底にいる。

@kororo00

底にいる。

私の母は気の強い人であった。

私が小説家を目指したいと九つの時に言ったことがある。

「小説なんてのはそうとうな苦労人が慰めを貰うために書いてるもんさ。苦労のかけらも知らないあんたが書けるかい。」

そう母は返すと手を向けしっしと追いやった。

人が何を目指そうと勝手だろうと普通なら思うだろうが、私の悪い性格がそれを拒んだ。

当時の私はとても諦めが早かったのだ。

人に無理だと言われたものならすぐに諦めてしまう。

だがそんな私にも『意地』があったのだろう。

今となっては恨みしかない『意地』が。

「前例がないだけだべや。作ればいい。」

「勝手にしれ。金は出さんぞ。」

「構わん。」

もし、今自分に子がいて小説家になりたいなんぞ言おうものなら迷わず止める。

「人生の『底』を長い間見てきた者にしか文章は書けん。素人が書いたところでそれはただ文字が並べられている何かでしかない。」

「、、、『底』とはなんだ。」

「人生にある穴の『底』よ。」

「ふぅん、『底』なんぞ見んでも書いてやるわい。」

「書こうと思っている気持ちがあるなら書かん方がいい。」

そう話したきりまともな会話をしていない気がする。

覚えていないのなら多分そうなのだ。


私が二十になった年、母が死んだ。

事故であった。

父はすでに他界し、

二十歳で頼る親族もいないので世から見れば私は不幸だったのだろう。

期せずして私は『底』を見るチャンスを得たのだ。

だが、私は文を書くことが出来なかった。

出来上がったものは文字が並べられている、

何かだった。

『底』は見えなかったのだ。

私は母の死さえ『底』に出来ぬ者なのだ。

いや、違う。

母の死をも『底』にしようと、

文を書く理由にする者なのだ。

果たして流行りの小説家は文を書こうとして書いているのだろうか。

母の言葉を思い出し、思案に暮れた。

『底』を見たから文を書くことが出来るのか

『底』を見てしまったから自ずと手が筆へ

逃げ、逃げた先に出来たものが文だったのか。

そんなくだらないことを考えているうちに、

ふと背筋に悪寒が走った。

人生から足を滑らせた気がした。

「まずい、やってしまった。」


『底』が見えたのだ。

しかも一つなどではない。

自分が『底』を見ることができないことへの『底』と、

母が言った

『底』を見ないと文は書けない。

という

私への縛りである『底』だ。

私は、『底』を見ずとも小説を書こうとしていた。

しかしいつからか、小説を書くために

『底』を見ようとしていたのだ。

あの時くだらぬ『意地』なんてはらずに、

母と会話をしていなければ今は幸せに

暮らしていたのかもしれない。

だがもう手遅れなのだ。

「あぁ、『底』が見える。」


今の私は文など書く気にもならない。

だが、筆に逃げるしかないのだ。

売れるか売れないかなんて関係ない。

穴から抜け出すために書く。

私が滑り落ちたのではない、

母の発言と私の『意地』が穴から手を出し、

落ちたのだ。

本当に悪かったのは諦め癖ではなく、

あの一瞬の『意地』だった。

諦め癖は私を絶望から救っていたのだろう。

才が一つもない私の防衛本能だったのだ。

だが、今となってはそんなことを考える余裕も悔やむ力もない。


依然、眼前に迫るは『底』のみ。

抜け出せる見込み

未だ、なし。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

底にいる。 @kororo00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ