常芦門の老婆
それは生まれる前の話。
富める者と、貧しき者。
弱者は情けもかけられず、失意のままに打ち捨てられた。日ノ本は腐りに腐り果て、何の因果か応報は、遥か月より出でて来た。
月の怪物と、ひとは呼ぶ。
「いい夜ね」
武蔵野の空に走る、亀の甲羅の裂の如く。地平に
「通れないよ、ここは。あんたは盲という訳でもないだろう。ご覧、あの禍々しい紅い月——今夜は貴奴が堕ちてくる」
門番の老婆がしゃがれ声で言う。
戦時に建った武蔵野の
「その逆。此方から会いにゆく」
「何故だい。やっとあの下らない戦争が終わったってのに。私らの頃は、女学生も皆、戦地に送られたよ。優秀な子から連れて行かれて、残った女もみんな呆けちまって。ねぇ、お願いだよ、行かないでおくれ」
出し抜けに羽織の端を掴み縋る老婆に、あたしは懐から、御守り代わりの空薬莢を取り出してみせた。光沢ある側面に彫られた『三足烏』の絵に、落ち窪んだ目がみるみる見開かれる。
「こりゃまさか。あんた、蘇芳の……」
縋る手がそろりと下がる。
「そう、あたしは
「嗚呼、あんたのお兄さんは、本当に天才だった……そして情け深かった。いつも私たちを守ってくれた。でもその優しさのせいで、あんな最期に。あの鬼神のような男でさえ敵わなかったのに、女のあんたが勝てる訳がないだろう」
「大丈夫」
とん——老いやつれた女の首には、手刀で十分だった。経穴を押され、老婆はその場に倒れ伏す。息はあるが、当分立ち上がっては来れないだろう。
「あたしは、兄貴ほど優しくないからね」
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