第2話雫と雪音

稲荷神社 六花堂

 

 冬が過ぎ、新しい春を迎えようとしている。

 寒い日々から少しずつ暖かな気候へと季節は移り変わり、過ごしやすい日が近づいてきた。

 桜の花も早く咲き始めないかと春の楽しみに期待が膨らむ毎日。

 今はまだ完璧な春がきたわけではないから、朝方や夕方といった時間帯は少し肌寒い日が続いている。

 そんな何気ない毎日でも昼間は太陽の日差しが心地良く、日向ぼっこをするには充分だった。

 そして今日もそんな穏やかな日に、誘惑に負けて日向ぼっこをする者がここにも一人いた。


☆☆☆☆☆ 


 「んー今日も気持ちが良いのう」

 そうつぶやきながら伸びをする一人の青年の姿がそこにはあった。

 「今日も平和な一日でなによりじゃのう……」

 話し口調は年寄り臭いが、見た目は二十代といったところだ。

 太陽の光で美しく輝く銀髪に宝石の様な翡翠色の瞳。白をベースにした淡い青色の和服を身にまとい、その上からは濃い青の羽織を肩からかけていた。

 どこか不思議な雰囲気を醸し出しているが、和服の似合う美しい青年だ。

 太陽の暖かな日差しに照らされ、心地よいそよ風を全身で浴びながらその青年は、このところ毎日の日課のように行っている日向ぼっこを楽しんでいた。

 ただ少しを挙げるとするならば、その青年が日向ぼっこをしているにあった。

 

☆☆☆☆☆


 少年は必死に走っていた。

 まるでから追いかけられているかのように……。

 ただひたすらに走って走って逃げていた。

 慣れない山道を走ったせいか着ている制服には少し泥がついていたり、木の枝によるかすり傷がいくつか見られた。

 ――着たばかりの制服なのにな……。

 まだ数回しか袖を通していない制服の心配をしながらも、それでも少年はなりふり構わずに走り続けた。

 山の中を駆け回り、先ほど遭遇したクラスメートに教えられた『稲荷神社』を目指して……。


 少年の名は『月満雪音つきみつゆきね

 幼い頃に両親を亡くした雪音は、今日こんにちに至までいろんな親戚の家をたらい回しのように転々として過ごしていた。

 今回もまた同じように新しい引き取り手のいるこの町に引っ越してきたばかりだった。

 

 そんな雪音は今現在に追われていた。

 それは普通の人の目には見えないもの、一般的に『』と呼ばれることが多いものだ。

 そんな妖怪と呼ばれるものを雪音は幼いころから見る事が出来た。

 見える事が当たり前だった雪音にとっては、見えない方が不思議だった。

 自分だけが見えている事によって、不気味がられることや嘘つき扱いされる事もよくあった。

 ――なぜ自分にだけ見えてるのか……。

 ――なぜ他の人には見えていないのか……。

 ずっと疑問に抱いたまま幼少期を過ごしていた。

 だが今ではなぜ自分には見る事が出来るのか理由を知っているために、成長するにつれてそんな疑問はいつしかなくなってしまった。

 ――

 それが雪音の疑問を消した答えだった。


 雪音は今現在そんな妖怪から逃げるため、『稲荷神社』を目指して走っていた。

 妖怪に追われた事はこれまでに何度かあった。

 遊び半分で追われる事や驚かされることだけの時もあれば、命を狙われる事も度々あった。

 今回の妖怪はどうやら後者が目的らしい。

 そしてこれまでの経験から、妖怪は神社や寺にはあまり近づこうとしない事を知っていた。

 中に入って来れないという訳ではないみたいだが、神社や寺の内側まで逃げればほとんどの妖怪は諦めて帰って行った。

 妖怪にとってはあまり好ましくない場所なのか、それとも聖域と呼ばれる場所だからなのか……。

 明確な理由は雪音にもよくわかっていなかったが、妖怪に追われるたびに近くの神社や寺に駆け込んでいた。

 駆け込んだ先で妖怪が諦めて帰るのをじっと待って過ごしていた。

 そして今回も妖怪から逃げ延びるために『稲荷神社』に向けて走っていた。


 走り続けた先にようやく『稲荷神社』らしき鳥居が見えた。

 ――やっと見つけた!

 あとは中に入るだけだと安堵したのもつかの間、雪音は運悪くつまづいてしまった。

 バランスを崩したもののなんとか転ばずにすんだのだが、その隙を妖怪が見逃してくれるわけもなく、あともう一息という所であっけなく雪音は捕まってしまった。

 ――まずいな……。

 どうにかしてこの状況を回避しようと模索する。

 もう少し体力でも残っていれば、なんとか力技で抜けきれたかもしれない。

 だが、今まで走り続けていたために雪音の体力も限界だった。

 来たばかりの分からない土地でいつもより長い時間走って逃げていたために、雪音の体はぼろぼろの状態だった。

 もし神社の場所を事前に知っていれば、たまたま遭遇したクラスメートにもう少し早く出会っていれば……。

 そんなもしもの状況を考え込んでしまう。

 そこまで雪音は追いつめられてしまい、絶体絶命の危機に陥ってしまった。

 ――……あまり使いたくなかったけど……。

 ――おれはこの血に頼るしか……。

 今の自分の状況に諦めかけて、使いたくない力を使おうとしたその時、

 「珍しいのう、人間がこんな所に来るとは」

 どこからかそんな声が聞こえた。

 声の聞こえた方に顔を向けると、一人の和服姿の青年がいた。

 「それにちと普通の人間ではないようじゃの、うぬはそやつらの姿がみえるのであろう?」

 和服姿の青年は物珍しげに雪音に問いかけた。

 ――……別の妖怪か?

 ――……それとも人間?

 ――……でも人間なら

 あらゆる疑問が一気に頭の中に浮かんだが、ただぼんやりとその和服姿の青年を見ることしか出来なかった。

 雪音にとっては正直そんな疑問は窮地に陥った今はどうでもいい事のように思えた。

 今目の前にいる和服姿の青年が妖怪であろうと人間であろうと。

 いや、出来れば襲ってこないであろう人間であって欲しいことは確かなのだが……。

 自らの身が危機的状況の雪音は、なぜか別の事の方が気になってしまった。

 ――……なんでそんな所にいるんだ?

 

 ――……なんでにこいつは座っているんだ?


☆☆☆☆☆


 暖かな陽気を浴び、心地よい風を全身で感じながら日向ぼっこをしているとだんだんとまぶたが重くなってしまう……。

 そんな状態になりつつある和服姿の青年。

 その和服姿の青年がのんきに日向ぼっこをしているのは普通では考えられない場所だった。

 なぜなら和服姿の青年は、神社の入り口であるの上で昼寝をしようとしていたのだ。

 この鳥居の上はどうやら最近のお気に入りの場所らしい。

 むしろ神聖な場所への入り口に上る事自体が罰当たりな気もするが、たいして気にも留めていないようだった。

 最近の日課になりつつある日向ぼっこを今日も満喫していた。

 和服姿の青年が少しうとうとし始めた時、人と妖怪の気配を感じた。

 ――何か近づいてくるのう。

 ――人と妖怪どっちも感じるが……。

 ――また妖退治の人間かのう?

 そんな事を考えながら横にしていた体を起こした。

 ――今日も何事もなく過ごせると思ったのにのう……。

 日向ぼっこを中断させられて少し残念な気もするが、神社に近づいてくるものの方が気になり鳥居の上から下を眺めた。

 するとそこには妖怪が人間に襲われているという想像していたのとが目に入った。

 ――……人間が妖退治をしているものかと思っていたが……。

 ――……逆にとは……。

 珍しい光景を目の当たりまのあたりにして、和服姿の青年はその襲われている人間に興味が沸いた。

 ――あの人間を助けてみるのも良いかもしれぬのう。

 そう思い、声をかけてみる事にした。

 「珍しいのう、人間がこんな所に来るとは」 

 人間と妖怪がこちらの存在に気づいて顔を向けた。

 ――……ああ、やはりのう。

 声をかけてこちらを向き、目もあった事で確信を得たように続けて声をかけた。 

 「それにちと普通の人間ではないようじゃの、うぬはそやつらの姿がみえるのであろう?」

 久しぶりに妖怪が見える人間に出会い、その青年はますます興味が湧いた。

 その人間がなんて答えるのか興味深そうに待っていたが、青年の質問に対して最初に口を開いたのは、

 『さっきからごちゃごちゃと、この人の子は我が見つけた、我の獲物ぞ』

 人間を襲ってる側の妖怪だった。

 少し残念そうに肩をすくめて青年は座っていた鳥居の上から飛び降りて人間と妖怪に近づいた。

 「ふむ、うぬの獲物か……、だが我もその子にちと興味が沸いてのう、我にその子を譲ってはくれぬか?」

 淡々とその青年は妖怪に対してそう告げた。

 妖怪は青年をいぶかしみながらしばらく見つめていた。

 『こやつは我のものだ、お前に譲る気などないぞ、我は力を取り戻すのだ、邪魔はさせぬぞ!』

 「じゃがのう、その人間を喰った所でうぬのそれは回復はせぬぞ?我がうぬを別の方法で治してやる」

 『……貴様はいったい何者だ?治すだと?』

 「怪医かいいというのを聞いた事はないか?我はその怪医じゃ。どうじゃ、我の所に何回か通うてみるとよい。うぬを最後まで診てやる変わりにその子を我に譲ってはくれぬか?」

 ――……いったい何が起きているんだ?

 ――……怪医?治す?

 この状況に雪音はついていけずに一人取り残され、青年の提案に妖怪はしばし考え込んでいた。

 『……怪医の存在は我も知っている、本当に貴様が我を治す事が出来るのか?』

 「うむ、約束しよう。うぬのそれはちと時間がかかるが必ず我が治してみせようぞ。今日のところはひとまずこれを持って去るが良い、また明日来てはくれぬか?」

 にこやかな笑顔でそう言って青年は懐から小さい巾着袋を取り出して妖怪に差し出した。

 『……それは?』

 「今のうぬにぴったりの薬じゃ、少しは気が楽になるじゃろう」

 『……貴様の言う事を信じよう、だがもし治らなければ貴様もこの人の子もただじゃすまさぬぞ』

 妖怪は怪医と名乗る青年に凄みを利かせて言った。

 「我は嘘は言わぬ、うぬが言う通りに我の所に通ってくれさえすれば直に良くなる」

 笑顔を崩さぬまま青年は答えたが、妖怪の方はまだ疑っているようだった。

 『……我の名はりん、貴様の名を聞いておこう』

 「凛か、良い名じゃのう。我はしずくじゃ」

 『……雫?もしやあの有名な怪医の雫殿か……。先ほどは知らなかったとはいえ無礼を働いた事を詫びようぞ……』

 先ほどの威勢とは打って変わった態度で凛と名乗る妖怪は雫に向かって頭を下げた。

 「別に気にせずとも良い。では凛よ、また明日来る事を待っておるぞ」

 『雫殿、これからよろしく頼む』

 そう言って凛と名乗る妖怪は雫から小さな巾着袋を受け取ると、捕らえていた雪音を解放してその場から去っていった。

 

 ――……助かったのか?

 一人取り残されていた雪音はまだ現状についていけなかったが、自分を襲ってきた凛という妖怪から無事に解放された事だけはわかった。

 ――こいつはいったい何者なんだ?

 ――おれを助けてくれたのか?

 ――もしかして今度はこいつから逃げないといけないのか?

 一難去ってまた一難とはこのことを言うのだろう。

 雪音は解放されて安堵したのも束の間、今度は雫と名乗った青年への警戒心を強めた。

 人間なのか妖怪なのか区別のつかない相手を前にどう対処すべきなのかわからなかった。

 そんな雪音の心境を知らずか雫は凛に見せていたような同じ笑顔で雪音に近づいた。

 「そう警戒せずとも良い、少しケガをしておるのう。手当てしてやるから六花堂りっかどうに来ると良い」

 そう言って何のためらいもなく雪音に手をのばした。

 ――……六花堂?店の名前か?

 ――……そもそも信用してもいいやつなのか?

 ――……でも、こいつに助けてもらったのも事実だ……。

 まだ雫に対して警戒の色を薄める事は出来なかったが、雪音は不思議とその手をとっていた。

 これが雫と雪音の物語の始まりだった。

 「うむ、では六花堂に参ろうぞ」

 雫は今日イチの笑顔をみせご機嫌に雪音を招いたのだった。

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