第273話 ヘルヘイム再び②

『……外は寒かっただろう。さあ、まずは駆け付け三杯と行こうじゃないか』


 駆け付け三杯。それは、主演の席に遅れてきた者に対し、罰として、続けて三敗の酒を飲ませる習慣の事。決して『外が寒かったから』等という枕詞を付けて使う言葉ではない。


 俺は、グラスに並々と注がれたウォッカを見てゴクリと喉を鳴らす。


 いや、アホだろ……。


 ウォッカのアルコール度数は、約四十度から九十六度。

 そして、目の前に置かれているボトルの銘柄は、ポーランドの銘酒スピリタス。


 スピリタス……それは、アルコール度数、九十六度の世界最高純度を誇るウォッカ。その度数ゆえに、ポーランドでは消毒液として利用され、タバコ、線香程度の火を近付けただけでも引火する消防法、第四類危険物にして、灯油やガソリンと同等の厳重な管理を必要とする酒である。

 何で、そんなものがここにあるのか知らないし、何故、寒いからという理由でほぼエタノールの原液に近い酒を三杯も飲まなければならないのだろうか?

 しかも、スピリタスを注がれたグラスは、90mlのショットグラス。

 一番大きなサイズのショットグラスだ。


 それを駆付三杯?

 エタノールに近い度数のウォッカをそんなに飲んでは、急性アルコール中毒で死んでしまう。体が温かくなる所か、体が冷たくなってお陀仏だよ!


『――どうした? よもや、私の注いだ酒が飲めぬと言わんだろうな?』

「うっ……!?」


 まさか神自らお酌した上、『私の注いだ酒が飲めないのか』と飲み会の席の酒好き上司の様な言葉を吐くとは……。


 しかも自分は、俺がキャンピングカーに置きっぱなしにしておいた約四十度のウォッカ、プラチナムをちゃっかり飲んでいる。


 俺にはエタノールに近いウォッカ、スピリタスを出してくる癖にズルい神である。

 しかし、相手はヘルヘイムを統べる神……ヘルを前にして酒を飲まないという選択肢はない。何より、ヘルの眼光が、俺にアルコール度数九十六度の酒、スピリタスを三杯飲めと言っている。


 くっ……ただ乾杯して話を聞くだけじゃなかったのか……。

 まさか、俺を急性アルコール中毒で殺しにかかって来るとは思いもしなかった。これは完全にアルコールハラスメント。飲酒にまつわる人権侵害だ。


 俺は、手にしたグラスを口に近付けると、ゴクリと喉を鳴らす。


『ほれ、一気で飲むのだ。それを三杯、連続して飲むのだぞ?』

「くっ……」


 何て、悪辣な神なんだ……。

 しかし、最初から拒否権は存在しない。


 意を決すると俺はグラスを両手で握り、そのままそれを口に付け傾けた。


『――おおっ!』


 俺がスピリタスを飲んだ事に愉悦の表情を浮かべるヘル。

 酔っぱらった振り・・・・・・・・をすると、俺は、ヘルにグラスを突き出した。


「――も、もう、二杯……」

『ふふふっ、そう来なくては……』


 ヘルに注がれたスピリタスの入ったグラスを二度、口に付け傾けると、ふら付きながらグラスをテーブルに置き、顔を真っ赤に染めてスピリタスの瓶を掴む。


 ――ふふふっ……計算通り……!


 グラスを手で隠し、アイテムストレージにスピリタスを収納して、空になったグラスだけを手元に取り出す。


 これはほぼ賭けに近かったが成功してよかった。

 もし成功していなければ、今頃、俺はキャンピングカーの床で酔い潰れ永眠していた所だ。そのまま、ヘルヘイムに堕とされていたかもしれない。

 しかし、流石はスピリタス……もの凄い酒だ。舐めた箇所に強い痛みが走り、口から火が出そうな感覚が口内を襲う。

 ごく少量、舌で舐めただけで意識が飛びそうになった……アルコール度数、九十六度の衝撃。もはやこれは酒ではない。ただの飲料用エタノールだ。


 俺がズルをした事を知らぬヘルが興味深そうな表情を浮かべる。


『――ほう。中々、やるではないか……しかし、その瓶を手に取って何をするつもりだ?』


 当然、決まっている。土佐流社交術、ご返杯だよ。

 俺に九十六度の酒を勧めておいて、自分は飲まないなんて許さない。


「――どうぞ……」


 90mlのショットグラスに並々とスピリタスを注ぐと、ヘルに視線を向ける。


 俺に一か八かの賭け事をさせたんだ。神だろうが何だろうが、絶対に飲んでもらう。


『――ほう。この私と飲み比べをするつもりか? その意気やよし……よかろう。もし、この私に飲み比べで勝てたら三つ、お前の願いを叶えてやってもいい。勿論、私の権能の及ぶ範囲でだがな……』


 願い事を三つ叶えてくれるって、神龍かよ。

 俺に伝えるべき事があると聞いたから、態々、キャンピングカーに乗り、アルコールハラスメントの洗礼を受けたというのに……何だか、大事になってきたな。ありがとうございます。


「……もし俺が負けたら?」


 そう尋ねると、ヘルは珍しいものでも見たかのような表情を浮かべる。


『――面白い奴だな。もしや、飲み比べでこの私に勝つつもりか?』


 当然だ。勝負を受けるからには絶対に勝つつもりでやる。

 この勝負。俺が圧倒的に有利だからな。

 とはいえ、負けた時のリスクも一応聞いておきたい。

 もしイカサマがバレたり、負けたりした時の罰がヘルヘイムに堕とされる様な罰則だった場合、ヘルに返杯で差し出したグラスを回収しなければならない。

 例えそれが、頭を地面に擦り付け、咽び泣きながら『申し訳ございませんでした』と言って土下座してでもだ。俺はまだ死にたくない。

 特に酒の飲み比べでヘルヘイムに堕とされるだなんて真っ平だ。死んでも死にきれない死に様である。


 とりあえず、頷いて見ると、ヘルは少し考える素振りを見せた。


『――ふむ。そうだな……私がこの世に生まれてから今に至るまで、勝負を挑んだ者はいなかった。まあ死者を蘇らせてくれと頼みに来た愚者は数え切れぬほどいたがな……故に、勝負をする事自体が初めての経験だ。元より負けるつもりはない。罰則は設けぬ。お前の持てる手段すべてを用いて向かってくるが良い……』

「えっ? いいんですか??」


 そんなラスボスと戦う前のセリフみたいな事言っちゃって?

 持てる手段すべてを用いて酒の飲み比べをした場合、俺の飲む酒はすべて、アイテムストレージ送りになるんですけど?


 ヘルに視線を向けると余裕そうな表情を浮かべている。

 アイテムストレージに酒を収納できる以上、俺に負けはない……筈。

 何故なら、俺は一滴たりとも酒を飲まないからだ。しかも、ヘル直々に『お前の持てる手段すべてを用いて向かってくるが良い』と、イカサマを容認する発言まで出た。

 俺はただヘルが酔い潰れるまでの間、手に持った酒の中身をアイテムストレージに格納し続ければいい。

 まさかとは思うが、それでも勝つ手段があるというのか?


 不安気な表情を浮かべると、ヘルは……。


『ふふふっ……安心しろ。神である私も酒には酔う……状態異常軽減のパッシブは切ってやるさ』


 そう言いながら、スピリタスの入ったグラスを持つと、口に流し込む。

 そして、頬を真っ赤に染めながら酒臭い息を吐くと、俺のショットグラスにスピリタスを並々と注いだ。

 どうやら、状態異常軽減のパッシブを持っていた様だ。それなら確かに、いつまで経っても酔う事はないのだろう。

 しかし、ヘルは勝負をする為、そのパッシブを切ると宣言した。

 ヘル曰く、神は嘘を付かない。

 つまり、ヘルがこの勝負を受けた時点で、俺の勝ちが確定した訳だ。


『――さて、今度はお前の番だ。随分と顔が赤い様だが、大丈夫か?』

「ああ……」


 何せ俺は、スピリタスを一舐めしかしていないからな。

 むしろ、たった一舐めで顔が真っ赤になると思いもしなかった。

 やはり、恐ろしい酒だ。スピリタス。

 それを水でも飲むかのように平然と飲むヘルもまた恐ろしい。

 状態異常軽減のパッシブとやらを切って貰わなければ勝負が付かなかったかもしれない。


 俺は、並々に注がれたショットグラスを、グラスが見えない様、覆い隠す様にして手に持つと、それを口に運び、グラスの中身をアイテムストレージに収納する。


『――ほう。中々、やるな……顔色一つ変えず、その酒を飲み干すとは……』


 当然だ。飲み干したのは、アイテムストレージであって俺じゃない――が、何だか、不正しているみたいで心苦しくなってきた。

 俺はただ、持てる力すべてを利用し、勝負に挑んでいるだけなのに……。


 俺の様子を見て、ヘルは笑みを浮かべ話しかけてくる。


『しかし、顔は紅潮し、頬が引き攣っているようだ。もしかして、限界が近いのではないか? 負けを認めるのであれば早い方がいいぞ』


 ?

 ちょっと、何を言っているのか分からない。顔が紅潮しているのは、スピリタスを一舐めして血行が良くなったからだし、顔が引き攣っているのは、多分、良心の呵責がそのまま顔に出てしまっただけだ。

 基本的に俺は良心的だからな。中々、他の人には理解して貰えないけど……


 とはいえ、勘違いしているのであれば、丁度良い。それに乗らない手はない。

 エアウォッカに酔い苦しむ俺の様子見て、一時の悦に浸るがいい。


「大丈夫です。さあ、次の酒をどうぞ……くっ……!?」


 エアウォッカが頭に回り脳が疼く。

 そう言って、頭を抑えると、ヘルは俺が差し出したグラスを手に取り、グイっとそれを飲み干した。


『――見ろ。言わんこっちゃない。そもそも、神と人とでは体の構造が違うのだ――げほっげほっげほっ……やばい。器官に入った。喉が焼ける様に痛い……口から火が出そうだ……水、水を……』


 アホだ……アホがここにいる。

 俺がアイテムストレージから取り出したグラスに、アルコール度数四十度前後のウォッカを水の様に注ぐと、何を思ったのかヘルはそのグラスを奪い取り、一気に飲み干した。


『――ぐっ!? こ、これは酒ではないかっ! 私は水を寄越せと……』

「あーすいません。今のは、俺がチェイサー代わりに飲もうと思っただけで、まさか横から奪い取られるとは思いもしなかったんですよ。改めまして、どうぞ。地球産の美味しい水です」


 そう言って、水の入った瓶を差し出すと、ヘルは蓋を開け、一気に飲み干した。その様子を見て、俺は思う。


 もしかして、この神……アホなのか、と。

 恐らく、今まで、状態異常軽減のパッシブが自身を守ってくれていたお陰で、マトモに酔った事が無かったのだろう。

 ウォッカをストレートで飲んでほろ酔いで済んでいる時点でお察しである。


 もしかしたら、この勝負、思った以上、簡単に勝てるかも知れない。


 そんな事を思いながら、俺はヘルが注いだショットグラスを持つと、グラスが見えない様、覆い隠し、グラスの中身をアイテムストレージに収納した。

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