十四
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし、と古人が詠んだように、どこか人々が浮足立っている春の日である。
すっかり慣れた神田の道を歩くのは、冬野と新之介だった。
「あのときのお千夜さんは武家の息女と
新之介が言うあのときとは、千夜が伊東家に身を寄せていた折に開催された梅見のことである。
幾度となく聞かされた冬野は
新之介はもちろん冬野の気持ちを
「また自慢か」
「いなかった冬野のために話してあげている。
それに、上野で
稲荷神社で千夜と話すときは、特に新之介の話をすることが多かったのは事実である。
幼馴染であり、同じ道場に通っている間柄でもあるので、とかく冬野と新之介が一緒にいることは多かった。
なので自然に新之介の話が多くなったのだが、ふざけてばかりで
千夜が伊東家に身を寄せていたときに、千夜本人からいつも楽しい話をしてくれたと新之介に伝わっていたのだった。
あれこれ言い合っている
満月と飛び跳ねる兎が描かれている紺色の
開け放された戸口の向こうからは揚げ物の匂いが
暖簾を潜った二人を、花の咲いたような笑みで迎え入れたのは千夜だった。
「いらっしゃいまし」
「すっかり看板娘が板につきましたね」
新之介の言葉に反応したのは、満月屋の主人の太一である。
「そりゃあもう。働き者で助かってますし、客足も増える一方でして」
千夜が満月屋で働き始めたのは一月前で、お玉稲荷神社で太一夫婦と出会い、ひょんなことから店を手伝うことになった千夜は、そのまま満月屋で働くことになったのだった。
住居も太一たちの家の部屋を一室あてがってもらっていたので、千夜は仕事も
実は北町奉行同心の荒木音十郎も仕事の合間に千夜の働き口を探していて、満月屋に目星をつけていたのだが、音十郎が太一たちに頼み込む前に、すでに千夜が働くことになったという
千夜は自身の生い立ちをすべて正直に、太一とかやに話してはいなかった。
わけがあって家には戻れなくなったとだけしか言えなかった千夜に、二人は問いただすことはしなかった。
心苦しいが、妾をしていて、しかも相手が罪人になってしまったと言えば満月屋に雇ってもらえなくなると思い、二人が何も聞いてこないのを幸いに、千夜は口を閉ざしている。
冬野や音十郎も、わざわざ千夜の生い立ちを告げ口するわけがないので、千夜はやっと平穏な居場所を手に入れたのだ。
「まだまだご迷惑をかけてばかりです」
温厚な太一夫妻に可愛がられている千夜は、まだ慣れないながらもつつがなく料理屋で働いていた。
「ひなが寂しがっているので、今度は連れてきますね」
冬野と新之介は道場帰りによく満月屋を訪ねては、美味い料理に
新之介は
料理屋で働く町娘として落ち着いた今、千夜が気軽に武家屋敷に尋ねられるわけもなく、新之介たちから満月屋を訪ねていたのである。
「お千夜さんの淹れてくれるお茶はいつも美味しいです。
稽古終わりの体によく染み渡ります」
「おかやさんの教え方がいいんです。それに、冬野さまは飲みっぷりもいいから、見ていてこっちが気持ちよくなりますよ」
いやぁ、と照れ臭く笑った冬野たちの注文をとった千夜が厨房に戻ったあとで、新之介が言った。
「ありきたりな口説き文句をほざいている場合ではなさそうだぞ」
「な、急に何を……」
「気づかないのか?」
「だから、何を……」
「相変わらず
「お前に言われたくはない」
「満月屋は若い男に人気みたいだな」
新之介の言葉に冬野は辺りを見回す。
言われてみれば、店の中には若い男が多いと、今さらながらに気づいた。
職人が休みの合間に食事を、という目的で来た者もいるかもしれないが、そうではないのが大半だとはさすがに勘が働いた。
愛想よく立ち働けば、骨抜きにされる男がいるのは当たり前だった。
千夜のことしか見ていなかった冬野は、やっと
冬野は秘めに秘めていたことを決行しようと、表情の
家を出たときには意気込んでいた足取りは、千夜の姿を
このまま手をこまねいていれば、いつの間にか千夜は他の誰かのものになってしまうかもしれない。
新之介が気づかせてくれた焦りに背中を押され、一人満月屋を訪ねたのであった。
「冬野さま、お加減でも悪いのですか?」
「いえ、私は何とも……」
緊張に満ちた面持ちは、千夜を心配させるだけだった。
「あの……お千夜さん」
愛くるしい微笑を浮かべて、千夜は言葉を待っている。
言わなければ……
なのに声は喉元にも上がってこなかった。
「……揚げ出し豆腐を、一つ」
「かしこまりました」
言いたいことは言えないまま、冬野はやがて運ばれてきた料理に箸をつける。
考え込んでいた頭で口に運んだ料理に、思わずおっとなった。
「今まで食べた揚げ出し豆腐の中で、一番美味しいです。特に餡の味が、たまりません」
さらにかけられた踊る鰹節が、口中に出汁を感じさせてくれる。
食べやすさや味、どれも絶妙な組み合わせで、優しい味がした。
「それはお千夜が作ったんですよ」
うれしそうに顔を出したのは、太一だった。
千夜を見れば、恥ずかしそうに
「冬野さまは何でも褒めてくださるから……」
「本当に、美味しいです」
自分の言に嘘偽りはないと胸を張った冬野に、千夜は小さくお辞儀をした。
千夜の隣にいるおかやも太一同様に、我が子を褒められたように誇らし気な表情をしている。
「いつでもお千夜ちゃんをお嫁に出せるように、腕を磨かせているのよ」
大店の娘時代は使用人に任せて、妾をしていたときも通いで身の回りの世話をしてくれる老婆がいたので、千夜は家事一般をまったくしたことがなかった。
そんな千夜に太一とかやは料理から裁縫まで教えているので、はじめは危なっかしい手つきだったものの、何とかこなせるようになっていたのだ。
千夜は歳にして十七である。
すでに嫁いでいてもおかしくはない年齢なので、太一とかやは千夜がお嫁にいっても恥ずかしくないように育てているのだった。
かやの言葉に、冬野が勢いよく立ち上がった。
「お千夜さんは、お嫁にいく予定があるのですか」
真剣な冬野の様子に周りはぽかんとして、やがて太一が言った。
「例えばのお話ですよ」
かやがくすくす笑い出したのを機に、太一までもが笑い出してしまう。
真っ赤な顔で座り直した冬野は、とても千夜の顔を見れなかった。
恥をかいたような心地のまま飯を平らげて店を出た冬野を、いつものごとく千夜が見送りに出た。
こうなれば恥の上塗りだと変な気合いがみなぎり、冬野は覚悟を込めて千夜に告げた。
「一緒に……お花見に行きませんか?」
梅見に行けなかった口惜しさに、ならば桜を共に愛でたいと千夜を誘った。
千夜の想いは計り知れないが、少なくとも信用してはもらえているだろうと、そして千夜が誰かに誘われる前に誘おうという、冬野の一大決心である。
「折角ですけれど、お店の手伝いもあるので……」
「そ、そうですか……」
千夜は絶対に、うんと言ってくれるものと思っていた冬野は、あからさまに動揺する。
その気持ちは
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