二十四

日本橋富沢町にある春日屋は油問屋なだけあって、店の中にはぷんと癖の強い魚油の匂いが立ち込めている。

植物油も扱っているが、独特の臭みのある魚油の香りには勝てないようだ。


長時間を店で過ごす主人や奉公人たちは、すでに身体にまでその匂いが染み込んでいるのではないかと思いながら、定町廻り同心の荒木音十郎はさっと店内を見回した。


「相変わらず、平和そうで何よりだ」


「はい、こうして見回りに来てくださる荒木さまのお蔭でございます」


音十郎に応対しているのは春日屋の主人、喜左衛門である。

名前に似合わずまだ三十にも届いていない若い主人は、昨年に店を継いだばかりであった。


喜左衛門はそっと、音十郎にある物を差し出す。


同心が商家におとなうのはめずらしいことではない。

何軒かは昵懇じっこんにしている商家があって、町廻りの際に訪れては袖の下をもらっているのであった。

それは、何かあったときは頼みますという意味である。


「こいつは美味そうだな」


だが、音十郎は決してどの店でも袖の下を受け取らない。

特に必要ないというのが、音十郎の信念である。


春日屋だけの話であるが、袖の下の代わりに音十郎が受け取っているのは菓子であった。

しかもとびきり甘い羊羹ようかん饅頭まんじゅうである。


伝法な口調が似合う音十郎の、意外な好物だった。


「ととさま!」


弾んだ声で喜左衛門に向かって女の子が兎のように走ってきた。

飛び込んできそうだった女の子を制して、喜左衛門は音十郎の前にきちんと座らせた。


「ご挨拶しなさい」


「お君です。いらっしゃいませぇ」


女の子は喜左衛門の長女、君である。

教えられたのか、小さい手をついて礼儀正しくする姿は微笑ましいものである。

大抵の子どもは皮肉めいた笑みを浮かべる音十郎を、ましてや圧のある同心を怖がってしまうが、君だけは物怖じしなかった。

少々、いや大分おきゃんな子どもでもある。


「おう、何かおすすめはあるか?」


「えっと、卵焼きです!」


にっこりと目を細めて笑う君は、その頭に卵焼きを思い浮かべているのだろうか。

満足したように、喜左衛門の肩の上に乗ってじゃれ始めた。


「いつからここは飯屋になったんだ」


「この前食べた卵焼きが忘れられないみたいで……」


喜左衛門は苦笑を浮かべて答えた。そして思いついたように打ち明ける。


「実は……」






武家は堅苦しくて居心地が悪い。

これは常日頃に冬野が感じていることで、中原邸に招かれた今もひしひしと感じていることだった。


道場での稽古が終わって千夜との逢瀬を交わしている時分、中原仁兵衛じんべえに招かれているからと否応なしに父に連れてこられたのである。

中原仁兵衛は御書院番頭を務めていて、つまり父主計の上役にあたるので、粗相そそうはできない。


所作や表情一つに気を張り詰めていなければならなく、溜息を吐きたい気持ちである。

本心は屈託なく千夜と話していたかった。


しかし何故、父だけでなく自分までもが招かれたのか、判然としない。


「ご立派なご子息で」


さっそく仁兵衛が世辞を言ったので、冬野は軽く頭を下げて恐縮する。

威厳に満ちた仁兵衛は微笑んでいるものの、その重圧は父を超えていると感じた。

しかも声に重みがって、余計にである。


「とんでもございません。この歳になってようやく剣術に身が入ったと思えば、まだまだ腑抜けで困ったものです」


何もそこまで人前でけなさなくてもよいのではと、少し父が恨めしい。


「いやいや、武士は真面目なのが一番だ」


早く帰りたい、と一瞬でも思ってしまえばたちまち仁兵衛の目がつり上がりそうな気がして、冬野はてのひらにじわりと汗をかいた。


「失礼いたします」


緊張の場に、涼やかな声が割って入った。若い娘がお茶をも持ってきたようである。

やっと一息がつけると安堵あんどした。


「私の娘、すみれにございます」


良い身形みなりからしてそうではないかと思っていたが、やはりだ。

お茶を配り終えた娘は仁兵衛にうながされて、丁寧に腰を折る。


歳の頃は千夜と同じくらいだろう。目鼻立ちが整った凛々しい顔をしている。


主計も本心か世辞かわからないことを二言三言ほど口にして、冬野は勧められるままに湯呑を取った。


「菫、私は主計殿と話があるから、冬野殿を庭に案内してさしあげなさい」



広大な庭には百日紅さるすべり菖蒲しょうぶ桔梗ききょうが見頃を迎えて咲き誇っている。

夏になる前の気配をただよわせて、風に揺れて重なり合う音が清々すがすがしい。


「とても壮観な景色……このような庭は初めて見ました」


「おばあさまの代からたくさん植えましたの。

四季折々の花を楽しめますから、いつでも飽きませんのよ」


春には春の花を、というように毎日何かしらの花が咲いている塩梅である。

冬野はふと、花を贈ったときの千夜の顔を思い出した。

千夜にこの庭を見せたら、あの心が和む微笑みを浮かべるに違いない。


「桔梗がお気に召されましたの?」


まさか意中の人のことを考えていてぼうっとしていたなどとは言えず、見つめた先が桔梗だっただけに菫が勘違いしてくれたので幸いする。


「はあ、この中では……」


とぼけた返事までもを回避できない冬野である。


「では、あとで少しお分けいたしますわ。

父上さまや兄上さまは花に見向きもいたしませんのに、お珍しいですのね」


「おかしいでしょうか……?」


もっとも、ついこの前までは花に見向きもしなかった男である。

千夜と出会った頃に咲いていた梅の花が、冬野の目に花を映すようにしてくれたのだ。


菫は首を振って、笑んでみせた。


「武士にも、花の教養は必要と存じます」


「太田道灌どうかん殿の説話にもありますな」


かの千代田城を築城したことで有名な太田道灌には、ある説話が存在する。


道灌は外出した際に雨に降られてしまった。

農家を見つけたので蓑笠を借りようとしたところ、農家の女に蓑笠ではなく山吹の花を手渡された。

憤慨して帰ってしまった道灌が、あとで家臣から聞いてわかったのは、女は蓑笠を持っていないという意味を込めて山吹を渡したことである。

七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき。

という古人の歌になぞらえて、女は山吹の花を渡していたのだ。

それから道灌は、歌に乏しい己を恥じて猛勉強し、歌の道に明るくなったという説話である。


「まあ、冬野さまは物知りですのね」


褒められたことが気持ちよくて、偶々たまたま知っていただけという事実は伏せる、山吹の花がいつ咲くのかも知らない冬野であった。


「冬野さま……」


はきはきと話していた菫が、ここにきて遠慮がちに尋ねた。


「以前、お会いしたときのことを覚えておりますか?」


冬野は瞬きをして、考え込む。

菫の面影を、頭の中にある記憶の中に見つけることができなかった。

てっきり初対面だと思っていただけに、失礼なことをしてしまったと嘆いたところで、思い出せないのだからどうもできない。


沈黙した冬野に菫は顔を曇らせて、少し経てば愛想のいい表情に戻っていた。


「あちらでお茶でも」



庭に連れたって歩いている冬野と菫の姿を、仁兵衛がうなずきながら眺めていた。


「なかなかお似合いではござらぬか」


「恐れ多いこと……本当によろしいので?」


「前々から高村家とは結びつきを強固にしたいと考えておったのだ。

その方にとっても、悪い話ではあるまい」


左様でと言って、主計は承知の意で平伏した。

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