二十九
千夜は愛くるしいという表現が似合う女だった。
飯屋ともなれば客商売で、客相手に愛想をふりまくのはもちろんのこと、それが千夜ともなれば心を動かされる男は多かった。
今や満月屋の看板娘とまで呼ばれるようになっている。
客にからまれるのはしょっちゅうで、酒に酔った客には特にあることだった。
「ひゃあ……!」
千夜の軽い悲鳴が店内に響いた。
夜になり仕事帰りであろう男は悪酔いをしていて、千夜にからみはじめたのが、挙句には尻を触ってきたので千夜も否や顔をする。
「困ります……やめてください」
「尻ぐらいいいだろうが。あんまりつれないこと言うなよ」
無理やりにでも千夜を自らの隣に引きずり込もうとする男の強引さに、さすがに見かねた太一が注意しようとしたところで、新たに一人の客が
太一とかや、それに千夜は入ってきた客に
「いらっしゃいまし」
酔いが覚めたかのように、男は銭を置いてそそくさと店を後にしたのは、入ってきた男が黒羽織に十手をちらつかせた侍で、定町廻り同心だとわかったからである。
「ここんとこ穏やかだと思ってたが、まだまだ俺が来ねぇとだめみたいだな」
皮肉気な笑みが似合うこの同心は、荒木音十郎である。
冬野とともに千夜を救い出すことに一役買った男であり、何かと千夜を気をかけてくれる同心であった。
「今のはどうもしつっこい奴だったんですよ。最近はお千夜も客あしらいは慣れてきたんで」
はじめは客にからまれるたびに千夜は戸惑ってしまい、太一とかやに助けられることが茶飯事だった。
しかし慣れてくるもので、千夜は適当にあしらう術を身につけることができたのだ。
「いつもすみません……」
酒をことりと音十郎の前に置いて、千夜は言った。
「仕事だ。気にすんな」
たしかに事件に関わりあった人のその後を気にかけることは同心としてあるのかもしれないが、それにしても仕事の範疇を超えて、音十郎が自身を気にかけてくれていることを千夜は知っている。
ぶっきらぼうに見える同心の心根をである。
「すてきな客を紹介してくださって、ありがとうございます」
今度はかやが酒の肴を持ってきて言った。
「春日屋の主人に相談されたんだ」
春日屋喜左衛門の娘の君は、花見をしていたときに千夜と冬野がいた席に迷い込んできて、満月屋の弁当に入っていた卵焼きを食べたことがあった。
で、君はその味が忘れられなくて、同じ卵焼きを食べたいと両親に言っていたのだが、千夜たちの身元を知らなかったので困り果てていたところに、喜左衛門が音十郎に相談したのである。
「侍と町娘の組み合わせだったんで、やけに印象に残ってたらしい。そんなのお前らくらいだろ」
あっと、千夜の顔が
花見のときは浮かれていて周りが見えなくなっていたが、
もしも冬野のことを知っている人がいれば、満月屋で働く千夜のことを知っている人がいれば、噂を立てられるなどの恐れは充分にあったのだ。
冬野と花見に行ったことを後悔していた。
だが、後悔以上に幸せと感じた思い出が勝っている。
千夜はあらためて自分よがりな考えだと、自責の念に襲われた。
「お千夜は給仕で行っただけで……」
「そうです。新之介さまも一緒だったんですけど、途中で体調を崩されて……」
「おっと、同心をなめちゃあいけねぇぜ。
お千夜がただの給仕で行ったことくらいわかってらあ」
助け舟を出した太一とかやは、ほっと胸を
本当は千夜がただの給仕ではなく、冬野との逢瀬を決め込んでいたことをわかっていて、音十郎は何も言わないのだと、誰もが気づいていた。
千夜が旨そうに酒を飲み終えた同心を見送って外に出ると、満天の星が空を描いていた。
「荒木さまは話のわかるお人だ」
「それに同心にしては威張ったところもないものね」
太一とかやの、音十郎の評価はすこぶる良かった。
こうした声は満月屋に限ったことではなく、定町廻りの荒木音十郎といえば、恐れる者こそ恐れるが、市井の評判は同心の中でも良いものである。
定町廻りの同心といえば、いざとなれば面倒を見てくれることと引き換えに、
千夜がまだ夕顔屋にいたときも、同心が袖の下を求めて店によく来ていた。
小さい頃などは同心を怖がっていて、
だから千夜にとって、袖の下を一切求めず、ましてや一介の町娘を気にかけてくれる荒木音十郎は、
「ええ、本当に頼りになる方です」
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