遅刻王の凱旋

暗澹たるナマズ

遅刻王の凱旋

 ジジジジジ。目覚ましの音が鳴り響く。時刻は7時半。

「うるさい……」

 まぶたはいまだ重く、開けばジュワッと目頭が熱くなった。

 真冬の冷気と乾燥がベッドから出る気力を奪っていく。

 それでも目覚まし時計は鳴り止まない。

 弓原史明ゆみはら ふみあきは右手で目覚まし探り当て耳障りな音を止める。

 それから少しすると、母が部屋にやって来て史明の身体を揺さぶった。

「早く起きないと遅刻するわよ! この前これ以上遅刻欠席が続くなら進級できないって言われたでしょ!」

 母の金切り声で脳みそをかき乱されるような鈍い頭痛が襲う。

「ああもう! うるさい! 頼むから静かにしてくれ!」

 金切り声を遮って、史明の怒号が静寂を作った。

 呆れた母は「もう知らないからね!」と部屋をあとにする。

 また、母に怒鳴ってしまった。今度は自己嫌悪で頭が痛くなった。



 史明が起きる頃にはすでに8時10分を過ぎていた。

 ドタドタと階段を下りてくる史明。

「母さん! 何で起こしてくれなかったの!?」

 怒る史明に母はこれまた荒い口調で返す。

「何度も起こしたわよ! 起きなかったのはあなたでしょ!」

「起きなかったら起こしてないじゃん!」

 これまた、言葉としては正しいのかもしれないが見苦しい言い訳でしかない。

「言い訳するくらいなら早く行きなさい!」

 理論の武装は母には通じない。至極、当然の返しにうろたえながらも支度を済ませ家を飛び出した。



 起ききれない自分が悪いとはいえ、母の態度が気にくわなかった。

 今日は遅刻するわけにはいかないのに。

 度重なる遅刻、欠席の末。そろそろ出席日数が足りなくて留年してしまうかもしれない。3学期の終業式まであと4ヶ月遅刻欠席ゼロでギリギリ進級できいるラインだ。

 テストの点数は赤点だらけではあったが、補習をしっかりこなしたし、授業態度も悪くなかったため問題はなかった。


 スマホで時刻の確認をする。

「門が閉まるのが8時50分だから……」

 現在の時刻は8時20分。ペースを崩さず走り続ければ遅刻せずに済む距離だ。まだ間に合う。


 しかし、現実はそんなに上手くいくはずもなく困難が史明にのしかかる。


「スミマセン。チョトイイデスカ?」

 こんな時に外国人に呼び止められしまうなんて。

「ワタシココイク。ドコデスカ?」

 観光客なのだろうか、大きなリュックを背負いカタコトの日本語で尋ねられる。

 

 自分だって遅刻間際で困っているはずなのに、目の前の困っている人を見捨てることができない。史明は道を教えることにした。

 それくらいの時間ならまだあるはず……


 外国人はホテルのサイトが表示されたスマホを見せる。

 この人はホテルまでの道を聞きたいのか。

 史明は道を指さし、答える。

「ここをまっすぐ行って大通りを右に行ってください。そしたら……」

 外国人のカタコトが史明の日本語を遮る。

「アーソーリー。ワタシ、ニッポンゴムズカシイネ」

 日本語が難しい、だと?

 カタコトながらにしっかり話せているじゃないか。

 そんな事を言ったら史明だって英語が苦手なのだ。


 目に見えてテンパる史明。時間は着々と進む。

 身振り手振りで道を伝える。さながら、ロボットダンスの動きだ。

「ご、ご、ごーすとれいと。たーんらいと? れふと?」

 外国人の表情がだんだん険しくっていく。

「アハハ。シンセツナオヒト。アリガトゴマシタ」

「コイツ、使えないな」といわんばかりの視線で見下ろされる。

 外国人は史明に道を聞くの諦めて別の通行人に道を聞きに行った。


 なんともいえない虚しさに心を覆われた史明だったが、それよりも大事なことを思い出す。そう、遅刻しそうなのだ。



 史明は走った。街を駆け抜ける。すれ違うサラリーマンも呆気にとられていた。12月も半ばだというのに額から汗が流れていた。背中は燃えるように暑く、口の中は冷気に晒され乾ききっていた。もはや時間を確認する余裕もない。

 目の前の歩行者信号が点滅し始める。間に合わない。棒立ちの紳士が赤く発光する。


 煩わしい。信号に拘束される時間をもどかしく思っていると銀行のATMからマダムが封筒をバッグにしまいながら出てくる。

 道路を行き交う車が停止線を踏み停止した。青く発光する紳士が歩き始める。瞬間、史明の横を黒い物がすり抜けて行った。


 男だ。黒ずくめの男がマダムヘ向かって走る。

 通り過ぎる間際、男はマダムのバッグをかっさらい走り去った。


 悲鳴が響いた。

「きゃー! ドロボー!!」

 史明はマダムの横を颯爽と駆け抜ける。

 端から見ればひったくりを捕まえんとする勇敢な少年であったろう。

 しかし、弓原にはそんな思惑はない。遅刻だけは免れなくてはならい。

 そのはずが、史明の眼は黒ずくめの男を捕らえていた。

 それは一瞬の思考。見たのは自分より先に卒業していくみんなの後ろ姿。感じたのはクラスメイトと離ればなれになり後輩と同じクラスになる屈辱。

 そんなこと許せるはずがない。そんな惨めな。

 そして、併走状態になった。

 そのまま追い越して、遅刻を免れるか、ひったくりを捕まえて留年するか。

 頬の筋肉が緩む。

「悪い。みんなとは行けないみたいだ」

 考えるまでもない。目の前の悪を見過ごし手得た未来になんの意味がある。マダムの悲痛の叫びを見過ごせるわけがない。

 史明の腕が男を鷲づかみにした。

「くっ、逃げるな!」

 男の足をすくい上げ、中に浮いたその体躯を地面に落とす。

 苦悶の声が漏れる。

「くそ! 放せ!」

 犯罪者の言葉に貸す耳などない。

 そのまま、覆い被さり男の動きを止めた。

「放すものか!」



 警察がすぐにやって来て男を白と黒のクラウンに乗せる。

 さすがは法治国家。警察も警察の対応の早さは優秀だ。


 史明は、ありもしない可能性を信じ、時計を確認する。

 8時50分までに校門抜ければ遅刻は免れる。

 時刻は8時51分。

 すでに登校時刻は過ぎている。

 この時点で留年は確率は大幅に上がった。もしかしたら確定かもしれない。

 ここから1年、史明の時間は停滞してしまう。それでも、クラスメイトは進級し時を刻んでいく。


「ちょっと君、良いかな」

 立ち去ろうととぼとぼ歩いていると優しそうな面持ちの若い警察官に呼び止められた。

「君、高校生? お手柄だったね。学生書は持ってる? 一応は仕事だからさ、確認していいかな?」

 史明は素直に学生手帳を指しだした。警察官は学生手帳を受けとると何かメモをしている。


 そんなことはもうどうでもよかった。史明は力なく歩き続けた。学校に向かって。

 その覚悟の上での行動のはずだ。悔いはない。

 分かっていたんだ。普段からしっかり学校に行っていればこうなることはなかった。


 誰のせいにもできない。自分のせいだ。

 史明は空を仰いだ。

 空は青かった。史明の瞳だけに雨が降っていた。



 案の定。担任の教師にはこっぴどく怒られた。学級主任は怒りを通り越して呆れているようだ。

 クラスメイトの視線が痛かった。同情と侮蔑が入り交じった視線を受けた。

 もちろん、実際にそんな視線を受けたわけじゃない。被害妄想だ。

 それでも今の史明にはそう見えたのだ。

 教室の空気に居心地の悪さを感じ、いたたまれない史明は保険室へ逃げてしまった。


 保健室のベッドでふて寝して自分の人生諦めがついたころ。史明を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。

 ベッドから起き上がると、優しそうな面持ちの若い警察官が立っていた。

「君、留年なんだって?」

 警察官の微笑みが無性に腹立たしい。

 警察官は続ける。

「学生手帳、返しに来たんだ。急にいなくなるんだから、驚いたよ」

 学生手帳を受けとり頭を下げる。

「ありがとうございます」

 史明は冷たく答える。

「それにしても、よくやったよ。ひったくりを捕まえるなんて普通はできないよ」

 そんな言葉なんかなんの価値もないと思った。史明は留年する。

「それで、俺は留年確定したんだけどね」

「そうか……それはそうと」

 警察官はニンマリと笑った。

「まぁとりあえず教室に戻りなよ。学生の本分は勉学だろ」

 史明は促されるまま、教室に戻ることにする。

 警察官の言葉に納得したわけじゃないけど、逃げてばかりもいられない。


 今は授業中だ。

 静寂が史明をこわばらせる。

 クラスの扉を前に深呼吸。

「よし!」

 扉を開けるとクラスメイトの視線が史明を突き刺す。

 冷たい汗が背中を流れる。

 緊張で動けなくなっていると、クラス委員の塚本が立ち上がり拍手をし始める。

 それに呼応するようにみんなも拍手した。担任までも史明を拍手で迎える。

 塚本が声を上げる。

「弓原、やるじゃん!」

 史明の頬はうれしさと安堵の気持ちで濡れていた。

 クラスメイトが史明の周りに集まった。肩を組まれみんなが褒めちぎってくる。まるで英雄の凱旋だ。

 こんなにも穏やかな気持ちの学校は初めてだった。

 帰ったら母さんに謝ろう。

 それから、心を入れ替えて真面目に登校しよう。

 担任が涙を浮かべた真っ赤な目で謝る。

「弓原! 怒って悪かった。警察官の方が説明に来てくれたんだ。お前の留年は取り消しだ」

 頭を下げた担任を史明は快く許した。

 終わりよければ全てよし。どんな過ちも許されるのだから。


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