14 誘惑

誘惑

 その日の夕食に、伯爵夫人の姿はなかった。


 皇帝のいる宮殿に行っている。執事のガルムはそう説明した。この城から帝都までは、馬車で一時間ほどの距離だ。話では、毎夜のように呼び出されているという。

 食事は豪華だったが、行動の自由はなかった。今日は食堂と自分の部屋を往復しただけだ。邪魔をする兵士を倒して仲間のいる場所を探そうとも思ったが、やめておいた。この城は広大な迷路のようなものだ。行き着く前にルナや仲間たちに危害が加えられないとも限らない。


 ギィィィィ。ドアを開ける音に、オレは目を覚ました。

 まだ深夜のはずだ。部屋の隅にあるロウソクの火が燭台に残っている。


 オレは薄目を開けながら、入って来る人影を観察した。どうやら女性だ。携帯用の燭台が彼女のまわりに光を与えている。


 もしかして、裸なのか。

 明かりが白い乳房を照らすのを見て、オレは戸惑った。

 だが、そうではないらしい。よく見ると絹のように薄い布をまとっている。ただ、隠すための効果はほとんどない。長い銀髪がくびれた腰にまで届いている。


 燭台がテーブルの上に置かれた。

 彼女はオレが寝ているベッドに座った。頭のすぐ先のところに、シーツに浅く埋まった臀部ヒップが迫っている。下着はつけていないようだ。


 自然と心臓の鼓動が速くなってきた。

 この体になってから男性的な欲求は減っていたが、頭は覚えている。オレにだって女性との経験が全くないわけじゃない。


「ふふっ。なんて、かわいい子」

 ゾクッとする感覚が全身を貫く。冷たい手が頬に触れている。


「眠っているふりをしなくてもいいのよ。あなたのために来たんだから」


 バレているなら仕方ない。

 オレは目を見開いた。薄衣に包まれた肉体の全身が目に入ってくる。

「伯爵夫人か」


「イレーヌと呼んでちょうだい。あなたの気持ちを聞いておきたくて忍んで来たの。私とあなたはパートナーになれると思うわ。どう。私と一緒に、この世界を手に入れたくはない?」


「ずいぶんと大きな話だな」


「あなたは、それにふさわしい力を持っているわ。人間と魔族。魔法を使い分けるだけでどちらも癒せるし、どちらも殺せる。今も触れるだけで私の命を奪えるのよ」


「そんな話をしていいのか。本当にそうするかもしれないぜ」


「あなたは賢い人よ。意味のないことはしない。私を殺せばあなたの大切な仲間と子どもたちが死ぬ。それくらいの準備はしていると思っているはずよ」


「おまえを脅して人質の居場所を聞く手もある」


「私が脅されるような女だったらね。でも、それは無理よ。私にはあなたに殺される覚悟があるもの。死ぬのは残念なことだけど、そうなってしまったら仕方がないわ」


 殺される覚悟があると言うのは本当だろう。そうでなければ、オレの手の届く場所に一人では来ない。


「口先だけなら何でも言える」


「試してみる? でも、やり直しはできないわよ。私に手を出せばあなたの大切な人間が全て死ぬ。私もあなたも、もちろん死ぬ。あなたがそんなに愚かだとは信じていないけど、それならそれで仕方がないわ」


「わかった。話だけは聞いてやる」

 オレはベッドから体を起こした。枕を背にして座る。


「いい子ね。命がけで誘った甲斐があったわ。実はね。もういい加減、あの老ぼれに抱かれるのが面倒になっていたのよ。エリクサーで元気になっているから、あの年なのに何度もするのよ。それこそ、あふれるくらいに。

 そろそろ始末したいんだけど。あれでも皇帝だから、簡単にはいかないわ。宮廷には私の息のかかった人間も多いけど、ライバルもいるのよ。別の魔族もね。だからあなたには、私にとって邪魔な魔族を殺してほしいの。それと、あなたの力で有力な魔族も味方につける手伝いもしてほしいわ」


「味方につける手伝い?」


「回復魔法の反転術式は魔族にとってのエリクサーよ。病気の治療だけでなく、アレにも効くのよ。三百年前、私たちが人間に負けた時。その決め手になったのは魔族を殺せる回復魔法よりも、むしろ反転術式の方だったわ。圧倒的な快楽で魔族を分断したのよ。その力を使えば人間だけでなく魔族も支配できる。どう、理解してくれたかしら」


 あの力が、魔族にとってのエリクサーなのか。

 イレーヌがオレの力を欲しがっている理由がわかった。エリクサーが人間を狂わせるように、オレの力も魔族を狂わせることができる。そうなってしまえば、操るのは簡単だ。


「オレが、人間やエルフを殺す手伝いをすると思うのか」


「それが人間のためにもなるのよ。人間に対する支配が完璧になれば、ポーションの生産はやめるわ。どうせ永遠に侵略戦争を続けるわけにはいかないもの。それにエリクサーはエルフを素材として使うけど、そのおかげで何倍も、何十倍もの人間の命を救うことができるのよ。戦争のない平和な世界を作って、その世界にあなたと私で君臨するの。どう、素敵な提案でしょう。あなたの決断で、それが実現できるのよ」


「オレは、皇帝になんかなりたくない」


「野心のない男はいないわ。そのことにまだ、気づいていないだけ。

 さあ。そろそろ、あなたの力を私で試してちょうだい。最高の快楽か、刺激的な死か。あなたが私にどちらをくれるのか、楽しみでゾクゾクするわ」


 イレーヌはオレの手を取って自分の胸に押しつけた。心臓が、すぐその奥にある。


 この女は間違いなく事件の元凶のひとりだ。こいつのせいで多くの回復術師とエルフが死んだ。安物のポーションを作るために、無数の人間が命を落とした。


 今なら殺せる。

 その考えが、やけに魅力的に思えた。

 そして呪文を唱えるその瞬間まで、オレはその迷いを振り払うことができなかった。

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