十三

「わかっていたんです。

でも、どうしても父さまと母さまに会いたかったから……」


千夜は裏口の前で待っていてくれた音十郎に、ぽつりと言った。


それは位牌を拝みたかったから、という意味とは別に、大好きな両親の思い出が詰まった実家で、過去の思い出に会いたかったからという気持ちもあった。


しかし夕顔屋には千夜の居場所はなくなっていて、両親の残影も見ることはなかったのである。


「近くの茶店で一服してけ。俺の奢りだ。

早く忘れちまえよ」


音十郎の慰めに泣きそうになりながら、千夜は駕籠に身を入れた。

道中、駕籠の中から聞こえたすすり泣く声を、音十郎は聞こえないふりをした。


音十郎に案内された茶店は、気軽に飲み食いできる茶店というより、料亭とまではいかないが、小洒落た雰囲気があった。

店の人に千夜を二階の座敷に案内させた音十郎は、そのまま階下にとどまっている。


ほどなくして、店の外から新之介が姿を現した。


音十郎の顔が憮然ぶぜんとしているのを見た新之介は、音十郎から千夜が家を追い出されるのではないかという不安を事前に聞いていたのだが、その通りになったことをさとった。


虫唾むしずが走る話ですね……」


「千夜が山ノ井の妾をしていたときに、墓参りに行った千夜を叔父夫婦はすごい剣幕で追い返したことがある。

そんな奴らだっていうのを聞いて、もしやと思ったが……」


両親の命日に寺を訪れた千夜は、ばったり叔父夫婦たちと出くわして、妾が夕顔屋代々の墓をうろうろするなと怒鳴り帰されたことがあったのだ。

音十郎は寺の近所の岡っ引きに聞いて知ったのだが、不安はあれど、まさか晴れて自由になった千夜を追い返すことはないだろうとも思っていただけに衝撃が大きい。


それで新之介も心配になって、あらかじめ待ち合わせていた茶店に来たわけである。



「お千夜さん」


千夜が案内された部屋の中に入ると、求めていた姿と懐かしい声があった。


もう会えないかもしれないと思っていた心は嘘で、やはり会いたくて仕方がなかったのだと、晴れて謹慎の解けた冬野を目の前にして千夜は思い知らされる。


冬野もまた、再会を心待ちにしていたのだが、千夜が茶店に来たということは実家を追い出されたのだとわかって、うれしいよりも憐憫れんびんの情が勝った。


「きちんとお礼を言えていなかったから、会えてよかったです。

その節はありがとうございました」


「お礼なんて……それよりも……」


実家を追い出された千夜は、これからどうするのだろうか。

身を寄せるあてはあるのか。

まず心が打ちのめされているのではないか。


どんな慰めの言葉も千夜を傷つけてしまう気がして冬野は何も言えないでいたのだが、千夜はどこかあきらめたような顔をしている。


泣きつきもしない千夜が、痛ましかった。


充分な言葉もかけられないまま冬野は千夜と階下に降りると、すでに音十郎は去った後だった。


新之介がしばらく伊東家に身を寄せるようにと勧めても、千夜は固辞した。

すでに至れり尽くせり伊東家には世話になっていて、そのうえまた身を寄せるなどはおこがましくてできないという、千夜の考えである。


元は大店の娘だった千夜は、世間を知らないところがある。

実家を放り出されて一人で身を立てられる術を心得てはいない。


だが、生きていくためには、昔の生活では考えられなかったとしても、その手で稼がなければならないのだ。


「働き口が見つかるまで、宿に逗留します。お金はもらいましたから」


「せめて、宿屋までは送らせてください」


心細かった千夜は、冬野の申し出に甘えた。



馬喰ばくろ町には旅人宿が多いので、千夜はその内の宿に泊まろうと足を進める。

千夜たちがいた茶屋は夕顔屋からは近い日本橋本町にあって、北東を目指せば馬喰町にたどり着けるのだが、あえて神田を回って行くことにした。


日本橋界隈を歩いていて、昔の知人にでも会ったら気まずい思いをするし、同じ商家ともなれば夕顔屋とは付き合いも多く、千夜の事情を知っている者が多いだろうと、遠回りを決めたのである。


ついでに神田で当分の日用品なども買って、何となくぶらぶらと冬野と二人、神田の町を歩いていた。


「買い物にまでつき合わせてごめんなさい」


「これくらい、苦ではありません」


嫌な顔一つせずに歩き回ってくれる冬野は、やはり千夜には心安らぐ存在である。


あとは馬喰町に行って宿を探すだけだというのに、二人の足はなかなか進まない。

千夜は宿を見つけて冬野と別れてしまえば疎遠になってしまい気がして、冬野といえばそんなつもりはさらさらないのだが、ただ千夜に寄り添っていてあげたいと思う気持ちが、彷徨さまよい歩く理由であった。


「折角なので、お参りでもしませんか?」


冬野がそう提案したのは、歩いているうちに稲荷神社に行き着いたからだった。


二人が出会ったのは上野の稲荷神社であり、ゆかりがあると思ったのはお互いに言うまでもなかった。

正確には、二人が参拝を決め込んだのはお玉稲荷大明神といって、神田は岩本町にある。


上野にある稲荷神社はどこにでもぽつんとあるありふれたものだったが、お玉稲荷大明神は手入れも行き届いていて多くの信仰心を集めていることがうかがえる。

境内に足を踏み入れると、入る前には陰になっていて見えなかったのだが、祠の脇に老夫婦らしき人物がいるのがわかった。


女の方は気分悪げに座っていて、男はそんな女の額に水で浸した手拭いを当ててあげている。


如何いかがされましたか?」


どちらからともなく、冬野が尋ねた。


「女房の具合が悪くなっちまって……」


人のよさそうな男は、五十を過ぎたくらいか。

女も同じくらいに見える。


「駕籠を呼びましょう」


「いや、うちのは駕籠が苦手で……余計に気分が悪くなってもいけねぇんで」


自分は数日前に腰を痛めていて、女房を背負うこともできない不甲斐ない夫だと、男は苦笑する。


「年寄りは難儀なもんで……

少し休めば治るだろうから、気にせずお参りをしてくだせぇ」


冬野と千夜は顔を見合わせてうなずいた。


「お千夜さん、遠回りをしますね」


「はい。見過ごせませんもの」






「不都合はありませんか?」


「駕籠よりうんとよいです。お武家様に、申し訳ねぇ……」


冬野に背負われた女ーーかやはまだ体調がすぐれなかったが、安心したように冬野にもたれかかっている。

武士ともあって、背負われることに躊躇ためらいを見せていたのだが、冬野には威圧感がまったくないといっていいので、かやと夫の太一はすぐに気を許した。


二人は神田相生あいおい町にある「満月まんげつ屋」という料理屋を営んでいる。

店の奥にある二人の住居にかやを運んで、そのあとは医者を呼んだり千夜が介抱したりして、かやは眠りについた。


すっかり夕暮れ時になって、太一は店の準備を始めた。


「今日は近くの家のもんの、親戚の集まりがあるんで店を開けないといけねぇんです。

まあ貸し切りにして決まった人数なんで、俺一人でもなんとか」


満月屋は太一夫婦だけで営んでいる。

かやが店に出られないので太一が一人で切り盛りをするしかないのだが、今日は運がよかったと、目尻のしわが優しい太一が笑う。


「あの……差し出がましいかもしれませんが、お手伝いいたしましょうか?」


千夜がおずおずといった調子で言った。


「料理を運んだり、器を洗うくらいならできます」



かくして満月屋を手伝うことになった千夜は、店の門前で冬野と別れを決め込んだ。


「お千夜さんは優しいですね」


「優しいのは冬野さまの方です。

困っている方を見捨てられない心に、私も救われました」


「お千夜さんの前でいい恰好をしているみたいだ」


「冬野さまはそんな人ではないと、知っていますから」


千夜の自然の笑みは純粋で、とても妾をしていたようには見えないと、変なことを考えてしまったと冬野は心の中で頭を振る。


満月屋での手伝いが終わったあとで、千夜は宿屋に向かうことになった。

神田相生町から馬喰町までは近いので心配はないと千夜に言われた冬野だったが、最後まで付き添えないことに申し訳なく感じてしまう。


「私も、冬野さまみたいに困っているお人を助けてあげられるようになりたいんです。

今まで助けられてばかりでしたから……」


やはりまっすぐな目で見つめられて、面映おもはゆい。

冬野自身は、自分が大したことをしたとは思っていなくて、千夜にそこまで言われることが意外だった。


そうでなくても千夜との別れは名残惜しい。

一向に去れないでいるところで、後ろからするどい声が降ってきた。


「何でここに、お前たちがいるんだ」


冬野が振り向くと、そこには音十郎がいた。


馬喰町に向かうはずが神田相生町に行き着いた経緯を冬野が説明して、音十郎は苦笑した。


「俺が頼むまでもなかったか……」


「「……?」」


冬野と千夜はその意味がわからなかったが、音十郎は補足せずに、せいぜい頑張れよという言葉を残してきびすを返した。


沈みかけた西陽が辺りを茜色に染めて、まだ寒い風が二人の頬をぜた。

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