十五

生まれて初めて真剣での立ち合いを果たした冬野は、ある種の自信がついたのか、それとも剣に臆する気持ちがなくなったのか、道場での稽古に身が入るようになっていた。

だが、元々の苦手がすぐに克服できるわけはなく、目覚ましい成果をとはいかなかったものの、本人の姿勢が変わったので、師範からも最近は良くなったと褒められるにまで至った。


慢心していい気になることはせず、剣術に打ち込むようになった冬野を、側で見ていて感心していた新之介だったが、その日の冬野は様子がおかしいことに気づいた。


いまひとつ力が入っていないような、言ってしまえば腑抜けの様相だった。

目に見えてわかるほどひどくはなかったのだが、親友なればこそ、冬野の心の内がわかるところである。

それで道場帰りに、新之介が聞いた。


「何かあったのか?」


「いや、別に……」


と、最初は口ごもっていた冬野は、徐々に心のつかえを打ち明け始めた。


「先日、お千夜さんを花見に誘ったが、断られた。

少しは好かれていると思っていたんだがな……」


ここにきて、冬野はがっくりと肩を落とした。


「お千夜さんは、冬野のことを好いている」


新之介の言葉に背筋を張った冬野は、しかしそれはただの慰めだろうと、再び浮かない顔をする。

新之介には冬野の心中はお見通しであった。


「わからないのか。

冬野の誘いを断ったのは、遠慮をしているからだ」


一時、伊東家に身を寄せていた千夜は新之介だけではなく、新之介の父の左馬之介や妹のひなとも打ち解けていた。

千夜が伊東家を出て行くときに、気軽に遊びに来ていいと言われた千夜は、その後一度として伊東家の門を潜ったことはない。


つまり千夜は、身分をきちんとわきまえている。


旗本の子息である冬野と二人きりで花見を決め込むことはできるわけがないと、自身の恋情を置き去りにして冬野の誘いを断ったのだと、新之介は断言した。


「そんな、俺は……」


気にしない、という言葉を冬野は飲み込んだ。


冬野が気にせずとも、または千夜が気にしなかったとしても、当人たちの思いではどうにもできないことを、冬野もわかっていた。


いくら千夜を想っていても、具体的に、千夜と添い遂げたいと口にできないのは身分の壁である。

どんなに千夜との未来を思い描いたところで、終わりが見えてしまうのだ。


それでも千夜に会いに行くのは、想う気持ちが消えないからだった。


「私に、いい考えがある」


冬野を励ますように、新之介が笑った。






めずらしく満月屋を一人で訪れた新之介は、出された料理を食べ終えた後で太一たちに言った。


「実は今度、冬野と花見をしようと思っているのです。

ぜひ満月屋の料理を食べながら桜を愛でたいのですが……」


「お安い御用です。腕によりをかけてお弁当をこしらえましょう」


太一が張り切って答えた。


「どうも男だけですと何もできないもので、お給仕をしてくれる方……お千夜さんにも同行していただきたいのですが」


話を向けられた千夜は、迷っている様子である。

千夜の背中を押したのはかやだった。


「いいじゃない、お千夜ちゃん。

私たちはもう歳で遠出ができないから。新之介さまたちのことを手伝ってあげなさいな」


千夜はおずおずと頭を下げて、了承した。



三日が経った花見当日、満月屋の前には三ちょうの駕籠が止まっていた。

花見は向島の、俗にいう墨堤ぼくてい洒落しゃれこもうと決めている。


冬野と新之介が満月屋に着いたあとで、かやに伴われた千夜が奥から現れた。


「おお、これは……」


新之介がそう声に出したのは、梅見のときを思い起こしたからである。

梅見のときとは違って髪型や服装こそ町娘だが、薄化粧をしてめかし込んだ千夜の姿は気品が感じられた。


「お給仕で行くのに、こんな姿で……」


伊東家の厚意で梅見の一座に加えられた千夜は武家風の格好をしたものだが、今回の花見は給仕の役割で行くのにめかし込む必要はないと、はなからいつもの格好で行こうとしたのを、かやが止めた。

一生懸命に着飾らせようとするかやに千夜は、給仕なのに、恥ずかしいと訴えたのだが、

「花見のときは誰もが浮足立って、女中だろうと気合を入れるものよ。

それに、満月屋の看板娘として行くのだから、ね」

と、かやは千夜を説得して、普段よりも一段と花を咲かせた千夜がいた。


ばしっと、新之介が冬野の背中を叩いたのは、冬野が千夜を見ても何も言わなかったからだ。


「あ、いや……あまりの美しさに見惚みとれてしまって……」


「また、冬野さまったら……」


湯気の立った顔で、早く行きましょうと太一の用意した弁当箱を持って、千夜はそそくさと店を出て行ってしまった。


「あらあら」


「あんまり、お千夜を揶揄からかわないでくだせぇ」


かやと太一が、微笑ましく千夜を見送った。


「私は本気で……」


「おい冬野、惚気のろけてないで行くぞ」



墨堤は季節とあって、花見客でごった返していた。

桜に風流を感じている者などごくわずかで、周囲は飲めや歌えやの大騒ぎである。

気恥ずかしかった千夜も、花見の雰囲気にのまれて緊張がほぐれていた。


「冬野さまはよくお花見をされるのですか?」


「いえ、小さい頃に親戚が集まってした一度きりです。

たまには花見もいいだろうと……」


「父さまと母さまが生きていらしたときは、毎年花見をしていたんです。

だから、懐かしくて……」


(そろそろか……)


和気あいあい二人が話しているのを聞きながら、新之介は急に立ち止まった。


「いた……いたたたたた」


新之介は腹を抑えて痛みを訴え出した。

あわてて冬野と千夜が側に寄ると、二人を制した。


「すぐに駕籠を……」


「医者を呼ぶまでもありません。少し、あたったようです。

すまないが、二人で楽しんでください」


では御免、と新之介は二人の前から姿を消してしまった。


心配そうに新之介の消えた方を見ている千夜とは別に、冬野は友の心遣いをわかっていた。

事前に示し合わせてというわけではなく、これは新之介が独断で行ったことだった。


「大丈夫でしょうか……」


「どうやら、私たちに気を利かせたようです」


振り向いた千夜も、新之介の意図がわかったようである。


何となく無言になって、やがて冬野が言った。


「お千夜さんは、嫌ですか?」


一度は断られた花見を、給仕という形で千夜を同行させた。

新之介の推量を信じるならば、千夜は冬野と花見をすることが嫌なのではなく、身分をわきまえない行動ができなかったから花見を断っている。


だが、千夜に無理強いをしてまでも花見をしたいとは冬野も考えてはいない。


「私には、夢のようで……」


もしも花見の雰囲気が、千夜をそう決断させたのならば、花を愛でるのも悪くはないと、冬野には舞い散る花弁がやけに色鮮やかに見えた。


戸惑う千夜の手を、冬野が引く。


歩き出してすぐに離れた手は、この瞬間が夢ではないとわかり切っている二人の意思だった。

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