何事にも余裕が大事
翌日のことだ。
当たり前のように一日が終わり新しい朝を迎えてしまい何それ?という気持ちだ。
昨晩は色々と考えてしまってろくに寝れず……ということもなく、野分が寝つきのいいタイプなのかそれとも私がただ呑気なせいなのか、ぐっすりと寝た。
実際、色々考えてはいたのだ。
先輩と同期とのドライブ以降の記憶がないんだからもしかして死んでるかもというのは悲観的すぎかも、でもぐっすり寝てるうちに死んだのかも、いや死後の世界が史実と全然違うとんでも戦国時代のゲーム世界っていうのもおかしいしやっぱり夢を見ているだけかも、でも夢の中で寝起きするのも変な話だし、そもそもあの初花姫って同じ世界から来た人なのかな
等々と考えている内に寝落ちしたというだけで。
もしかしてここで寝たら現実の方で目が覚めたりして、という期待もあったが裏切られた。
私はまだ野分の体に居残りしている。本来の人格である野分と、後から割り込んできた私とで二重人格のような状態になっておかしくないと思うのに、頭の中で野分と会話するような事態も今のところ起きていない。
起床後、同室の燕と簡単な食事にありついた後、私たちは揃って主から呼び出しを受けた。
野分と燕が仕える主――今川治部大輔義元公の側室、
野分としての経験知識その他諸々がついているとはいえ偉い人に会うような心の準備ができてないのに。
戦々恐々とする私をよそに、燕はゆるりと構えている。
「姫様のお目覚めがあって昨日の今日で早々の呼び出しだもの。まあ用件は自ずとわかろうもんよね」
「つまりどういうこと?」
燕は私の質問にちょっと眉を上げて、 何か怪しむような目つきをしたが、 結局教えてくれた。
「配置換えでしょう。御方様はお優しいけど立場が強い方ではないし。公方様から女中を都合しろと言われたら断れないと思うのよね」
なるほど。いや、側室の立場が弱いとか大きい声で言わない方がいいとは思うけど。
「じゃあ私たち両方初花姫様付きになるかもしれないんだ」
「あんまり大きい声じゃ言えないけど、そっちの方が旨味はありそうよね。 姫様を竹千代殿に要すなんて噂もあるくらいだし」
竹千代って誰よ、と聞きたかったが、さっき燕に一度怪しまれている。やめておいた。
本来の野分なら知っているはずのことなのだろう。あとでじっくり、思い出せるかどうか試してみなくてはいけない。
呼び出された奥座敷には淡海の方とその側近の
私たちが間仕切りのところで止まって座礼をとろうとしたところ、「もっと近くへ」と御牧殿から声がかかった。内々の話らしい。 燕の予想はおおよそ当たっているのだろう。
淡海の方は、相手にしているのが下っ端の女中にも関わらずきちんと正座していた。小柄な女性だ。顔色はやや蒼白いが、その頬はあどけない子どものようにふっくらとしている。
暗い赤の地に扇と梅模様の小袖を身に着け、 その上に黒無地の打掛を羽織っている。当人のかわいらしい印象に反して渋い色合いだ。
なんとなく、お仕着せに体を押し込まれた人形のようにも思える。
「昨日は災難でしたね、 野分。 燕も昨日は大変だったことでしょう。ご苦労でしたね」
おっとりとした口ぶりで労われて、 私は平伏していた頭をより下げた。すぐ横で燕も同じ姿勢を取っている。
淡海の方の声を聞いて、脳裏にちらちらと野分のものらしい記憶が垣間見えている。いまいち掴みにくいが、主従としてはそう悪い関係ではなかったように思える。
「顔をお上げ」
促されてからゆっくりと顔を上げる。真正面から見た淡海の方は、やはり少し……
――また少しお痩せになった……
そう。まろい頬にごまかされかけていたが、確かに、重ね着しているはずの体の線が心配になるほど華著だ。
「察しはついていることと思うけれど、 殿のご用命で近々この三の丸の侍女から数人、姫の下へ行ってもらわねばならなくなりました」
一瞬出てきた野分の声に私がびっくりしている間に、淡海の方は単刀直入に用件に入っている。
傍目には訳もなくおろおろしている私を、御牧殿がちらっと不審げに見た。
「紅雨の局の主はどうしても、年頃の近い娘でないと気が休まらないと言うらしいの」
おっとりとした声のまま、 ほのかに丁重さを欠いた調子で淡海の方が続ける。
憎たらしいことをいう子どもに「困ったものね」 とため息をつくような、呆れのニュアンスを多く含んでいる。気がする。
紅雨の局というと、女中が集められて急遽掃除と搬入をやった棟だ。初花姫の居住スペースのことで間違いない。
本名で呼ばないのが普通の価値観だとしても、 今川家当主の側室が夫の従姪を「局の主」と呼ばわるとなると他人行儀というか、かなり心理的な距離を置いているように感じる。
今川義元がその死を大いに嘆き悲しみ神事に頼って蘇生まで試みた美姫を、彼の側室が快く思わないのは自然なことなのかもしれない。
「待遇が変わったりということはあるんでしょうか」
横合いから質問が出た。燕だ。妙にはきはきしている。むしろうきうきしている。
予想が当たって、しかもうっかりすると栄転の可能性まで感じているらしい。 彼女には、君主の寵愛がより深い方へ移動しようという機敏さがあるのだ。
「姫様がどう遇して下さるかに依ろう」
御牧殿が渋面を作って言う。 彼女は井伊氏から淡海の方についてきた忠節の人のようだから、利得に敏いタイプには軽蔑が先立つのかもしれない。
「あの……姫君の今のご様子についてなのですが」
「まだ少し錯乱しているようだとか。仔細は侍医の診断の結果を待つ他ありません」
私の質問にも、御牧殿の回答があった。
さもあろう。初花姫の中の人はまだこちらに順応できないでいるのだ。
「二人とも、承服してくれるということでよいかしら」
穏やかに、けれどきっぱりとした淡海の方の言葉を潮に、面談は終了ということらしかった。
話を内々の形にしたのは、私たちへの意思確認どうこうのためではなく、お方様から漏れ出る姫君へのほのかな毒をよそへ流さないためのようだった。
燕はにこやかだった表情を引き締め、私はまだ落ち着かないような気持ちで、一礼して奥座敷を辞去しようと中腰になった。
その私たちの後ろで襖が開いた。スパッと音を立てて、勢いよく。
私も燕も中腰のまま首だけ振り返ったが、慌てて向きを変えて座り込み、平伏することになった。
「早々から女人ばかりで何の内証事かね、淡海の」
今川治部大輔義元公が、御渡りの声もなくやってきたのだ。
つと顎を上げた淡海の方は夫に向かって、「お珍しいこと」としとやかに驚いて見せた。
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