第308話 覚悟

 第三者委員会の調査報告書が発表されてから数日。

 溝渕エンターテインメントの社長、溝渕一心は焦燥感に襲われていた。

 エビデンスなしの調査報告書が発表されてからというものの、世論、得意先からのバッシングや、マスコミの手の平返しが激しい。

 既に十社以上の企業から『取引を継続すれば、私たちが人権侵害に寛容という事になる』という理由で、溝渕エンターテインメントとの契約を見直し、タレントの起用、契約を更新しない旨が発表されている。

 契約を完全に打ち切り今後起用しない方針を打ち出した企業の大半は国内企業。海外に拠点を持つグローバル企業の多くは、契約を打ち切らず被害者補償と再発防止策等、取組を注視してくれている。


 ありがたい。そう考えると共に、焦燥感が一心の心を焼く。

 本当にこのままでいいのだろうかと……。


 BAコンサルティングからメールで受け取った第三者委員会の調査報告書(速報版)。そこには、俄かに信じられない内容が書かれていた。


「矢崎……お前はなんという事を……」


 ストレスのあまり印刷した調査報告書を握り潰すと、一心は頭を抱え込む。

 この調査報告書は諸刃の剣。

 一歩間違えば、溝渕エンターテイメントは今以上の窮地に陥る。


「――私は一体どうしたらいいんだ……」


 私が取り扱うには重い。責任があまりにも重過ぎる。それこそ、人一人の人生を完全に潰してしまう位に……。

 それだけではない。この調査報告書は、数日前に発表された被害者の証言とゴシップ誌を纏めただけのエビデンスなしの調査報告書とは違う。

 どうやって入手したかは分からないが、本人による自白動画や現場を押さえた写真等、逃れようのないエビデンスが添付された調査報告書。これを公表すれば、社会は確実に混乱状態に陥る。

 しかし、公表しなければ、溝渕エンターテイメントが終わる。社会が……扇動された世論が溝渕エンターテイメントを終わらせにかかる。


 ならば、私にできる事は一つだけ。


 テーブルに置かれた電話の受話器を手に取ると、一心は深く目を瞑る。


 溝渕一心は溝渕エンターテイメントの社長。株式も百パーセント保有している。今、溝渕エンターテイメントの中で一番権力を握っている存在。第三者委員会は同族企業の弊害がこの問題発覚を遅らせ、ガバナンス不全に陥らせたと批判的に捉えたが、こと今回に限ってそれは違う。

 その事は、私から株式を剥奪し、事務所を乗っ取り意のままに操ろうとした勢力がいる事を示唆した新しい第三者委員会の調査報告書からも明らかだ。


 同族企業とは、会社の株主の三人以下、並びにこれらと特殊な関係にある個人や法人が議決権の五十パーセント超を保有している会社の事。


 敵対勢力に押され株式を手放さなくて本当に良かった。今や敵だらけとなってしまった事務所でも、株式を百パーセント保有しているからこそできる事がある。


「会見を……三日後に会見を開く。すぐに手配してくれ」


 そう告げると電話を切った。

 仮に、公表されている第三者委員会の調査報告書の内容を事実と認め謝罪し、賠償した所で、溝渕エンターテイメントが倒産し、所属タレントが別の事務所に移籍するまで誹謗中傷は止まらない。社会が要望する通り、社名を変え、私が経営から退いても発した言葉の一つ一つを取り上げては批判し、重箱の隅をつつく様に謂れのない誹謗中傷に明け暮れるだろう。それこそ、私や所属タレントの誰かが完全に破滅するまで……。そして、追い込んだ側のマスコミはこう言うんだ。

自業自得だが、こんな結果になって残念だ。しかし、惜しい事務所を無くしてしまった、と……。

まるで加害者が終わった過去を振り返り懐かしむ様に……。


 そんな事はさせない。この調査報告書が本当であれば、責められるべき人間は他にいる。


 一心にとっては、タレントや社員の生活の方が大事。既に何名かのタレントは溝渕エンターテイメントを見限り出て行ってしまったが、残ったタレントと社員だけにはこれ以上、苦労を掛けたくない。


「溝渕エンターテイメントに所属する仲間は私が守る。親父の名誉も必ず回復させて見せる。だからもう少しだけ耐えてくれ……」


 世論の声に負け、やってもない事をやったと言って仮初の責任を取れば、確かに世論は納得するだろう。

 しかし、こういった前例を作れば、それを悪用する奴が必ず出てくる。

 現に今、それを仕掛けている組織がそれだ。

 悪者が笑い、正直者が馬鹿を見るような悪しき前例は作るべきではない。


 そう呟くと、一心は真剣な表情で調査報告書を凝視した。


 ◇◆◇


「――他の第三者委員会に調査を依頼するですとっ!? 社長、あなたは一体、何を考えているのです!」


 溝渕エンターテインメントの社長室に響く副社長、野心の声。

 野心の声に臆さず一心は決定事項を淡々と告げる。


「ああ、そうだ。事後報告で申し訳ないが、既に第三者委員会には動いて貰っている。これは決定事項だ……」


 今までにない一心の強気な姿勢を見て、野心は警戒心を顕にする。


「私は反対です。誰に何を吹き込まれたのか知りませんが、今、我々がするべき事は新しい第三者委員会を立ち上げ再調査する事ではないでしょう? このままでは、溝渕エンターテイメントが倒産してしまいます。それでは被害者も溝渕エンターテインメントで働く従業員やタレント……誰も助かりません。今、あなたにできる事は、第三者委員会からの提言に従い、保有する溝渕エンターテインメントの株式すべてを手放した上で事務所から退き、事務所の名称を変更。被害者の要望すべてに応じる形で賠償金の支払いを行う他ないでしょう? 第三者委員会の調査報告書を開示した以上、その内容が気に食わないからといって他の第三者委員会を立ち上げるだなんてお笑い種です。それではいつまで経っても事務所の解体的出直しはできません! タレントを応援してくれているファンも得意先も皆、逃げていきますよ!」


 社長室のデスクを叩きながらそう言うと、一心は目を瞑りため息を吐く。


「……責任から逃げるつもりはない。ケジメは必ず付ける」


 BAコンサルティングから送られてきた調査報告書に添付されていた要約版を確認しながらそう言うと、野心は怒り心頭にデスクを叩く。


「――いい加減にして下さい! 芸能事務所の経営は遊びじゃないんだ。現に数百人を超える被害者がいると第三者委員会も認定しました。これだけ多くの被害者が存在しているのです。にも拘らず、未だ、その責任から逃れようと悪あがきをするなんて、やはりあんたは経営者失格だ! この事は、第三者委員会に報告させて貰いますからね!」


 何故、エビデンスも被害者であるとの裏付けもないたった三十人の証言で性加害が真実であると認定できるのか疑問だ。あの第三者委員会の提言を妄信できる方がおかしい。


「……勝手にしろ。君が何を言おうが、これは決定事項だ。新たに選任した第三者委員会の提言を以て、今後の方針を決定する。どの道、新しい第三者委員会の設置を本日付で公表する。裏付けのない被害者の証言を纏めただけの提言に従うつもりはない。これは株式を百パーセント保有する大株主であり代表取締役社長である私の決定だ」

「くっ、後悔しますよ……」


 吐き捨てるかの様にそう言うと、野心は悪態を付きながら社長室から出て行く。


「――ふう。経営者失格か……耳が痛いな」


 確かに、所属タレントの管理も碌にできないようでは経営者失格だ。

 しかし、こればかりはやり遂げなくてはならない。

 例え、一時的に仕事を失う事になっても、だ。

 幸いな事に事務所には潤沢な余剰金がある。万が一があった場合の従業員やタレントへの補償にはそれを充てよう。


「ここ数日が山場だな……」


 野心の事だ。奴の性格からして静観はあり得ない。

 確実に何らかの手を打ってくるだろう。

 少なくとも、このデータだけは外部に漏れぬようにしなければ……。


 一心はプリントアウトした調査報告書(速報版)を鞄にしまうと、調査報告書のデータを削除し、社長室を後にした。


 ◆◇◆


 ――ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁぁぁぁ!


 社長室を後にした副社長・瀬戸内野心は怒り心頭のまま廊下を突き進む。


 何が、ケジメは必ず付けるだ。忌々しい。

 溝渕エンターテインメントで働くタレントや社員の事を真に考えるのであれば、調査報告書の内容がどんなに荒唐無稽なものだったとしても、調査報告書の内容は真実であったと謝罪し、提言を受け入れるべきだ。

 できるだけ早く対応しなければ、得意先がどんどん離れて行ってしまう。


 野心にとって想定外だったのは、調査報告書公表から数日で五分の一の企業が、溝渕エンターテインメントとの取引を打ち切った事。矢崎達、被害者の立ち上げる財団法人に、毎年売上高の五パーセントを報酬として支払うという約束を取り付けなければならないというのに、これは非常に痛い。

 調査報告書が公表されてからというものの、テレビやゴシップ誌が、溝渕エンターテイメントからファンを引き離し、被害者の求める条件を飲まそうと結託してネガティブキャンペーンを行っている。


 一体、誰がそんな事をしてくれとお願いした。

 手順というものがあるんだ。勝手な事をされては困るんだよ。

 溝渕エンターテインメントから毎年多額の金をせしめ、矢崎達、被害者が立ち上げる財団法人の理事として何不自由ない生活を送る為には、溝渕エンターテインメントへの攻撃は程々にしてもらわなければならない。完全に潰してしまうと、当てにしていた毎年売上高の五パーセントの寄付も無くなってしまう。


「この事務所には、未来永劫、賠償金を払って貰う為、存続して貰わないと困るんだよ……!」


 時間が経てば経つほど取り返しがつかなくなっていく事態に追い込まれた野心は歯を食い縛る。


 ぐっ、どんな調査報告書が出てこようと、世論が味方に付いている以上、結末は変わらない。あの社長はそんな事もわからないのか。


「さっさと諦めろ……見苦しい」


 そう呟くと、野心はこの事を第三者委員会に報告する為、副社長室へと向かった。

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