1 路地裏の天使
再生
う、ううん……。
ぎこちなく首を動かしてから、オレは目を開けた。ぼんやりとした視界の隅に月が見える。
どうやら意識を失っていたらしい。
早くここを離れないと。テッドが戻ってくるかもしれない。まだ生きていることを知られたら、今度こそ助からない。
ズルッ。立ち上がった瞬間、ズボンが脱げ落ちた。それだけじゃない。下着まで一緒に落ちる。オレは反射的に前を隠そうとした。だが、変だ。シャツが膝まである。
こんなに長かったか。いや、ただ長いんじゃない。大きいんだ。革の上着は肩が落ちていた。腕に絡まって、ようやく引っかかっている感じだ。それがやけに重い。
オレは邪魔になった上着を脱いで、下着のシャツ一枚になった。気になって手を見る。指の関節が短い。まるで子どもの手だ。
うん、なんだ。手が、手がどうだって?
そういえばさっき、テッドに手首から切り落とされたはずだ。よく見ると、血に濡れた石畳の上に指のついた肉の塊が転がっている。そうするとこれは何だ。まさか再生したのか? 確かにそう願った。だがいくら回復魔法でも、何もないところから肉体は作れない。手首の代わりにオレの体が縮んだ。そう考えるしかない。
「くそっ、カイン。しっかりしろ」
とにかく逃げることだ。他のことは後で考えればいい。
服は捨てて行くしかなかった。ヒーラーが狙われている以上、自分と結びつけるような証拠は持ち出したくない。それにどうせ役に立つ物は思いつかなかった。下着のシャツ一枚というのは何とも心細かったが、幸いにもまだ、それほど寒さは厳しくない季節だった。魔力で体を温めれば、野宿しても死ぬことはないだろう。
サイズの合わない靴も捨てるしかなかった。足の裏に石畳の感触が冷たい。
それからまた、どれほど歩いたのか。
「どうしたの?」
突然、道の右側から声がした。
建物の隙間に十才くらいの女の子がいた。汚れてくしゃくしゃになった金髪を肩まで垂らしている。その子は首から下に大きな布を被っていた。どうやら野宿の先輩らしい。建物の壁に、もたれかかって眠っていたんだろう。
「気晴らしに、ちょっと散歩していたんだ」
女の子は小さく笑った。
「まるで大人みたいな話し方をするのね」
「そうだ。教えてくれないか。今のオレは何才くらいに見える」
「当ててくれってこと? そうね……七つ。いや八つかな。顔を少し動かしてくれる。月明かりで見てみたい」
俺は彼女の言う通りにした。
「うわぁ、かわいい。女の子みたいに綺麗な顔。キミ、男の子なんだよね」
「どうやらそうらしい」
体は小さくなっていたが性別までは変わっていなかった。試しにまさぐると指先ほどのものが、あるべき場所についている。
どうやら死にかけたオレは、自分の魔法で体を分解してから再構築したらしい。八才児並だとすると、体重は元の三分の一くらいか。そういえば小さい子どもの頃、かわいいねと褒められたことを思い出す。
「キミって、変な子だね」
彼女はまた笑った。
顔を上げた彼女の瞳は、右の方が白く濁っていた。たぶん栄養失調からくる失明だ。よく見るとひどく痩せている。
「こっちへ来ない? 二人なら、少しは温かいよ」
彼女は被っていた布の前を開けた。その間から薄汚れたシャツが見える。
「ありがとう」
オレは好意に甘えることにした。まんいちテッドの奴が現れても、身を寄せ合って眠っている浮浪児を怪しいとは思わないだろう。それに、この少女と離れたくない。そう思っている自分がいる。
「はい、これ」
彼女はオレに、両手で大事そうに何かを差し出した。白い小さな塊。よく見ると、固くなったパンのカケラだった。
「お腹がすいて眠れなくなることがあるから、少しだけ残して隠しておくの。でも、今日は大丈夫。一緒にそばで寝てくれる人がいるから。温かくて幸せな気持ちで眠れるもの」
「ありがとう。でも、お腹はすいていないんだ」
オレは罪悪感で胸がギュッと締めつけられるような気分になった。
酒場で浴びるほど飲み食いしている連中もいれば、こういう貧しい子どももいる。別に昨日や今日に始まったことじゃない。今まで、みて見ぬふりをしていただけだ。
「名前はなんていうんだい」
「ルナ。キミの名前は?」
「カイ……、カイルだ」
オレはとっさに一文字だけ名前を変えた。
「その中に入れてもらうお礼に、いいことが起きるおまじないをしてあげるよ。さあ、目を閉じて」
「うん」
彼女はまるで聖女のように指を組んだ。垢とホコリにまみれた肌を、奇跡のように月の光が照らす。
オレは彼女の顔に手をかざした。
回復魔法は万能じゃない。傷ついたばかりならともかく、ずっと前に失明した目を治すなんてこと、普通は無理だ。
だが、今ならできるような気がする。この体になってから魔力の流れが全然違う。自然に力があふれてくる。体が再構成された時、
手応えはすぐにあった。
ああ、こうすればいいのか。今までは理屈どおりに魔力を操ろうとしてきた。だが、それこそが間違いだった。ただ、対象となる体の声を聞いて応えてやればいい。さっきと同じだ。オレは生きたいという体の要求に従って魔力を流しこんだ。そのおかげで今、生きている。
「目が熱い……」
「もうすぐ終わる」
かざしていた手を離した時、オレには確信があった。
「目を開けてごらん」
まつ毛が動いてから、ゆっくりと瞼が開いた。右目は、もう濁ってはいない。宝石のような青い瞳の奥に、俺のものらしい小さな男の子の姿が映っている。
あ、ああ……。
オレは声にならない声を聞いた。
「見えるかい?」
溢れ出てくる涙がその答えだった。ルナは汚れた手を布でこすってから、再び指を組んで祈り始めた。
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