まぶたを開けると、心配そうにのぞき込む女の子の顔が見えた。

自身の身体は横たわっていて、いつの間に眠ってしまったのだろうかと、千夜は思う。


ここが何処どこなのか、女の子も、寝かされている部屋の天井にも、匂いにも覚えはない。

不安にならなかったのは、あどけない子どもがいたからだろう。


「おねえちゃん、大丈夫?」


「ん……」


誰何すいかしようとする前に、女の子は「兄上さまを呼んでくる」と言って、ばたばたと部屋を出て行った。


千夜は少しずつ、思い出していた。

冬野に助けられて、番屋で泣いて……あのときの感触がよみがえり、千夜は布団に顔を埋める。


しかしどうしたことか、今いる場所は番屋ではない。

千夜の記憶は、番屋で冬野に抱き着いたところで止まっていた。


「お目覚めになったのですね。丸一日も眠られていたので心配しましたよ」


先ほどの女の子と姿を現したのは、新之介だった。



よほど疲労がたまっていたのか、安心したのか、千夜が冬野に抱き着いたまま眠ってしまったのは、昨日のことである。

千夜の身は病人さながらの有様だったこともあり、小石川養生所に運ぼうとしたのだが、折角ならばと新之介が自身の家で看病をすると申し出たのである。

一つには、新之介の父ならば細かいことは言わずに千夜を受け入れてくれると踏んでいて、もう一つには、冬野の家も近かったので、気軽に二人が会えるだろうと友達思いなことをしてみせた。


かくして伊東いとう家に運ばれた千夜が目覚めたのが、翌日の昼前といったところであった。


千夜の実家にはすでに連絡がいっており、伊東家で療養することを承知していた。

身体が回復したら、音十郎が付き添って実家に帰ることになっている。


そして主税の始末であるが、昨日の千夜への凶行が捨て置けないとして、遠島の処分となった。

旗本の身分を剥奪されることは決まっていたので、実に鮮やかな処分であったという。

『大人しくしてりゃあ、なにも遠島になることはなかったのによぉ』

とは、音十郎が言ったものである。


「だからお千夜さんは気兼ねなく、うちにいてください」


伊東家は新之介と、父の左馬之介さまのすけ、妹のひなの三人家族である。

ひなは先ほど千夜の側にいた女の子で、新之介とは一回り歳が離れているのでまだ八歳と幼い。

母はひなを産んですぐに、産後の肥立ちが悪く亡くなっていた。

以来、左馬之介は男やもめを貫いている。

他には用人や女中が数人いるくらいで、人数でいえば、商家である千夜の実家の方が賑わっていた。


「あの……冬野さまは?」


「実は……」



「何処で、何をしていた」


昨日、冬野が家に帰ると腕に怪我をしているやら頬には殴られた痕があるやらで、家族をやり過ごせるわけもなく、父の主計かずえに訳を話せと呼び出されていた。


「……つまらぬいさかいでございます」


正直に打ち明ければ、激昂されるどころではない。

町方の事件に首を突っ込み、刀を抜いて死闘を繰り広げたと言えるわけがなかった。


だが、冬野の腕の傷は刀傷だと、一目瞭然である。


音十郎の計らいで、山ノ井家の騒動には冬野と新之介は関わっていないことになっていたので、音十郎や新之介が言わない限りは、主計に知られるところではない。


軽挙を起こしたと叱責されることは苦ではないが、千夜のことに触れて、もう二度と千夜と会えなくなるようなことがあればと恐れる心が、父に嘘を吐いた。


「訳は言えぬと申すのか……」


主計は常に厳格である。

ことに冬野は跡継ぎであり一人息子でもあったので、厳しく育てられていた。


主計の重い声音には圧があった。


「…………」


「たわけ!儂がよいというまで、しばらく謹慎しろ」


びしっという音を立ててふすまを閉め部屋を出て行った主計に、冬野は平伏するしかなかった。



新之介の気遣いも虚しく、冬野が謹慎させられてしまったのだが、それを聞いた千夜は、思い詰めた表情になった。


「お千夜さんが気に病むことはありませんよ。冬野も療養中ということです」


冬野も怪我をしているのは事実で、特に情けなくなってしまった面を、千夜に連日さらさなくてよかったのではないかと、新之介は言ってみせた。


とはいえ、千夜は冬野に申し訳がなくて仕方ない。

怪我をしたのも、謹慎させられているのも、自分に関わってしまったからで、詫びのしようもなかった。



伊東家当主の左馬之介が出仕から帰ってきたのは、夕刻であった。

伊東家も高村家と同じ、代々御書院番を務める家柄である。


身支度を整えて千夜が挨拶をすると、左馬之助は目を細めて千夜の無事をよろこんだ。


「お蔭さまで、よくなりました」


「まだ本調子ではなかろう。しばらくはうちで羽を伸ばすとよい」


物腰柔らかで、笑う目元が優しい左馬之助に、千夜は亡き父を重ねた。

懐かしい思い出に泣きそうになる前に、言葉をつむぐ。


「これ以上は迷惑をかけられません。帰る家もありますので、すぐにお暇申し上げます」


「遠慮することはない。我が家と思うてくつろがれるのがよろしかろう」


千夜のたもとを引いたのはひなで、にこにこと笑いかける。

見ず知らずの、いきなり家に来て寝込んでいた千夜を、ひなは小さいながらに看病していたのだった。


千夜が目覚めてからもひなは側を離れずに、話し相手になっていたのは、わずかな時間で千夜に懐いたからである。


「おねえちゃん、うちにいていいんだよ」


「妹もこの通り、お千夜さんと遊びたがっておりますから」


新之介にも家に留まるように言われ、千夜は深く頭を下げた。


実のところ、千夜は実家に帰ることを躊躇ためらっていた。

躊躇ったところでいずれは帰る場所なのだが、千夜が他の地で療養すると聞いても見舞いにも来ず、そもそも無理矢理に主税の妾にさせた叔父一家に会うのは気が引けた。


左馬之介と新之介も、音沙汰のない千夜の家族に思うところがあって、千夜を引き止めたのである。

謹慎が解けた暁には冬野に会わせたいという、新之介の意向もあった。


「ところで、お千夜さんは新之介とはどういった知り合いなのかな?」


まずい、と新之介は思った。

左馬之介には、行きがかりで千夜を助けることになり、千夜の実家の都合もあって伊東家で療養させてほしいとしか告げていない。

千夜が先日お縄になった男の妾をしていたとは、千夜に可哀そうで言えなかった。


だが、さすがに他人を家で預かるともなれば、上手く誤魔化すことはできなかったと、新之介は自身の考えが甘かったことを後悔する。

左馬之助は、その行きがかりを知りたいのだ。


「父上、それは……」


何とか言える部分だけでも話して目をつむってもらおうと新之介が口を開いたとき、千夜が新之介に目配せをした。


「この家にご厄介になるのですから、すべて打ち明けます」


隠すことで新之介に類が及ぶことを恐れ、千夜は決意した。


新之介はすまぬと表情に書いて、ひなを連れて部屋を後にする。


千夜は自らの生い立ち、そして主税のこと、贋金事件の顛末てんまつまでを左馬之介に打ち明けた。

話すうちに、自分は伊東家に足を踏み入れていいような人間ではないと、今さらながらに千夜は感じた。


元は大店の商家の娘とはいえ、その時分にも旗本の家は敷居が高く、妾にまで転落した今の身ではいわずもがなだ。

冬野や新之介が嫌悪を示さなかっただけで、武家の人間は千夜のような存在に、眉をひそめるのが普通である。


甘え過ぎていた。身の程をわきまえていなかった。


自身の愚かさに、千夜の声は消え入るようにかすれた。


「さぞかし、辛い目に合ってきたのだな」


黙々と話を聞いていた左馬之介の反応が怖くて、頭を伏せっぱなしだった千夜は、驚いて、左馬之介を見返す。

亡き父の面影が、絶えずそこにあった。


左馬之介の一言が、受け入れてくれたことを物語っている。

父さま……千夜は思わず、そう叫びそうになった。


「安心せい。高村家には告げ口せぬ」


千夜は左馬之介に、一つだけ隠したことがあったのだが、それは冬野のことであった。

左馬之介の口から高村家に伝聞されてはいけないと、触れなかったのだ。


しかし、どうも感が鋭いのか、左馬之介はわかっていたようである。


涙のあとに、何とも言えない羞恥が込み上げた。






「おねえちゃん、琴弾くの?」


千夜はひなと二人、折り紙をしていると、ひなが部屋の壁に立てかけてあった琴に気づいて言った。


その琴は千夜の物であり、妾宅にあったのを持ってきてくれたのだった。


かつて琴を習っていた千夜のために、両親が買ってくれた一級品の琴が、寂しくたたずんでいる。


「昔、弾いていたの」


千夜はあるときから琴を弾けなくなった。

否、弾きたくなくなったのである。


「ひなね、最近習いはじめたんだ。

おねえちゃんの琴、聞きたい」


迷う心は、ひなの無垢な瞳に動かされて、袋から琴を出す。

もう弾くこともないと思っていた琴を、それでも捨てなかったのは、いつかまたと、願っていたからかもしれない。



「これは見事な……」


左馬之助はそうつぶやいて、感嘆の息を漏らしたのは、聞こえてきた琴の音が、あまりにも美しかったからだ。

新之助もすっかり聞き惚れていた。

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