スライム

「ニワトリども、騒ぐんじゃねぇ」

 そう言って、老人は押さえつけようとし、ニワトリらは必死で抵抗した。力いっぱいにバタつかせ、押さえつける手をふりほどいた。そして、そのまま走り出した。そのときだった。


 オイラのすぐ目の前を走っていたニワトリが、地面に押し潰れた。いや……その足が、老人の手につかまれたのだ。息も絶え絶えな老人が、いつの間にかオイラの横を走り抜け、そして前にいたニワトリの足首をつかみ、思いきり引っ張る。

 周囲のニワトリたちも転倒する。それでも、老人につかまれながらもニワトリはふり切って走る。

 オイラとニワトリらとの距離が開くにつれて、ニワトリの数も減っていくような恐怖がある。

 とうとう、老人はもうゴール目前にいた──そのゴールテープは老人のためのものではなかったが……その先にいるのは、ピエロだ。その姿は鮮烈な七色の逆光でよく見えないが、間違いなくそこに立っている。

 オイラは、最後の力で一歩を踏み、腕を振り上げて、ゴールテープを切った。その瞬間、歓声が上がる。みんなが、ピエロやファストフード企業の名を呼んでいる。ピエロは、その声援にこたえるように、両手を上げた。

 そして、オイラは地面に倒れ、空を見上げた。雲間から鮮烈な七色の光が差し込んできて、あたりを明るく照らし始めた。雨が上がり、風が止んだ。


 ファストフード企業の圧力もあって、今回の騒動の責任をとってか役員の一新をはかることになった。もちろんそれは表向きの発表であり、実際はもっと複雑な事情があったらしいが──でも結局ニワトリにとって企業が大きく変わることは全くない。


 集まってきたマスコミ報道陣の前で、老人が言う。

「先日のこの出来事については、ワニ肉コーラ製造業(ワニクォーラ)は一切関知していません。全ては、彼の勇気、度胸によるものです。みなさんも、もし困難に直面し、立ち向かうときは、ぜひチキンレースを思い出してください」

 拍手がわきおこる。まるで、オイラが英雄であるかのように、皆が祝福した。


 老人は続けた。

「みなさんも知っての通り、チキンレースはとても危険なものです。一歩間違えば大惨事になりかねない──そんなレースです。しかし、同時にとてもすばらしいものでもある。つまり死と隣り合わせですが、だからこそ清々しく爽快で、美味しくあります。今日ここに集まったマスコミ報道陣にも、苦しく極限に辛い理不尽な思いをしながらも、夢中になって走り続けている人がいることでしょう。それは、刺激的なことです。そして、そのバイブスを忘れないでほしい」


 老人の話が終わると、今度はPTA会長が立ち上がって話を始めた。

「保護者一同は、子どもたちの安全を守るべき立場でありながら、この事実が発覚したあとの企業対応もお粗末なもので、本当に申し訳なく思っています」

 報道カメラの向こうの視聴者──ファストフード消費者をメガネごしにねめつけるかのように続ける。

「このたびの騒動に対して深い悲しみを感じ、遺憾の意を示すと共に、制裁を科す可能性があると警告する。断固として反対し、阻止するためのあらゆる取り組みを強化していく方針である。

 私たちはくじけません。二度とこのようなことを起こさないよう、全力を挙げて取り組んでまいる所存でございます。どうか、ご理解いただきたいと思っております」


 深刻な話が終わり、続いて生徒指導主事もマイクを持って立ち上がった──初老の男だが体格の良く、カイゼル髭がトレードマークのためか、生徒らから恐れられている。彼にタバコや「水」の運び屋の現場を見つかって退学になった生徒もいた……


「諸君に注意します。いいですか、世の中には、努力してもムダなことはあるんです。頑張りすぎは、いらぬギスギスした競争で誰も得しないワンダーランドを招く──みなさんがいつも言っている事じゃないですか。今日、そのことをよく考えてもらいたいと思いま……! ちょっと、これコーラと烏龍茶が混じってない? えー、どうやら誰かのいたずらで、コーラに烏龍茶が混じってるみたいですね……笑うな! 誰だ、こんな事をしたのは! 連帯責任で五分間、起立してもらう」


 五分間の起立の後、ワニ肉コーラ製造業社長が締めくくりの言葉を述べ、本日のセレモニーは終了した……

 来場者はいっせいに紙コップを捨て、口元を押さえ、吐き気を訴える者が続出、トイレも大混雑した。配られていたワニ肉コーラが不味すぎる。ワニ肉などフレーバー程度にしか入っていないのだが、コーラと烏龍茶かなにかが混じったような、ワニがたくさんいる茶色い水場のような味で不味い事この上なく、普通のコーラではありえない泥かスライムのような粘り気も口に残る──こんな物を飲む人間はおらず、まさにスライムである。


 会場の外でも「キャット」と書かれてあるシャツを着た都市ドッグハッタン広報部門の人員が、住民にワニ肉コーラを配っていた。投資家からも資金を募っているようだ。その投資家たちから余計な話を聞いたのか、もっと他のコンサルタントからのいらぬ指示があるのかは分からないが、広報担当者は都市内の飲食店にも、ワニ肉コーラを飲んで売るように勧めていた。

 そうして多くの人にワニ肉コーラを飲ませる事で、都市への好感度を上げようとしているらしかった。


 飲まされた当の住民はもとより、広報部門もワニ肉コーラが美味いなどとは思ってはいまい──まずもってこんな物を飲む人間はいないのである。

 にもかかわらず、なぜ広報担当がワニ肉コーラを売り込んでいるのかというと、ワニ肉コーラ製造業からの宣伝費が出るからだそうだ。けっして自主的にやっているのではなく、予算が出ているからこそ、ああして熱心に売り込んでいる。

 別に広報担当者の肩を持つでもなく、ワニ肉コーラを売り込むために強引なコマーシャルを打ち出しても構わないが、しかし、その熱意が無駄になっていると思うと気分が悪い。何よりも、こうした悪循環を招きながらも無理やり搾取しているワニ肉コーラ製造業は問題であろう。

 そんなこんなで、広告やマスコミにあまりいい印象を持っていなかったのだけれど、少し見方も変わった。もちろん──ワニ肉コーラを飲むわけじゃないし、あれを飲む人間などいない。書き進めるモチベーションもなくなってきた。


「──うぇ……」

 涙目になりながら、それでも一心不乱に紙コップからワニ肉コーラを吸い上げる。

「美味しい! これ凄く美味しいよねっ?」

 ワニ肉の匂いもフレーバー程度で、味も悪くない。むしろ、普通のコーラよりも旨い──この味覚や嗅覚へ訴えかける強烈なスライムのような新感覚……

 まぁでも考えてみれば、ようは、これは炭酸飲料で、シュワシュワするだけ、たとえどんな味だろうと飲み干してしまえば終わり、それがワニ肉コーラであったとしてもね──金属的な冷たい色合いのCGの人間がそんな欺瞞に満ちたCMを垂れ流す。こんな物を飲む人間はいないのである。


 ようやく気分が良くなって来た頃には、すっかり夜も更けていた。

 薄明かりのなか、電気をつけるのも面倒でそのまま歩いていると、途中の部屋から物音がする。

 何気なく覗き込むと、ピエロが一人トランプで手品の練習でもしているらしかった。ピエロの服装には見覚えがあり、ファストフード企業の店舗やCMでよく見る。

 ここでは何故か、ピエロの姿を見かけることがある。大抵、子どもと一緒に騒いでいるか、こうして一人で黙々となにかの練習をしていることが多い。

 別に話しかけることもなく、さっさとその場を離れた。手品に興じるピエロの虚ろな青白い姿なんて見てたら、寝付けなくなりそうだ。

 自室に戻って、ベッドに転がった。もうこのまま寝てしまおうと目を閉じたその時──コンコン……とノックの音。人がせっかく休もうとしている時に、無視しようかとも思ったが、何となくドアへと向かった。開けるとそこにはまるで肉食獣のような目つきのピエロがいた。

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