれ」


君に慕われていることもうれしくて、千夜には断る理由がなかった。


「では、お言葉に甘えて……」


千夜は急いでまかないの握り飯を食べて、神田明神へと向かったのだった。






満月屋がある神田相生町からは目と鼻の先である。

江戸の総鎮守であり、将軍家はもとより江戸で生活する人々の信仰を集めている、由緒ある神社であった。

神田明神で行われる神田祭と日枝ひえ神社の山王祭は、天下祭と称されていた。


大きな朱い鳥居を抜け、これも立派な随神門をくぐると、だだっ広い境内けいだいには参詣人がにぎわっている。

人の流れに沿うようにして、三人は参詣を済ませた。


「ここは縁結びの神様もいるのよね」


千夜は思わず頬を染めたものの、つゆはにこりと優しい笑みを返しただけだった。


神田明神の御祭神の一人に大国主命おおくにぬしのみこと、いわゆる大黒様がいて、縁結びの神様としても知られている。

千夜もそのことは知っていたが、想い人と結ばれたいとは願っていなかった。


あまりにもおこがましい願いだと神様に笑われそうな気がしたからである。


高台から江戸の風景を見渡した後で、茶屋に腰を落ち着けた。


「もうあの子ったら、じっとしていられないんだから……」


つゆの視線の先には、茶屋の近くの境内で同じ年頃の子どもたちと遊ぶ君がいた。

人見知りをしない子なので、知人でなくともすんなり打ち解けられるようだ。


「でも、ちょうどよかったわ。私、お千夜ちゃんとお話ししたかったの」


つゆは穏やかに先を続けた。


「実はお千夜ちゃんのことを見たときに、どこかで会ったような気がしていて……」


千夜は、はっとつゆから視線をらした。

もしかして、とは微塵みじんも考えていなかった。

だって自分のことを知っていれば、懇意にしてくれるはずはない。


「もしかして、夕顔屋のお千夜ちゃん?」


恐くてつゆの顔を見れなかった。

大っぴらにしたくもないがうなずくも、千夜の動きは固い。


「ああ、やっぱり……一方的にお千夜ちゃんのことを知っていたのよ」


千夜の実家の夕顔屋とつゆの春日屋は、同じ日本橋界隈にある。

千夜は春日屋を知らなかったが、つゆは夕顔屋を知っていたのかもしれないし、千夜の身の上についてを噂などで知っている可能性は充分にあったのだ。


身の上については、叶うなら隠し通しておきたかったことである。


しかしつゆの返事は意外だった。


「何年か前に、料亭でお見かけしたことがあって……」


偶々たまたま別の集まりで、千夜とつゆは同じ店にいたことがあり、何故つゆが千夜を知ったかというと、それは琴の演奏であった。

美しい音色が聞こえてつゆが店の人に尋ねると、琴を演奏しているのは夕顔屋の千夜という娘だと教えてくれたのである。

遠くから演奏を見させてもらったのが、琴の音までも覚えていたとつゆが言った。


「今でも琴は弾いているの?」


「以前ほどではありませんが……」


一度はもう弾かないと決めていたはずが、新之介の妹にねだられて奏でた日より、千夜は再び弦を弾くようになったのだ。

ことに冬野が演奏を所望するので、二人で逢瀬を重ねているときにはよく弾いている。


「ぜひ今度、演奏を聴かせてほしいわ。君にもいずれ習わせるつもりだから」


「あの、私……」


千夜が夕顔屋の人間だと知っているのならば、まさか山ノ井主税の妾をしていたことも知らないわけがない。

仮に知っていなかったとして、どうして夕顔屋の娘が一膳飯屋で働いているのかと疑問に思い、誰かに聞いてみるなどするはずでもある。


身の上を隠していたことを、つゆは怒るだろうか。


つゆがそれで怒るような人ではないと信じたくとも、大店ほど世間体を気にするもので、千夜も身をもってわかりきっていることである。

妾をしていたような娘と関わり合いになりたくないと思われても、世間では仕方のないことだと割り切るには悲しかった。


「ごめんなさい、私ったら……お千夜ちゃんの事情もくまないで図々しいわね」


「私がしていたこと、ご存じなんですか……?」


「真実かはわからないけれど、風の噂で……」


短い時間だった。けれどもつゆたちと過ごした時間は楽しかったと、あきらめようとして泣きたくなる。

これ以上、自分と関われば、つゆが悪く言われることもあるかもしれない。


本当は、わかっている。

わかっていて関わることをやめられないのだ。


つゆと君だけでなく、冬野とのことも……


「お千夜ちゃんが夕顔屋の人だって、旦那様にも誰にも言っていないのよ」


千夜が見返したのは、つゆがあまりにも力強い声で言ったからだった。

まるで励ますように千夜の手を握りしめた。


「誰もわかりっこないわ。それに、私がお千夜ちゃんと仲良くして何か言ってくる人がいても気になんかしない。気にする理由なんてないもの」


「おつゆさん……」


言葉と同時に、ぽとりと涙がしたたりり落ちた。

その涙さえも拭ってくれるつゆの真心がじんわりと身体の奥にまで伝わってくる。


つゆがにっと笑うとき、少し無邪気になるのだった。


「どうして満月屋にいるの?言いたくなかったら話さなくていいのよ」


山ノ井主税が捕まったことは、内々に済まされているので、千夜が妾をやめたことまでを知っている人はまず日本橋界隈では夕顔屋を除いていないだろう。

なので妾をしていたことは知っていても、その後の顛末てんまつは知る術もなく、つゆの疑問に思うところだった。


「ある人が私を苦しみの中から助けてくれて……」


「花見のときに一緒にいた人ね」


これはつゆの女の感である。

冷やかすわけでもないつゆには隠さずに、千夜は肯定した。


「妾をしていた私が夕顔屋には帰れなくなったんですけど、運よく満月屋にいさせてもらえることになったんです」


つゆは何かを言いたそうにしたが、口をつぐんだ。

夕顔屋の千夜に対する始末については思うことがあっても、言ってどうにかなるわけでもなし、絶えている千夜の前では言えなかった。


「太一さんもおかやさんも、とても親切にしてくれます。

私……二人のことを大切な家族だと思っているんです。だから、私は幸せ……」


陽だまりのような笑顔は、哀しみの混じったものに転じた。


「身の丈に合わない想いは、早く諦めないと……」


「お千夜ちゃん……」


決断の時が、そう遠くない未来に迫っているような予感が千夜の中でしていた。

今は冬野と離れることが想像すらもできなくなっているのだと、千夜は思い知らされる。


「おねえちゃん、一緒に遊ぼ!」


「あら、仲間に入れてくれるの?」


とことこと走ってきた君が、千夜の手を引っ張った。


何と言葉をかけてあげればいいのか、いくら考えてもつゆはわからなかった。

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