第4話「俺の運命」

 重たい晩餐用のドレスを脱ぎ、早々に湯を浴びて締め付けのない寝巻きに着替えると、いよいよ嵐は本格的にやってきた。


 ビュウビュウとした激しい風が舞い、窓を叩きつけるようにした。


 外は漆黒の闇というのだろうか、今この場所は月や星の光も遮るような暗雲の中に包まれていると思うと、それを思うだけでティタニアはぞっとしてしまった。


「お嬢様、そろそろ灯りを消しますか?」


 ティタニアがベッドの中へと滑り込んでから頃合いを見て、手元にちいさな灯りを持ったミアが声を掛けた。


 世話すべき主人のティタニアが眠らないと、ミアや他のティタニア付きの使用人は、休むことは出来ない。


 それが貴族と仕える使用人の関係性だ。彼らはそれで生活の糧を得ている。


 ティタニアは、いつものように肯定の声を返した。


(今夜もきっと、なかなか眠ることが出来ないだろうな)


 この地方に住み、季節的に仕方ないことだとはわかってはいながらも、ガタガタといかにも不安を誘うような音がした。


 今夜はいつものように寝不足になる予感がして、ティタニアは暗い気持ちになった。


 温かな上掛けの中に潜り込んで、予想通り目を瞑って何度も何度もごろごろと寝返りを打っても睡魔はやって来ない。


 じっとして目を閉じていても、目が冴えていてなかなか眠れるような気配はない。


(枕元の灯りだけつけて、本でも読もうかしら)


 側付きのミア達が去ってしまって、既にかなりの時間が経っている。


 いつも勤勉な彼らも、流石にもう眠ってしまっているはずだ。


 暗い部屋の中で、だんだんとそれは名案に思えてきた。


 出来るだけ難解な物語を読み進めれば、頭が疲れて眠りに誘われるかもしれないからだ。


 ティタニアはそう思い立ち、起き上がるためにもぞもぞと体を動かそうとした、その時だ。


「……あーあ、もう。だから、飲まない方が良いって言ったのに……」


「うるせえ」


 ティタニアの自室の近くの廊下で、先程聞いたばかりのスノウとユージンの通りの良い声がした。


 彼らはこれから少しの間、建前上はイグレシアス家に仕えるとはいえ、高位貴族の遊学の身分だ。


 父はそのためティタニアの部屋があるこの棟から、反対方向にある棟に彼ら用の客室を用意していたはずだった。


「スノウ。本当に、ダメだって。君だってわかっていると思うけど、一応君たち二人はまだ一回だけしか顔を合わせてなくて、出会ったばっかりだからね? それに彼女は今は……あんな無礼な下衆とはいえ、一応婚約者も居るわけだし……近くに居て見守るんじゃなくて、奪い取る計画に変更するにしても、時間はこれからたっぷりあるんだから、少しずつ距離を縮めていく方向性で良いんじゃないかな」


 どうやらお酒を飲んで酔っ払っているらしいスノウを、声をひそめつつ止めているユージンは本当に困っているようだ。


「俺の運命が、あんな扱いをされているとわかっていたら、今まで我慢なんか絶対にしなかった! それに、今、嵐で怖い思いをしているなら、一緒に居るくらい別に良いだろう。傍に居るだけだ。何かする訳じゃない」


「いや、だから。若い女の子が眠っている部屋に、異性が夜一緒に居ることって、結構な大問題なんだけど……スノウ、もう今訳がわかってないよね。知ってる」


 ユージンは諦めたように、それ以上何も言わなくなった。そして、かちゃりと開いた蝶番の音に、ティタニアは身体中に緊張感が走ったのを感じた。


(俺の運命……? なんのことなの?)


 スノウの発した意味不明の呼称もそうだが、あんなに先程会っている間中、ずっと不機嫌を態度で表していた彼が、自分の事を奪い取ると言っていた気もした。


 そして、そんなはずがないとそう思った。


 様々な理由から、彼が自分の求婚者であるとは、思い難いのだ。


 最初しゅるっと音がして、しんとした暗い部屋の中に、衣擦れの音が響いた。


「……一応、聞くけど。何してんの。スノウ。言っとくけど、彼女は未婚の、爵位付きの一人娘、貴族令嬢で、間違いなく処女で。酒の勢いで君が手を出して良い相手じゃないことは、酔っていても流石に、わかってるよね……? ここに来てから初日にそんな事を仕出かして、ストレイチー侯爵家と事を構えたら伯父さんとニクス兄に何て言われるか」


「……獣化していた方が、性欲は抑えられる」


「あー、そうなんだぁ。一応、そういうこと判断出来る理性、どっかに残ってた……? どうせなら、この部屋に辿り着く前にそのなけなしの理性、発揮してくれよ……」


「うるせえ。こんなに甘い匂いが充満した部屋の中で、正気で居られるか。ユージン、外で誰か来ないか見張っとけよ」


「げ。それ朝まで、絶対眠られないやつじゃん。僕達、明日騎士団で顔見せなのも忘れてるよね? あー。もう訳がわからなくなっているのは知ってる。少し、言ってみただけだから……」


 ユージンががっくりとして諦めたような声音で呟くと、もう一度、扉が静かに閉まる音がした。


 ベッドに横になったままのティタニアは目を閉じたまま、とても現実だとは思えないこの事態に、驚きのあまり声を上げることも忘れていた。


 実はどこかの瞬間で滑るように眠りに落ちていて、そうして見ている夢のような気もするのだ。


 しかも、こんな嵐の夜に見るには相応しくない、すごく良い方の夢だ。


 あんなに美形の彼に熱烈に求められるなんて、彼の姿を見た若い女性なら、一度は心の奥で願望を抱いてしまうものなのではないだろうか。


 音を立てず、慎重な動きで何かがベッドの上に乗った。


 そろりそろりとした慎重な足取りで、ティタニアの方に近づいてくる。


 けれど何故か理由はわからないけれど、不思議と落ち着いていた。


 初対面のはずのあの彼は、絶対にティタニアが嫌だと思うことをしないという、根拠のない確信もあったから。


 ティタニアの顔の辺りで何かスンスンと鼻が動くような音がした。


 ぺろりと上掛けから出ていた右手をざらりとした舌で舐めた。


 そしていかにも遠慮がちな音で喉を鳴らすと、横向きの体勢で寝ていたティタニアの体に沿うようにゆっくりと身を伏せた。


 ふわっとした毛が所々に当たってくすぐったくて、ティタニアは思わず反対側に身を動かした。


 彼女の動きを追いかけるようにして、そのふわふわとした毛玉はどこまでも追ってくる。


 自分の動きに必死で付いてくる動作が可愛くて、ティタニアはつい反射的にそれを抱きしめてしまった。


 先程まで積極的に自分の体を追ってきたはずの毛玉は、ティタニアの腕の中でピクリとも動かなくなってしまった。


 呼吸を出来るだけ押し殺しているのか、聞こえて来るはずの息遣いすらも伝わってこない。


(確かに品の良いお酒の匂いがする。お父様、奮発してコレクションの高い葡萄酒出したのね。良い匂い。きっと二人のこと、気に入ったのね……)


 元々商人であった父のカールは価値のわからない人間には、それなりのものしか出さない。


 彼はそれを無駄だと思う価値観を、持っているからだ。


 彼の治めるノーサム地方はその土地のほとんどが広大な森林で、努力はしているが今のところ財政上潤っていると言い難い。


 そして商いをする人の性質上、簡単にいうとケチで、自分が不必要と思う余計なお金は、一切払いたくない人間なのだ。


 だから、そんなカールはスノウとユージンをかなり気に入っていて、自分のお気に入りの銘柄の高価なお酒を出してしまうほど、彼らを歓迎しているということになる。


 ふわふわとした毛皮は、気持ち良い。


 本能的な動きで頬擦りしてしまったティタニアの腕の中で、眠っているはずの彼女を起こさないように極力動かずに抱き枕役に徹しようとそう決めてしまったのか。


 獣化したスノウは、先程と同じように息を殺し力を抜いて動かないままだ。


 そういえば、寒い廊下で見張りをしているはずの可哀想なユージンに、先程の夕食の席で嵐の夜はなかなか眠れないけれど、ティタニアはどうなのかと聞かれた事を唐突に思い出した。


 あの時、自分はなんと答えただろうか。


(ユージン様は二心のない聞き上手だから……素直にこんな天気の日にはいやな思い出があるから、いつも悪夢をみてしまうとそのまま言ってしまったんだっけ。嵐の夜にいなくなってしまったお母様のことは……もう今更どうしようもないのに)


 きっとその発言を覚えていて、元気のなかったティタニアの様子を気にしたあの仏頂面からは想像のつかない紳士的な優しさを持つスノウが、酔って気持ちが大きくなったから、ここまでやって来た。


 そんなところだろう。


 確かに二人して同じベッドの上で横になっている、こんな事態が明るみに出たら、国中を駆け巡るとんでもない醜聞になってしまう。


 例えばここでティタニアが叫び声をあげて、誰かがやって来たら未婚の令嬢を傷物にしたスノウは、お酒で前後不覚になっていたという明確な理由があったとしても、それは聞いてもらえはしまい。


 間違いなく、彼の一生をかけてこの一夜の責任を取らざるを得ない。


 でも、ティタニアはそんなことを引き起こすつもりはなかった。


 スノウが女の子なら誰しも憧れてしまう程の美形で、家柄も良く財政上問題のない裕福なプリスコット家の三男で、婿入りを望むのなら願ってもない相手でもだ。


 彼らがここに居るのは遊学のための、たった一年だけ。それだけで良い。


 スノウは、歴史あるプリスコット家の三男だ。


 あの王子様のような容姿ならば、少し酒癖が悪くて仏頂面で性格に難有りだったとしても、未婚の令嬢は誰もが是非にと思い、手を挙げるだろう。


 目に見える財産と言えばいずれ成人したら正式に亡き祖父から相続される鉱山の権利しか持たないティタニアが、卑怯な手を使って手に入れてはいけない人だ。


 そうして、母のいなくなってしまった後。


 父が連れて来てくれた貴族として人間としてすべきことを、生きていく上でのすべてを、教えてくれた家庭教師ロザリアの言葉をこういう時に思い出すのだ。


(逆境にある時ほど、人は誇り高くあるべき。単なる自分の欲望のために誰かの人生を犠牲にすることは、恥ずべき行為だもの。そうして、卑怯な手を使って手に入れたものは、いつか自分自身を必ず苦しめる。わかっているわ。ロザリア先生。でも、こんなに素敵な人が、私の運命の人だったら……本当にそうだったら良いのにな)


 廊下で寒い思いをしているだろうユージンを早く解放してあげたい気持ちと、腕の中にあるなんとも柔らかくて温かく手触りの良い物体を手放したくない気持ちが鬩ぎ合った。


 そうこうしている内に、掠れた低い声でためらいがちに誰かが自分の名前が呼んだような、そんなまどろみの中。


 ティタニアの意識は温かな腕の中のぬくもりに、とけてしまった。

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