二十八
「さて、稽古も終わったことだし湯屋に行ってさっぱりしようではないか」
と新之介が張り切ったように言ったのは、道場帰りに二人で満月屋に行こうと約束していたからだ。
そして稽古終わりの汗臭いまま千夜に会うことを
浮かれた気持ちで二人が道場の門を出ると、声をかけられた。
「冬野様」
会うのが二度目となる、いや、冬野が忘れているだけで三度目なのだが、菫が待ち伏せしていたのだった。
「ここで待っていれば会えると思いましたの。家までご一緒してもよろしいかしら?」
用があるのでと無下に断ることもできずに、菫の申し出を受け入れるしかなかった。
満月屋に行くはずが、どんどん違う方向に歩いていく。
仕方ないので菫を送り届けてから満月屋に足を運ぶしかなさそうだ。
今日は昼の商いの時間には間に合いそうだったので、久しぶりに満月屋の料理を食べれることを期待していたが、間に合いそうにない。
しかし冬野たちの事情を素直に言うことはできないので、菫には悪いが運がなかったと思うにとどめた。
「お邪魔をして申しわけない。私も帰り道なので」
新之介が、この男にしては控えめに言ってみせた。
菫が伴っている侍女は、冬野たちの少し後ろからついて来ているのだが、自分に対して気が利かない男だと責めるような視線を向けたことを、新之介が気づいた
侍女に
「とんでもございませんわ。
貴方のお父上さまも大層ご立派な方と、父上さまから聞いておりますの」
はたしてそう言う菫の腹の中まではわからない。
伊東家もまた御書院番を務めているので、御書院番頭を務める菫の父、中原仁兵衛は父の上司である。
衝突こそないが、新之介は父の左馬之介と仁兵衛の折り合いの悪いことを知っていて、おそらく菫が聞かされたのは仁兵衛の皮肉だろうと、これは確信していた。
その問題は菫の前には関係のないことであり、話題を持ち出すほど野暮でもなかった。
「父にそんな評判があるとは知りませんでした。跡を継ぐ者は父が偉大では大変というものです」
「ご謙遜を」
新之介が菫にばれないように冬野に目配せをする。
菫がいるのは予期せぬところだったのを、二人はまるで打ち合わせをしていたかのように心が通じ合っていた。
「私たち二人は落ちこぼれ……特に私の方は父上が持て余しています」
「冬野様まで……」
「自分で言うのも情けないことですが、剣もからっきしだめで、これでは高村家の跡目を継げるのかと、皆が噂しているのですよ」
「ご冗談を……」
「本当のことですよ。私は小さい頃から冬野を知っていますが、友の私でも心配するくらい頼りない男で……」
「…………」
冬野は内心、それは新之介の本心ではないかと心配した。
というのも、二人は作戦を実行していたのだ。
冬野と菫の縁談話を、高村家から断るのは難しい。
そこで新之介が考案したのは、中原家からやはりなかったことにと断らせる作戦だった。
親同士は話が進んでいることもあり、今さら話を覆したりはしない。
であれば、菫に冬野を嫌いになってもらい、どうも頼りない男で妻にはなりたくないと思わせようと、そして菫が父に懇願すれば縁談はなくなるかもしれないという考えである。
もともと抜きんでてはいない冬野が、頼りない男になるのは簡単だった。
悔しくも、冬野をけなす言葉には事実も混じっている。
嘘と言えば嘘、本当と言えば本当と
すっかり黙ってしまった菫を見て、二人はさっそく効果がてき面したのだと思わず拳を握りしめそうになった。
会話の途切れた三人は、中原家の前まで来ていた。
「冬野様」
菫は最後に、冬野に向き直って言った。
「近いうちにまたお訪ねください。父上様にも話しておきますわ」
冬野のことを微塵も嫌いになっていないという晴れ晴れとした笑顔で、菫は侍女と共に家の中へと姿を消した。
当てが外れた冬野は、
新之介に
「弱ったな……あの娘、冬野に惚れている」
「そんなはずないだろ。菫殿とは会ったばかりで……いや、前に会ったことがあると聞いたが、私は覚えていなくて……」
そう、菫は以前にも会っていると言ったが、冬野は思い出すことができず、失礼だからとしばらく記憶をたどってみるも、結局思い出せなかった。
覚えていないということは、印象に残るほどでもない取るに足らない出会いだったのか、だが菫が覚えているということは印象に残るような出会いだったのか……
後者だとすれば、もしかしたら菫が自分のことをという可能性が考えられなくもないが、でもそれならば印象にないというのは考えにくい。
だから菫に好かれているとは思えずに、家の意向に逆らわない従順な人なのだと感じたまでである。
「裏ではいろんな女性に愛想をふりまいていたとは……」
「人聞きの悪いことを言うな」
菫の話題がそれっきりになったのは、次第に千夜のいる満月屋が近づいたからである。
千夜に会うときだけは現実を彼方に閉じ込めていたかった。
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