第5話「ほしくない」
嵐が去った翌日。
気持ち良いくらい雲ひとつなく晴れ渡った青空の下で、珍しくバルコニーへと出た。
金属製の柵の上に両手で頬杖をついたままのティタニアは、イグレシアス家お抱え騎士団の演習の様子を見た。
イグレシアス家のお抱えとは言っても、敵国国境と領地が接して緊迫している情勢な訳でもなく、彼らは平和な領地内の治安維持が主な仕事だ。
そのため所属している騎士たちは、選りすぐりの精鋭揃いとはお世辞にもとても言えない。
むしろ俸給の額などの問題もあるので、色んな意味でそこそこの人材が望ましい。
形だけのだらけた様子で打ち合いをしている訓練場の隅に、彼らは居た。
精鋭中の精鋭が配属される中央騎士団の魔騎兵であったプリスコット家の二人が、暇そうに欠伸を噛み殺しているのを見て、やっぱり昨夜の事は夢だったのかなとティタニアは首を捻った。
朝目覚めた時には、当たり前の話だが彼らは傍には居なかった。
けれど、嫌なことを思い出す嵐の夜にぐっすりと眠れたのは、それまで共に寝てくれていたティタニアの母がいなくなってから、初めての出来事であると言っても良い。
スノウの種族、雪豹はその名の通り雪が降るとても寒い地域に生息するため、その毛並みはふかふかで、触れた者には極上の手触りを約束するらしい。
ティタニアの部屋にあった古い辞典には、そのくらいの情報しか書かれていなかった。
またお世辞にも蔵書の多いとはいえない図書室へと行って、詳しく調べてみなくてはいけない。
スノウとユージンは本当に仲の良い様子で、何か言い合っては声をあげて笑っている。
その仲睦まじい様子を見て、ティタニアは目を細めて微笑んでしまう。
「おい」
いきなり後ろから手を取られ、それを強い力で引かれたティタニアは心の底から驚いた。
婚約者のジュリアン・ストレイチーが唇を歪め、不機嫌そうな顔をして見下ろしていた。
すらりとした体軀に色素の薄い金髪に緑の目、麗しい整った顔立ち。
いくらでも選りすぐりの美しい妻をもつことの出来る高位貴族は、遺伝的に自分自身も美しい顔をしている者が多い。
ジュリアンも、その例に漏れず美しい顔をしていた。
いわゆる女性的な……剣など持ったこともなさそうな、たおやかな麗しい風情だ。
幼い頃から彼を身近に見てきたティタニアは、もちろんそういった意味で驚いた訳ではない。
目の前に居るジュリアンがティタニアに触れたのは、どれくらい振りだっただろうか。
もう思い出せもしなかった。年明けの新年の舞踏会だっただろうか。
……流石にエスコートをしたり踊ったりするというのに、一切手を触れないというのは無理だ。
「ジュリアン……何?」
心の中の動揺を押し隠し、落ち着いた様子で声を掛けるティタニアを見て、不満そうにジュリアンは鼻を鳴らした。
彼はいつも気に入らないのだ。
そう、ティタニアの、何もかもをきっと気に入らない。
「……どっちなんだよ」
その言葉の意味がよくわからなくて、ティタニアは眉を寄せてしまった。
それはふたつのもののどちらか片方を選ぶ際に使われる、ということは、もちろん彼女にもわかってはいるが。
「仰っている意味がわかりません。何のことでしょうか?」
ティタニアはわざと慇懃な言葉で返した。
それが彼の神経を逆撫でするとわかってはいても、我慢できなかったのだ。
それに、無遠慮に触れられた手首をとにかく早く離して欲しかった。
生ぬるい人肌の熱が伝わって来て、ひどく不快に感じたからだ。
ジュリアンに、触れられたくない。
「プリスコット家のあの二人だ。主家の三男と、傍系ライオールの嫡男か。この俺がいなかったら、イグレシアス家を継がなければならない君には、願ってもいない婿候補になりうる存在だな? ああ、でも……逃げるのは、せめて結婚してからにしてくれ。俺が伯爵になった後なら、君がどこの誰と逃げようが、気にしない。むしろ、早目にいなくなってくれると、好都合なんだが」
「お言葉ですが……」
苛立つ気持ちを押し隠して、何度か手を離させようとするが、その意図がわかっているはずの彼の手の力は緩まない。
ティタニアが嫌がることをわかっているかのように、ますます握る力が強くなっていくようでもあった。
より近づいてくるジュリアンの顔に嫌悪感を隠せなくて、ティタニアは我慢出来ずに顔を背けた。
そして、彼は不快に感じる生温かい息を吹きかけながら耳元で囁いた。
「二人とも騎士なだけあって、鍛えた良い身体をしてたな? 処女の君も体が疼いたか? 尻軽の娘は違うね。残念だなあ、今まで大事に大事に守られた、君の処女は俺のものなのにね」
ジュリアンはくつくつと喉を鳴らして、嘲った。
いなくなった母を侮辱する言葉に、どうしても堪えきれなくなって、ティタニアは頬を一筋伝っていく涙を感じた。
幼い頃、ジュリアンとティタニアは婚約が決まった。
彼が十でティタニアは八つだった頃だと思う。
「彼と将来結婚するんだよ」と祖父から言われた初対面の時、天使のような顔をした彼に笑いかけられて、嬉しかった事をうっすらと覚えている。
仲が良かった、と思う。
ティタニアは、その頃をあまり覚えていないからだ。
ある日、突然彼は人が変わったかのような態度をとるようになり、驚き戸惑う幼い頃のティタニアを罵倒するようになった。
怯えるティタニアに、鋭い軽蔑の眼差しを向けた。
最初はそれが何故か、わからなかった。
仲の良かった彼が、どうして、と何度も泣いた。
そして、楽しかったり美しかったはずの思い出も、全部胸の底に埋めて蓋をした。
けれど、利発だったティタニアがあるひとつの結論に辿り着くまで、そう時間はかからなかった。
ジュリアンは「尊い高位貴族の一人であるはずの自分が、庶民からの成り上がりに過ぎない隣人に金で買われた」と、理解してしまったのだ。
それはある意味、事実だった。
ティタニアとジュリアンとの婚約を整えるために、祖父は庶民には想像もつかない、途方もないお金をストレイチー家に積んだはずだ。
幼い彼の貴族としてのプライドをズタズタに傷つけてしまったのは、イグレシアス伯爵家だ。
それには、幼いティタニアも訳が分からなかったとしても、それに加担していた。
だから、いつも彼に何も言えないままで、終わってしまうのだ。
「あいつらに色目を使っても構わないけど、処女はちゃんと守りなよ。婚約不履行で訴えられたくはないだろう。ふしだらな庶民の血が入ってるから、難しいかな?」
「おい」
昨日初めて聞いたばかりの低いその声を聞いて、弾かれたようにティタニアは顔を上げた。
ジュリアンを睨みつけ、ティタニアの手首を持つ彼の手首を更に持っているのは、さっきまで演習場の隅に居たはずの人だ。
彼がいたはずの場所からここは、かなりの距離もありそれに三階のバルコニーだ。
普通に考えれば、この短時間で移動できるはずはない。
けれど、ティタニアは昨日見た光景を覚えていた。
巨木の枝と枝を渡り、するすると上がっていく身軽な姿を知っていた。遠い距離に居たはずの彼が今ここにいるのも、その超人的な身体能力を使ったのだとわかった。
彼の大きな手は、ジュリアンの手首を持っていた。
それでもティタニアを離さないジュリアンの顔を見てから、一層力を込めたのか情けない悲鳴が上がった。
「痛っ……何するんだ。手首が折れるじゃないか」
「……嫌がる女性を、無理矢理触っていたんだ。それでも足りないように思うが」
スノウは、ジュリアンとティタニアの間に、自分の体をねじ込んだ。ジュリアンが視界から消えて、大きな背中に守られ、ティタニアはほっと息をつく。
やっと安心出来る場所にいると、そう思ったのだ。
ユージンもいつの間にか、ティタニア達のすぐ傍に来ていた。
何かを警戒しているのか、眉を寄せ厳しい顔をして三人の傍に居る。黙ったまま、事の成り行きを窺っているようだ。
ジュリアンは、そもそもの性格が卑怯で狡猾だった。
流石にカールの前では、ティタニアにこんな事を決して言わないし、彼女がそれを父親に報告しないことも全て理解していてやっているのだ。
貴族同士の婚約破棄ともなると、大きな話になってしまう。
穏便に婚約解消してくれと頼んだとしても、ストレイチー家に足元を見られて、多大な要求をされかねないのを知っていた。
だから、父思いで我慢強い性格のティタニアは、財政に余裕があるとは言い難いノーサム地方の領地運営に頭を悩ませているカールには決して言わないと踏んでいるのだ。
「そんなことないさ。ねえ、ニア。彼らは何か誤解をしているようだ。ちゃんと説明してくれないか?」
ジュリアンが聞いたことのない甘い声で自分を呼んだのを聞いて、ティタニアはぞっと背中に寒気が走った。
ニアは幼い仲良かった頃に、彼だけが呼んでいた呼び名だ。
それを今この場をしのぐためだけに使われたことに、彼の品性の低さを露呈し、ただただ嫌悪感を感じたのだ。
「……スノウ様、申し訳ありません。何でもありません」
「なんでもない訳が、ない。俺たちが獣人なのを、忘れたのか? この耳はこの下衆が女性である君に、とんでもないことを言っていたのを、漏らすことなく聞いていた……許せない」
グルルと喉の奥で威嚇音がして、刺すような殺気が辺りを取り巻いた。
身を守る術を持たない、生粋の貴族でしかないジュリアンはこの場を取り繕うように慌てた様子で後退った。
「っ……ただの、婚約者同士の痴話喧嘩ですよ。それでは、俺は伯爵のところに参りますので、失礼」
そう早口で言い残して、逃げるように立ち去っていく。
ジュリアン軟弱とも言えるひょろっとした背中を見て、ティタニアは近くにあったスノウの心強い大きな背中と無意識に比べてしまった。
(守ってくれた……)
「ありがとうございます」
背中を向けたまま感謝の言葉を聞いたスノウは、ティタニアの方を向いて心配そうに右手を取った。
彼は心配そうに、ジュリアンが握って赤くなった手首の痕をさすった。
「……赤くなっている。すまない。もっと早く来られれば良かったんだが」
ティタニアは黙って首を振り、大きく温かな手の中から自分の手をそっと引いた。
彼女の拒むような動きに傷ついたようにも見えるスノウの顔に何故か、泣きたくなるようなそんな気持ちもあってティタニアは自分の気持ちに戸惑ってしまった。
「……全部、聞こえていたんですね。獣人の耳ってすごいんですね」
儚げに笑いかけるティタニアに対し、スノウとユージンの二人は気まずそうだ。
あんな明け透けに、ティタニアが嘲られている会話を聞いてしまったのだから、無理もないかもしれない。
「……私の母は、対外的には病気で療養していることになっていますが、本当は五年前に失踪したんです。だから、彼は、ジュリアンは、あんな事を……この城で働いていた男性と、二人でいなくなりました。“運命の人と共に生きます”という、書き置きを残して。父と母は祖父が叙爵されて、庶民からいきなり貴族になりました。元庶民だった母は、貴族として生きることの、難しさをずっと思い悩んでいたようです。彼女が何を思って失踪したのかは、残された私には想像するしかなくて、もうわかりません。父は離縁状のみ提出して、もう探しませんでした。自分のせいで……母を苦しめてしまったとそう言っていました」
スノウはじっとティタニアから目を逸らさない。
どんな言葉でも受け止めると決意しているかのように、彼の青灰の眼差しは真っ直ぐで揺るがなかった。
何故か頬をまた涙が通り抜けた気がして、不思議だった。
別に今更、ジュリアンに突かれたからと言って泣く話じゃないはずだった。
母との事はティタニアは既に自分自身で消化できていると思うし、それは強がりじゃないと思う。
ただ、先程のジュリアンの話を聞いてしまった二人に対して事情を説明しているだけに過ぎない。
「……誰かを傷つける運命なんて、私は欲しくない」
ティタニア本人にも、なぜ出会ったばかりのスノウたちにそんな事を言ってしまったのか、わからなかった。
昨日の夜、夢の中で自分を「運命」を呼んだはずの彼を、心のどこかで、牽制したかったのかもしれない。
それとも、もしそうだとしても自分が欲しいと、そう言って欲しかったのか、自分の気持ちは迷路のように複雑に入り組んでしまっていて、もうわからなかった。
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