常芦門の老婆



 それは生まれる前の話。

 富める者と、貧しき者。


 弱者は情けもかけられず、失意のままに打ち捨てられた。日ノ本は腐りに腐り果て、何の因果か応報は、遥か月より出でて来た。


 と、ひとは呼ぶ。


「いい夜ね」


 武蔵野の空に走る、亀の甲羅の裂の如く。地平にそびえるは、白銀の塔の残骸。大型昇降機として使役された其れは、多くの旅客を乗せ、月面までへも到達した。資源を巡って戦いが始まり、爆撃に焼かれるまでは。


「通れないよ、ここは。あんたは盲という訳でもないだろう。ご覧、あの禍々しい紅い月——今夜は貴奴が堕ちてくる」


 門番の老婆がしゃがれ声で言う。

 戦時に建った武蔵野の常芦門ところもんは、とうに朽ち果てたが、敷地の内には貧民街がある。地下の防空壕。低級の集合住居。人体実験場の跡地。兵器と火薬の廃工場。

「その逆。此方から会いにゆく」

「何故だい。やっとあの下らない戦争が終わったってのに。私らの頃は、女学生も皆、戦地に送られたよ。優秀な子から連れて行かれて、残った女もみんな呆けちまって。ねぇ、お願いだよ、行かないでおくれ」

 出し抜けに羽織の端を掴み縋る老婆に、あたしは懐から、御守り代わりの空薬莢を取り出してみせた。光沢ある側面に彫られた『三足烏』の絵に、落ち窪んだ目がみるみる見開かれる。


「こりゃまさか。あんた、蘇芳の……」


 縋る手がそろりと下がる。

「そう、あたしは蘇比そひ。なーに婆さん、案ずるな。うちの兄貴の命を奪った怪物に、ちょっくら吠え面かかせに行くだけさ」

「嗚呼、あんたのお兄さんは、本当に天才だった……そして情け深かった。いつも私たちを守ってくれた。でもその優しさのせいで、あんな最期に。あの鬼神のような男でさえ敵わなかったのに、女のあんたが勝てる訳がないだろう」

「大丈夫」

 とん——老いやつれた女の首には、手刀で十分だった。経穴を押され、老婆はその場に倒れ伏す。息はあるが、当分立ち上がっては来れないだろう。


「あたしは、兄貴ほど優しくないからね」

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