進入可能限界値
訪ねていくと、千年屋は折悪しく店主が不在だった。
店先にいたのは痩せた中年の男で、店の手代だという。
「今川館の遣いの者です。こちらの書付の酒を頂戴してくるように言いつかって参りました」
こう伝えて紙を渡すと、彼は女将を呼びに行くと言ってそそくさと奥へ引っ込んでしまった。
待つ間ぼんやりと往来を眺めて、漠然と不安な気持ちになった。
野分としての生活をして早五日。
キャラデザそのまんまの人を見て毎度、やっぱりあのゲームじゃん、と確信することはするのだ。でもそれ以外の場面、ありふれた人の生活の面に自分が溶け込んでいくのを感じると、もしかしたら違うのかも、という疑心暗鬼が出てくる。そうかも、違うかも、と反復横跳びし続けている。
市場のそこここを賑わす人々。売り買いされる牛馬の鳴き声。どこぞで餅か団子でも焼いて売っているのか香ばしいにおいもする。
城内とはまた違う。日に焼けていて騒々しくて明るい、市井の人の営みがある。
この地に生きて暮らす老若男女の姿が鮮やかに、かくあるべき自然なものとしてそこにある。
ここが本来はソーシャルゲームの世界だなんて考えは荒唐無稽な思い込みのような気がしてくる。本来いるはずと思い込んでいる“私”という存在に自信がなくなってくる。
暗い物思いに陥りかけた頃、「もし」と幽霊のようにか細い声で呼びかけられた。
さっきの手代が戻ってきていた。
彼がぼそぼそと言うことには、「注文の品を今用意しているところなので半刻ばかり待ってほしい」らしかった。
仕方ないので、その頃にもう一度訪ねることにして、私は市場の見物に出た。
ちょうど確認したいことがあったのだ。
酒壺を小脇に抱えて歩き回るのも億劫だと思っていたので、正直渡りに船の提案だった。
もしもここが既存の日本の形をちゃんとしていて、ゲームの主人公である初花姫に関係のないところにまでちゃんと天地が続き、人々が生きて暮らしているのであれば、ここはもうゲームの中とかではなくそういう異世界ということで納得できる。
野分には同僚と築いた人間関係があった。彼女たちは意思疎通ができるし、生身の体もあってパーソナリティだってしっかりしている。
城内の人々や、市場の様子ひとつとっても、確かにそこに息づくものがある。
ただのゲームのNPC、単なるグラフィックの一部。そう思うには五感に訴えてくるものが多すぎるのだ。
私は千年屋からほど近い南門へ足を向けた。
門前通りは栄えていた。茣蓙を敷いただけの物売りよりも、しっかりとした店構えの大店が多い。呉服商、金貸の土倉、旅籠もお茶屋も飲み屋もある。
今川統治下の駿府は大きな戦とも縁がなく平和に見える。
道端に立てられた高札によると、門を抜けてしばらく行ったところに通行税を取るための関所があるらしい。
持ち合わせがないし、夕方までには戻ると伝えてしまってあるのであまり遠くまでは行けないが、とりあえず関の手前まで行ってみようかと思っていた。
門を通り抜けようとその庇の下へ入りかけたとき、ドン、と重い衝撃が全身に響く。
人や荷車やその他障害物にぶつかったわけではなく、弾かれたというほどの反発でもない。ただ、門樋の先へは体が一切進まないのだ。
あたかもコンシューマゲームのフィールドの限界地点のように。ここから先には何も空間が作られていないので行けません、というあの拒絶に近しい進行不可。先の道は確かにそこにあるのに。
駄馬に牽かれた荷車とその持ち主らしい男がゆっくりと私を追い抜いていく。門の影に立った笠に黒い袈裟のお坊さんがちらっと私を窺い見る。怪しまれている。
もう一度、今度はそっと進入を試みる。
変わらず、ドッ……と鈍い衝撃。
透明な、表面だけ柔らかい壁があるようだ。
周りを見渡しても、誰も同じ状況になっているようには見受けられない。挙動不審なのは私だけだ。
ついさっき今の今、リアルな世界観にハマり込んでうだうだ感傷的になっていたのに。
こんな親切設計があるだろうか。
またしても、やっぱりゲームじゃん、という安心感のような、反面で落胆のような気持ちが湧いてくる。
本物に思えるほど生々しくても、やっぱり現実であるはずがないのだ。
ともかく城から、というよりはゲームの起点である初花姫から遠く離れては活動できないことはわかった。
ソシャゲの世界観であろうという仮説の都合上、 姫の観測範囲を出て果たして生きていけるのかという疑問があったのだ。
もしかして私ひとりだけで別天地に逃げることも可能かもしれない。そこを確認したかったのである。
もちろんこの世界の中で逃げ回ってその後どうするという方策があったわけではない。ともかく野分が戦乱に巻き込まれて死なないような土地へ移動することはできるだろうと思っていた。
捕らぬ狸の皮算用だったことがわかったので、もうこの案はいい。却下だ。
何が何やらわからないがどうやらきちんと独立して存在しているモブキャラたち、特にこの野分という人に彼女を育んだ環境があったことや、分かちがたい縁の人々がいるとされているように、"私"にも家族がいる。
私と彼女の生い立ちで重なるところなど庶民というくらいしかない。むしろお城に就職した彼女の方がずっと上等だ。
でも私にも20年ばかり歩んだ人生がちゃんとあったことを忘れないようにしなくてはいけない。
"私"は沙都という名前の大学生で、父母と弟の四人家族に犬が一匹。
大学のサークルの同期。先輩。ゼミの友達。小学校からの幼なじみのリョーコと翔ちゃんと稔。
思い出せるだけ思い出して、掴んで離さないようにしよう。
元の世界に戻る方法もさっぱりわからない以上、せめて自分を見失わないことだ。
来た道をとぼとぼ戻りながら、決意を新たにする。
兎にも角にも下手を打たないこと。当面はそれだけだ。
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