二十三
中天にかかる月はまんまると肥えているが、満月には一日足りない。
それでも提灯がいらないくらいに
「あの、離してください……」
しっかりと握り合わされた手から伝わる冬野の温もりはうれしいけれど、誰かに見られてはいけないと千夜は懇願する。
「言ったでしょう。離せばどこかへ行ってしまうから、こうして繋ぎとめていないといけません」
「もうどこにも逃げませんから」
言葉通り、千夜がどこにも行かないことを冬野は信じていた。
けれど手を離そうとしないのは、言わずもがな。
太陽が輝くときは忍んで逢瀬を重ねることしかできない二人は、月が輝くときにしか堂々とできない。
この刹那だけは好きにしていたいという冬野の気持ちが千夜にも伝わって、千夜も黙々と冬野に手を引かれるままに歩いた。
満月屋まであと少しというところで、冬野が言った。
「人の愚かさを目の当たりにしているお千夜さんなら、太一さんとかやさんの
だがら、何も恐れることはないと背中を押された千夜は、満月屋の戸口を開けた。
「お千夜ちゃん……!」
疲れ切った顔をしたかやは、千夜の姿を見るなり駆け寄って抱きしめる。
瞬間、
「心配をかけてごめんなさい……勝手に出て行って、ずっと黙っていてごめんなさい……」
「いいんだ。お千夜はこれからはもっと幸せになんなきゃいけねぇ……亡くなった両親の分も可愛がってやる」
安心させるように頭を
「お千夜ちゃんの居場所はここよ」
月明かりに導かれた場所に
「ご迷惑をおかけしました」
冬野と同じく千夜を探していた新之介と音十郎も、ほっと息を吐いて頭を上げる千夜を見た。
「無事に見つかってよかったです」
「もう面倒はかけるなよ」
太一がすぐに出汁茶漬けを作って皆に振る舞う。
寒い中を走り回った身体にはよく染みて、千夜だけの箸の動きが遅かった。
「もしや風邪をひいてしまったのでは……」
心配そうに問いかけた冬野に千夜は首を振る。
だが、千夜は何かしらの悩みを抱えているように見えて、いち早くその訳がわかったのは新之介だった。
「冬野は、今日はうちに泊まっていることになっているので安心してください」
ああ、なるほどと、冬野も千夜の不安に思い至った。
夜中になっても家に帰らない冬野が、また謹慎させられるようなことになるのではないかと不安だったわけである。
冬野を伊東家に泊っているようにしたのは新之介の機転であり、当の冬野は父に叱られてしまうなどとは考えもしないほどに、今の今まで千夜のことだけを考えていたのだ。
音十郎は茶漬けを食べ終えると店を辞した。
冬野と新之介も千夜たちに見送られて店を出たときには夜四つ(午後十時ごろ)になっていた。
「にやにやするな、気持ち悪い」
顔には出さないように気を張っていたはずで、しかも今宵の千夜との出来事など新之介は知らないであろうに、まるで心の中を見透かされたようで冬野は
まだ生々しく残っている感触を思い出して、今度は本当ににやけそうになるのを必死でこらえる。
しかし心が浮かれようと、まだ終わってはいなかった。
音十郎の手下を務める
男たちは先日、千夜を襲った者たちで、音十郎から早く見つけて捕らえるようにとの指図を受けていたのである。
調べれば
あとは機会を見て捕らえればいいだけで、巳之吉はその機会を狙っていた。
まさに絶好の機会が、というところで巳之吉よりも先に、男たちの前に出た人影があった。
「あいつ……」
敵討ちをするかのようないで立ちで男たちに挑んだその人を、巳之吉の知っている人物である。
堂々と立ち向かったのはよいが、見ていて心配するほどに分が悪い。
途中でもう一人が加勢して、ちょうど二対二の構図になった。
(どこの三文芝居を見せられてるんだ……)
武士が加担している事件ほど、厄介なものはない。
町方が取り締まれるのは町人が起こす事件だけで、武士が関わっている事件は内々に消されてしまうものがほとんどである。
巳之吉としては武士に関わってほしくないのを、男たちに歯向かってゆく人物たちは若い旗本だった。
これで大怪我でもされればたまったものではないと巳之吉も加勢しようとしたとき、音十郎が止める。
「旦那が教えたんですが?」
「さあな」
音十郎はあの旗本たちに花を持たせようとしている。
町人の女に惚れた世間知らずの若侍、と出過ぎたことは言えなくて、音十郎の旦那も甘いというのも、巳之吉は心の中でぼやいた。
約四半
巳之吉が意外だったのは、冬野と争っていた男の方は散々に殴られて力をなくしている。
怒らせたら怖い男だと、ぼろぼろになって肩で息をしている冬野を見て思った。
「今度は目に見える傷じゃなくてよかったな」
冬野と新之介の身体は痣だらけになっている。
切り傷や重症なところがないのも幸いだった。
「冬野を怒らせてはいけないことは充分にわかった」
「早くお千夜さんには心の底から安心してほしかっただけだ」
好いた人を守るために温厚を脱ぎ捨てて鬼になったのだと、新之介は親友を恐ろしくも誇らしく見ていた。
その後、男二人は江戸払いとなり、一件落着したのであった。
「いま、何と……」
高村主計は思わず聞き返した。
高村家と同じく御書院番に属し、その番頭を務める中原家当主の言葉が、にわかには信じられなかったのである。
部屋の中には主計と、中原家当主だけがいる。
内々の話があると主計が呼ばれて来てみれば、それは予想だにしない話であった。
「
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