四幕六場 過去の憧れ、未来のライバル

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 終幕を促すアナウンスが始まったと同時に、私は客席を飛び出した。


 走って、走って、走って。どこへ向かえばいいか分からないのに、走った。


「お客様、どうなされ」


「あの、ふぁんとむさまはどこですか⁉」


「は……?」


 声をかけたスタッフの人は目を丸くした。駄目だ、この人は知らないんだ。そう判断して、ぴゅぴゅーっと、その場を駆けた。


 遠くなる制止など聞かずに、当てもなく走る。いや、あてはあった。目的地はふぁんとむさまだ。


 何処をどう通ったのか、未だに謎である。でも私は、辿り着いてしまった。


「いだっ……」


「すみませ……げ、ガキじゃねぇか。どっかの子役かぁ?」


 男子トイレから出てきた怪人の衣裳を纏った男の足に鼻をぶつける。二、三歩下がって驚愕した。ぱぱよりも大きな人間がいることに。


「ぶ、ぶつかってしまい、もうしわけありません!」


「あ、う、あー……こっちらこそ、すみま、せん……」


 大人の癖にオドオドしている。訝しみながらも、手掛かりを掴むために質問した。


「あの、ふぁんとむさまはどこですか⁉」


「はぁ? ファントムさまぁ?」


「あなた、ふぁんとむさまとおなじふくをきています。しっていますか? ふぁんと

むさまのいばしょを」


「……どっかで見たことあると思ったら、テメェ神崎さんの娘じゃねぇか。ママでも

探してんのか? ああ?」


「いえ、ふぁんとむさまをさがしているのです!」


 褒めてやりたい。メンチを切っている大男相手に平然とやり合った私を。


 男はめんどくせぇと頭を掻きながら、口を開いた。


「俺だよ、俺。俺がファントムだよ」


「……うそはよくないです」


「嘘じゃねぇよ!」


「うそです! たしかにかおはにていますが、あなたとふぁんとむさまはぜんっぜんちがいます! あなたはにんげんで、ふぁんとむさまはかいじんだもん!」


「……ほぉ?」


 男の眉がピクリと動く。男はこの瞬間、初めて私に興味を示した。


 膝を折り、私に目線を合わせた男の目は相変わらず吊り上がっていたが、口角は微かに上がっていた。


「なんだい、神崎二世。なかなかいい目を持ってるじゃねぇか」


「かんざきにせい……? わたしはささやまあおいです、おじさん」


「おじさ……ま、いいけどさ。アオイは初めてか? 舞台を見るの」


「はい! あ、おじさんぶたいにくわしいのですか⁉ ふぁんとむさまのいばしょを、しっていますか⁉」


「ああ、知ってるよ」


「どこ! どこですか⁉」


 幼子のテンションは完全に上がっていた。辺りを見渡し、彼の登場を待つその姿を弄ぶなんて、ロクな大人がすることではない。


「お前が会うことはもうないだろうな」


「えっ……? ど、どうしてですか……⁉」


「ふぁんとむさまはあの舞台を最後に引退だからだ」


「いんた、い……?」


「死んだんだよ。あのファントムとは、永遠にサヨナラってことだ」


 死の意味は理解できなかったけど、さよならは分かった。


 じわりと、目頭が熱くなる。


「も、もうあえないのですか……?」


「ああ、お前が会うことはもうないだろうなぁ」


 胸に墜落した星にひびが入った。感情の制御など出来ない幼女はその場に崩れ落ち、ぎゃあぎゃあ泣いた。


 そんな光景を作り出した当の本人は無言でその場を去った。ほんっと、無責任にも程がある。


 その声に反応したのか、駆け付けたスタッフさんが私をなだめる。そしてすぐに神崎ヒュウガの娘と気づいたのか、母を呼びに行ってしまった。


「うああああ! うああああ! ああああ!」


 狂ったように、泣き喚く笹山葵。あの頃は、必要な時に必要な分だけ涙を流し、感情を吐き出せていた。


「うわ……だからガキは嫌いなんだよなぁ……」


 また一人泣きわめく中、頭を掻きむしるジジィが戻ってきた。


「う、ああっ……! ううっ……」


「あー……すまんな、おじさ、お兄さんすこし意地悪したな」


 しゃがみ込むおじさんは申し訳なさそうな顔をしていた。


 少しじゃない、大分だ。役者の癖に、子供の心は分からなかったのか。クソジジィ。


「ずごじじゃ、ないもんっ……! どっでも、だもん!」


「はいはい、すみませんね……お詫びにこれ、やるよ」


 差し出されたのは紙が積み上げられた分厚い冊子。今なら分かる、台本だ。


「う、ぐっす……ちーん、すればいいのですか……?」


「バッカじゃねぇの。これはな、ふぁんとむさまになるための道具だよ」


「ふぁんとむさまに、なれる……?」


「ファントムはな、誰にでもなれるんだよ。舞台に上がる、役者ならば」


「や、やくしゃ……」


「あのファントムは死んだ、もう会えない。でもお前がなることは出来る、神崎に

せ、笹山葵」


「わ、わたしが……なれるの……? ふぁんとむさまに、なれるの……?」


「ああ。舞台はそういうもんだ。舞台に上がれば何にだってなれる。そして舞台に上

がるには、役者にならないといけない」


「なる! わたし、なる! やくしゃになって、ぶたいにあがって、ふぁんとむさま

になって、それで、それで……」


「おお、それで?」


「な、なれるなら……あのふぁんとむさまより、すっごいふぁんとむさまになる!」


「……おお、いいじゃねぇか。なれなれ。俺を超える、ファントム様にな」


 私の頭に乗った大きな手から、たばこの匂いはしなかった。


 髭だって生えていない。彼は役者らしい、清潔な身なりをしたいた。


 そんな彼の未来に希望を馳せた優しい笑みが、幼い私の瞳に映った。









「入っていいぞー」


「は、はぁ……」


 咄嗟に浮かんだ単語は犯罪。紆余曲折を経て、私たちはとあるボロアパートの一室、先生のお家に来ていた。


 玄関を開けると、想像通りタバコと熱気が混じった空気が顔にかかる。くっせぇ。よくこんな場所でよく暮らせるな。


 役者は変わり者が多いとよく言うが、先生は普通の生臭い人間らしく、役者の中では変わり者だった。


 舞台の上では異質の存在感を放つのに、普段は人間臭い。……タバコのせい、だろうか。


 靴を脱ぎ、部屋を一望する。カップラーメンタワー、付箋だらけのパチンコ雑誌、灰皿とタバコは言うまでもなく、畳の上に散らばっている。


 一言で言うと、異臭。タバコの裏に隠れたラーメンがいい味を出している。うへぇ。


「……あー。つっても、もてなすもんねぇわ。これでも読むか?」


「結構です」


 差し出された雑誌をはたく。因みに表紙はお馬さんだった。その馬が動物園にいる観賞用の馬ではないことは、確認するまでもなく分かっている。


「何でここに呼んだのですか」


「んなの喫茶店に金落としたくねぇからだよ」


 ほんっとうに、この男は。


 私に構わずタバコを吸いだしたし。別にいいのだが、一言くらい声をかけるのがマナーじゃねぇのか。


 こういう人間が少数派で存在するから、喫煙者は皆負のイメージを持たれるのだ。


「……とりあえず、座れば」


「嫌です」


 出来るだけ接触したくない。この部屋のモノに。


 ばっちぃもん。


「さっさと用件だけお願いします」


「舞台は好きか、笹山葵」


 しゅぼ。二本目のタバコが火を噴く。もう何度、貴方にその質問をされただろう。


「嫌い、です」


「おーおーおー、嫌いかぁ」


 全身から熱気が漏れる。クーラーどころか扇風機もない。本当にこの人、ここに住んでんのか?


「星来と出会うまでは、何とも思っていませんでした……というより、思わないよう

にしていました。真ん中に立つためだけにこなす作業に、何を思う必要もないから。

でも、彼女に出会って、見せつけられて、嫌いになった。私を選んでくれなかった、舞台が大っ嫌いになった」


「あの頃は、好きだったか?」


「……ええ。初めて舞台を、ファントム様を見た時、私は舞台に取りつかれまし

た。初めて役を演じた時のことは、よく覚えている。でも、あの頃には戻れない。知ってしまったから。私は、貴方になれない」


「そりゃそうだ。俺とお前は全く違う人間だからな」


「……うん。分かってたよ。先生は男で、私は女。声も、体格も、歩き方も違う。才

能以前の問題だった。……私は、ふぁんとむさまにはなれない」


「ああ、そうだな」


「もう、戻れない……あの頃には、戻れない……」


 滲む、視界が滲む。


 涙は舞台に取っておかなければならない。


 でも、今日だけ。今日だけは、許してください。


 明日からは絶対、取っておくから。


「思い出しちゃった、から……! あの日見つけた星の輝き! あの日芽生えた燃

え上がる情熱! もう、戻れない! 何も知らずに、無垢に、純粋に、日常を堪能

する日々には戻れない!」


「ああ……それが役者、だからな」


「私に才能はない。でも、私は役者だ、それでも役者だ。共演者を食い散らかすま

で、あがいて、もがいて、手に入れる。あんたを超える、星になる」


 自分の人生の主役は私。主役には常に、とびっきりの試練が与えられる。


「もう一度聞くよ。舞台は、好きか?」


「大っ嫌いよ。出来ることなら今すぐ消えて欲しい。……『でも、アイツのいない日常は、とてもつまらないんでしょうね。いなくなってから、この気持ちに気づくなんて……』」


「けっ。少女漫画の読み過ぎだな」


 涙は蒸発し、消えていく。滴る汗も、拭えば消える。


 でも、この情熱だけは。この夏の思い出だけは、絶対に消えてはくれないんだろう。

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