幽霊
報道などで邪険に呼ばれている「トランプ」とは、カードゲームでなければ何なのだろう? その扱いから察するに、それはゲームや人名などではないのは明らかだ。ふくびき券か?
だがこのトランプこそが、あの日起きた、忌むべき、あってはならない惨劇の諸悪の根源なのだ──それは禅問答のようでとくに意味はないのだが……そう考えると、全ての辻妻が合う。
その日、酒場ロレーヌのテーブルの上には、トランプが──他のトランプカードと並んでいた。トランプのキングもちゃんとある。クイーンは、他のトランプカードのすぐ横にあった。だがジョーカーは……ジョーカーはどこにもなかった。
ふっと顔を上げると、いつの間にか、目の前に見知らぬ人物が座っていることに気がついた──いや、テーブルの上に素知らぬ顔で座っている青白いそれは人間ではない、幽霊だ! 入口には屈強な用心棒がいるはずなのに、どうやって入ってきたのか? それに幽霊が何を食べるというのだ? 人間か?
「おい君ィ! ここは飲食店なんだぞ。テーブルの上に座るんじゃあない」
他の客がびっくりしてこちらを見てくる。
しかし幽霊も無言で、ただこちらを見つめ返しているだけだ。まるでピエロのような虚ろで落窪んだ目でじっと黙ってこちらを見ている。
「あんたがここへ来る前からずっとここで呑んでるぜ、へっへっ」
キングはこの幽霊に見覚えがあった。さっき町かどで見かけたピエロである。
では常識で考えて、幽霊ではなくピエロなのだろうか……「水」の運び屋かもしれない。
実体があるどころか、テーブルの上で異様な存在感を放っているが、金属的な冷たい色合いのCGのようで何かがおかしいのだ。だがそれが何なのか分からず、ピエロだか幽霊だかで話を書き進めるモチベーションも全くなくなってきた……
そういえばさっきもこのピエロは、まるでこちらの姿が見えていないかのように正面からまっすぐにヒョロヒョロ歩いてきたかと思うとパッと消えた。
「え?」
あたりを見回すがもういない。しかし確かに正面からまっすぐに歩いてきたはず、いや、ただ単に見失っただけかもしれないし、そもそも夜道での見間違いでピエロですらなかった可能性も……。
「おい」
「はぃ!?」
再び机の上を見ると、さっきと変わらぬ姿勢や表情のままのピエロがいた。
「……その顔、ちょっと笑ってみせろよ?」
「え? あぁ、はい」
言われた通りに口角をジョーカーのように上げてみるが、咄嗟のことで作り笑いにしかなっていない。
「…………」
「あの」
しばらくジョーカーの表情で呆然とした後、キングはいつの間にか手に持っていたはずのナイフやフォークがないことに気づいた。
どういうことだろう? さっきまで食べていたドッグフードはまだ皿に残っている……いや、ドッグフードなど食べてはいない──ちくしょうめ!
これは夢か? やはりこのピエロは幽霊で、すべてはそうしたワンダーランドの一環だとでもいうのか? それでも現実であることを確かめるべく、なくなったナイフを探すほかない──ここから書き進めるモチベーションも全くない……この不審なピエロがそのナイフで物騒なことをしでかさないとも限らないからだ。
足元に落ちているカードがあった。それは、トランプのジョーカーだった……ちくしょうめ、けがらわしい! そう毒づきながらカードを拾い上げようとした、そのときだ──何が起こったのか分からなかったが、次の瞬間には床に倒れていた。そして、顔のすぐ上に、ジョーカーを持った白い手があった。
〈さあ、どうする?〉 声ではない、頭の中に響いてくるのだ。
パチンと指が鳴らされ始まったライブ演奏を、朦朧とした意識のなか床に倒れこみながら聴いた。さっきのピエロが軽快に歌う「爆笑ピエロック」──
気を取り直して、窓際の席に座り、ドッグハッタンの通りを眺める。夕食どきなので人通りは少なかったが、それでも寒空の下、スーツ姿の男達(または女達)が急ぎ足で歩いている。
「へっへっ、もう年末ですねえ」
とさっきのピエロが言った。
「こんにちは」
「なにか予定でもあるんですか?」
「まあ……別にこれといって特にはないけど」
とコーラを飲みながら言う。
「んじゃ、映画なんか観に行きません? へっへっへっ、『欲望大解放』なんかどうです? ずっと前から観たかったもんでね」
「ああ、それ知ってるよ。まだ観てないんだけど」
「へえ、そうなんですか、絶対にもう観てると思ったけどなあ、へっへっ」
「まだ観てないよ」
「でも、実はちょっと予定があるんですよ」
「おや、そうなんだ。そりゃ残念だ」
「──代わりに誰か誘っては?」
ジョーカーのカードに書かれてあった電話番号をダイヤルする。
「もしもし」
と携帯電話(ダイヤル式)の向こうから女性(あるいは男性)の声。
「どちらさまでしょうか?」
「キングだよ」
「ああ……はい。少々お待ちくださいませ」
数秒の後、彼女(彼)は再び電話口に出た。
「どうもキングさんはいらっしゃらないようですね」
そんな電話のやりとりのあいだ、ピエロはチラチラと腕時計を見ていた。
「おっと時間だ。お先に失礼、あとはお二人でごゆっくり、へっへっ」
やがて自動ドアの電子音とともにしつこいピエロが出て行って一人だけになった後、ようやく立ち上がって、うろうろと歩き始めた。
酒場は薄暗く、天井から吊るされた裸電球がぼんやりとした鮮烈な七色の光を放っている。壁には絵も写真もなく、ただ額縁に入ったトランプのカードだけが並べられている。茶色な古びていて埃を被った調度品に埋もれたような搬入通路からは「水」の運び屋が出入りしているようだが、よく察知できない。
ゆっくりとした足取りで奥へと歩いていくと、そこには誰もいない無防備なレジがあったが、盗めばどこからともなく騎士団が素早くやってくるに違いない──後ろには狭い事務室があった。机に置かれたPCのモニターが鮮烈な七色の光を放つ……そしてその前に座っている人影があった。「キャット」と書かれてあるシャツを着たピエロのような男(または女)だったが、モニターの鮮烈な七色の逆光やサングラスのせいか顔はよく見えない。
しばらくその場に突っ立ったまま、じっとピエロを観察しようとした。
「こんにちは」
発せられた声を聞いて、それが若い女(または男)の声であることがわかった。しかしそれはどこか機械的な響きを持った声で、まるでレコードかテープに録音された音声をPCで再生しているような印象を受けた。
「──何かご用ですか?」
そう言われて、自分がこの酒場の客としてここにいることを思い出す。
「いえ……別に何も、へっへっ」
「あなたは幽霊を見たことがありますか?」
突然のそんな質問に、少し考えてから答えた。
「──いいえ」
すぐさま機械的に質問がきた。
「あなたは幽霊を信じていますか?」
無言で首を振った──いきなり暗がりでこんな不気味な問答をされたくはない。
「そうか、話にならん……」
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