千夜が伊東家に来てから、半月が経っていた。

り切れそうだった精神は、主税から解放されたことでゆとりができ、特に伊東家の人々が親切であったため、千夜の体調はすこぶる良くなった。


痩せ細っていた身体は肉を取り戻し、名のある商家の娘ということに違和感がなかったのは、妾に転落しても気品は削げていなかったこともある。


ただ飯を食わせてもらうのも気が引けた千夜が、下働きでも何でもすると言ったのを、左馬之介は決して首を縦には振らなかった。

そもそも療養で千夜は伊東家に厄介になっている。

いくら良くなったとはいえ、下働きをさせることはできなかったし、させるつもりもないと左馬之介は断言した。


千夜は、一日のほとんどをひなと過ごしている。

寝るときも一緒で、日中はひなに琴を教えてあげていた。


梅見でもしようと左馬之介が言ったのは、そんなある日である。


梅見は、伊東家から近い場所に存在する戸次とつぎ家で行う段取りがすでに決まっていた。

戸次家は左馬之介の母の生家であり、つまり親戚である。

立派な梅の木が何本も植わっていて、梅見にはもってこいの場所だった。

梅の盛りはもうすぐ終焉を迎えようとしている。

千夜もいるのだから今のうちに宴をと、すべては左馬之介の計らいであった。


「ちょうど琴の名人が家に来ていると言ったら、是非に演奏を願いたいとのことだ」


千夜は皆の視線が集まって、下を向く。

左馬之介に褒めてもらえたことはうれしいが、武家屋敷で行われる宴で披露するなど恐れ多くて、すぐに断ろうとしたとき、奥から女の声が聞こえた。


「左馬之介」


「む」


その声に、左馬之介だけでなく、新之介とひなも身体を強張らせた。


がらりと障子戸が開いて中に入ってきたのは、左馬之介と同じ年頃の、武家風の女だった。


「この家の人ときたら相変わらずなんだから。私が来ても、ちっとも気づきもしないで。

それより、梅見をするって聞きましたよ。

私に声もかけないなんて、本当に気が利かない弟だこと」


年頃と、左馬之介を弟と称したところから、丁寧な口調でまくし立てる女は左馬之介の姉なのだろう。

やはり武家の人間であるので、せかせかとしていてもたたずまいには、身分いやしからざるといった雰囲気があった。


「誰から聞いたのだ」


梅見については千夜たちも今さっき、聞いたばかりである。


「戸次家からに決まっているじゃありませんか。

用があって出向いてみたら梅見をやると言うんですもの、こっちは知らないで恥をかきましたよ」


しかしよく回る舌である。

少し呆気に取られている千夜とは別に、左馬之介たちは身を固くしていた。


「琴の演奏もやるっていうじゃないの。

まさか、ひなのてんてこりんを聞かせるわけじゃ……」


そこで女が、千夜たちの方へ振り向いた。

新之介とひなが神妙に挨拶をして、千夜もそれにならった。


「あら、見ない顔ね」


女はやっと千夜に気づいて声をかけた。


「儂の知り合いの子で……」


武家の人間でない千夜が、どうして伊東家でのびのび暮らしているのかと責め立てされそうな圧が、女にはあった。

左馬之介も女の前では歯切れが悪くなっている。


伊東家の人々に、迷惑をかけてはならない。

どうしたものかという千夜の不安は、女があっけなく納得したことで杞憂に終わった。


「そう。ちょうどいいわ。暇なら手伝ってちょうだい」


女がすぐに去ろうとするのを、千夜は慌てて追いかけた。


「伯母上、お待ちください。その方は、うちに療養に来ているのです」


「今は元気そうじゃない。私だって、病人に手伝わせたりなんかしませんよ」


女が部屋を出た後で、一同は肩の力を抜いた。

あとには左馬之介のつぶやきが漏れた。


「やれやれ。また旦那と喧嘩したな……」


女は名を富美とみといい、左馬之介の姉であり、新之介たちの叔母であった。

同じ旗本に嫁ぎ、一人息子がいる。

曲がったことが大嫌いで、粗相そそうをすれば家族だろうと使用人だろうと、すぐに説教をする。

元来の気の強さもあって新之介とひなは正直、富美のことが苦手だった。

左馬之介も実の姉ながら、苦い思い出がいくつもあって、いまだに本人を前にすると委縮してしまうほどである。

そして、夫と喧嘩をして、ほとぼりが冷めるまで伊東家に厄介になるのはいつものことであった。



いつの間にか梅見は富美が取り仕切ることになり、宴が明日に迫る中、千夜は富美の指図でせわしなく働いていた。

それだけでなく、富美の身の回りの世話をさせるなど、まるで女中のような扱いを受けている。


左馬之介が千夜を働かせるなと言っても、富美には馬の耳に念仏で、取り合おうとしない。

ひなは千夜が取られてふくれっ面である。


千夜がやっと人心地がついたのは、宴前夜であった。


「伯母上がどうも面倒をかけまして……」


新之介はすまなそうに、千夜に言った。


「いいえ。お富美さまの仰ることは、とても勉強になりますの」


富美は千夜にも容赦がなかったが、理不尽に怒鳴ったり、いじめているわけではない。

立ち居振る舞いだとか言動には芯があり、叱責されるにしても納得できるほどのものがあるのも本当である。


「そう言ってもらえるのなら何よりです。伯母上は悪い人ではありませんから。

お千夜さんが扱き使われているのも、気に入られている証拠です。

それより、明日の梅見のことですが……」


縁側に千夜と腰を並べている新之介は内心で、友に申し訳なく思っていた。

こうして誰よりも千夜の側にいたいのは、冬野であるのだから。


「戸次家の隣には高村家がありまして……

まだ父上さまのお許しが得られず梅見には同席できませんが、琴の音は届くかと」


「……余計に、緊張してしまいます」


千夜は、新之介の言いたいことがわかった。


左馬之介から宴で琴を演奏するように勧められた千夜は、当初は言いそびれていたものの、後になって左馬之介に辞退を申し出た。

琴を弾かなくなって一年以上にもなるし、そもそも武家が集まる宴の席に招かれるだけでも恐縮するのに、演奏などできるわけがないと訴えたのである。


しかし意外にも、富美が千夜を叱って、演奏をするようにと千夜に有無を言わせなかった。

富美の指導のもと、琴の猛特訓が連日行われていたのだ。


きれいな音ね、と富美に褒められたときに込み上げたよろこびを、千夜は今でも鮮明に思い出せる。


「冬野は琴の上手い下手だのがわからない不風流な奴ですから」


千夜はやはり恐縮しながら、それでも冬野に琴を聞かせたいと思ってしまう自分がいることに気づいた。

冬野からしてみれば、誰が弾いているかもわからないのだから、せめて少しでも心安らぐ時間を与えてあげたいと、明日の演奏が上手くいくことを願った。

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