第2話 有料老人ホームにて2
ジン老師の部屋を出ると暗い廊下で深呼吸をしてから歩き出した。
一歩一歩落ち着きを取り戻すように歩く。
施設は束の間の静かな時間帯に入り仁美さんは休憩室に行ってしまい、俺は一人ステーションでのコール待機をしながら夜勤入りの記録作業に没頭しようとしていた。
(血の匂い)
ジン老師から言われた言葉が頭から離れず記録作業は一向に進まない、集中力が乱されるのは一般市民に戻ったことで、この環境には馴染まない記憶が浮かび上がってしまったからだ。
封印していたおぞましい記憶はジン老師のつぶやきで目を覚ましてしまった。
4年前の記憶に再び蓋をするように、ゆっくりと呼吸して目の前のモニターに映し出された介護記録用のソフトに入力を始めた。
「申し送り始めます……201の田中さんは変わりなく良眠でした。次に202の陣内さんです。昨夜満月ということで不穏になりいつもの魔王や姫の話で大きな声を出しています。転落等なかったのでご家族には連絡していません、引き続き様子観察お願いします。次に203の……」
夜勤から解放され、帰り支度をしようとロッカー室に向かう途中202号の前を通ると居室のドアが開けられたままな事に気が付いた。
ジン老師は大きな声を出す事があるためドアを閉めるのが基本だ。早番さんが閉め忘れたのかと思い俺はそのドアを閉めようとノブに手をかけるとジン老師と目が合った。
すでに朝食を終えベッドに戻されているジン老師は俺を見るなり手招きをした。
「若いの、鉢植えのゼラニウムを買ってきてはくれんか?」
「ゼラニウム?」
おかしな頼みごとに困惑したが笑顔で傾聴する。
「陣内さんゼラニウムとは花ですか?申し訳ないのですが施設職員は買い物の介助は入れないのですよ、ご家族にお願いしていますので……」
何事もなければ日中おとなしくテレビを見て過ごすジン老師の地雷を踏んだのか目くじらを立て怒鳴り始めた。
「連中はだれひとりワシの言う事を聞かん、もう待てんのじゃ、金なら余計にやる!残った分はお前の駄賃にくれてやるからさっさと買ってこんかい!」
ちょっとした騒ぎになり日勤者が飛んできた。事情を説明してる間もジン老師は騒ぎ立てながらベッド柵をガタガタと揺さぶっていた。
「今こそ魔法の力を使う時なのだ!」
ジン老師は本気の表情で俺に訴えかけてくる。
あまりの迫力に押され本当に魔法が使えるんじゃないかと思い込みそうになる。
「とにかくこの魔法を使うには漆黒のゼラニウムが必要なんじゃ、頼む転移魔法を使うにはもう時間が無い、あの裏切り者をこの手で……」
随分ときな臭いワードが出てきたものだ。だいたい漆黒のゼラニウム何て普通の花屋で売ってるのか?ここまでくるとせん妄とかいうレベルじゃない、身体拘束でもしないと何をしでかすかわからないなと思いながらほかの職員に任せその場から逃れるように離れた。
昼間にもかかわらずこれだけ暴れるようになると抗不安薬のお世話になるのも時間の問題だと思いながら快晴の空に目を細める。2030年の太陽光が夜勤明けの視神経にストレスを感じさせ、あの日の中東の朝を思い出させた事にウンザリしている。
連休をダラダラと過ごし少しの二日酔いを引きずりながら出勤した。
休み明けの日勤で動きの鈍った体に鞭打つように忙しくしていると、ジン老師を訪ねて中年の外国人と思しき紳士が来所した。
3時のお茶の時間の終わりごろで各利用者を居室に戻している途中の事だ。丁度車椅子の利用者様を居室に送りエントランスに面する廊下を通りかかったところで紳士と目が合い対応することになった。
身なりのしっかりとした紳士はドイツ製の高級車で施設を訪れた。正面の駐車場には介護職員では買えないような高級車が幅を利かせているのが目についた。
「陣内と面会したいのだが」と紳士は言った。
身内ではないらしい男にアポイントはとっているかと尋ねると、迷い無く取っていると断言した。朝の申し送りでも面会者はいないと本日のリーダーが言っていたはず、見落としか?
面会予定帳をチェックしたところで……
名前が……ある?
紳士が示した通りの名前……オリヴァー・バウマンとカタカナで書いてある。昨日から誰も面会の予約電話は受けていない、もしかするとずいぶん前に予約が入っていたのか?よくわからないが予約が入っている以上対応しなければいけない。
日勤リーダーもジン老師の居室へ案内するようにと困惑気味に指示をしたので俺が案内役となった。
ノックをしてドアを開けるとのんきにテレビを見るジン老師がこちらを見る。俺を躱すように紳士はジン老師の前に立った。
紳士オリヴァーがジン老師を確かめるように睨む。
「久しぶりですね、魔導士ジン」
魔導士ジン?
突然の異世界魔法理解者の登場に、あっけにとられた俺はジン老師の反応に注意を向けた。
「魔王なのか?……いっ生きておったのか……」ジン老師は目を見開いた。
異世界オタク仲間の会話に困惑しながらオリヴァーの横顔をそっと伺った俺は背筋が凍りつくような悪寒が走った。
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