15:働き方改革会議 … ≪前≫
小さなテーブルの上に用意されたのはルーズリーフと筆記具。
この歳になるとほぼルーズリーフを使う機会など無かったのだが、職を変えた際に研修内容をまとめたりする為、メモ用紙として使っていたものの残りがあったので、これ幸いだと思いつつ引っ張り出してみた。
これからこの一室で行なわれるのは、ある種の『会議』である。
ただ口で相談し合うだけではダメなのか?と、この形式を提案してきた専務へは既に疑問を投げかけたのだが、きちんと図や文面を用いて内容を認識するのと、口だけで伝達して認識することとでは、まったく理解度が違ってくるのだと説き伏せられてしまい、結果こうしてメモ用紙を用意させられてしまった。
「会社の会議でも、資料という考察材料は必須だし、どの話し合いをするにしても書いて考えたり、目で見て理解するというのはとても重要なんだ。言葉だけでは人によって認識の差も出てしまうし、何よりやはり細かい部分までは伝わりにくいものもあるから、書き出して置くことで共有認識がより高まるんだよ」
重役会議などでも資料はきちんと細かいところまで整えることが非常に重要になるんだ、と優しく諭される。
(……ちょっと働く時間を変えてみようか?という簡単な話し合いなはずだったのになぜこんな本気会議に……)
こうなってくると……もはや会社の研修のようだ……。と思ってしまったのは自分のせいではないと思う。
私はただのアルバイトの事務員補佐であり、パートのカラオケ店員なんだけどなぁと思いながらもペンを握った。
「じゃあ、始めようか」
「はーい……」
「あれ、あんまり乗り気じゃないね?」
「いやいや……そんなことは…。…あはは」
随分とノリノリなぬいぐるみと、会議……。
何となく本気になれない自分がいるのも仕方ない事と思ってもらいたいが、せっかく専務がこうしてきちんと考える時間をくれているのだから、自分も腹を括らねば……と考え直してから、しっかりと気合を入れて紙に向かう。
「じゃあまずは方向性を決めよう」
ぽす、とぬいぐるみが手を合わせて顎をのせる。
…………ちょっと可愛いと思ったのは、そっと胸の内にしまい込んだ。
「キミは、今まで正社員として働いたことはないんだったよね?」
「そうですね。正社員枠を望んで職探しをしたことは無いです」
「今後も、ひとつに職を絞る気はないのかな?」
「絞る気は無い、というよりも……選択肢になかったというのが本音です」
「そうなの?」
「ええ、まぁ……。私の学力とか学歴だと、正直給料の高い業種には行けなくて、結局ダブルワークの方が稼げちゃうので……」
この辺りはダブルワークをする際に色々考えたし、探しもしたけれど、当時自分が行ける職というのはほんとに限られていて、事務職も大学卒などの経歴がないと大体書類選考で落とされていた。
結果、手っ取り早く稼ぐならダブルワークの方が……となった結果今のスタイルに落ち着いているわけで。
「今となっては正社員の方がボーナスが出るとか、長期休暇あるとか、退職金が出るとか色々あるので、きちんと正社員で務めた方が良かったかなと思うこともありますが…………、まぁ、その……えっと……」
「……ほら、ダメだよ。隠さないでちゃんと言葉にしよう。ここで隠すとまた繰り返しになる。僕はもう全部聞いちゃったし、笑ったり怒ったり呆れたりもしないから、……全部話して」
詰まった言葉の先に、多分1番の本音が在った。
それに気付かれてしまったのも恥ずかしい。
でも、優しく促されて、口篭りながらも積もり積もった本音を自身でも初めて口にした。
「……、その、…………あまり、長く生きるつもりは、なかったので……」
「……うん」
「正社員だと……色々責任とか立場とかもあって急な補充はできませんし、迷惑を……かける、から……」
急な人身補充が必要となっても、サッと入れ替えることができるような。
いざこうして言葉にしてしまうと、なんと無責任に勤めていたのかと思い知らされるけれども、これについては昔から意識の根底にはあったと思う。
自分の代わりはいくらでもいる。
そう思えばこそ幾らでも無茶な働き方が出来ていたと言って過言ではない。
「……む、無責任な考えでした……。申し訳ありません……」
気付かされた途端に恥ずかしくなって、顔を伏せた自分の頭の上にぽすん、とモフモフの腕がのせられる。
そのまま、あやす様に頭を撫でられるも凹んだ気持ちは中々浮上しそうになかった。
「僕は、キミのその考え方を無責任だとは思わないけどな」
俯いている自分の耳に届いたのは、呆れている様子もないそんな一言で、思わずぱっと顔を上げる。
「本当に無責任な人間というのは自分の行動の先にある他者への負荷など気にも留めない。辞めたいと思った時に勝手に辞める。事前準備も、報告も相談も無しにね」
よしよし、と撫でられながら優しい声音で諭される。
「アルバイトやパートとはいえ、それなりに長く勤めているなら、キミも経験あるんじゃないか?入社しても初日だけ出勤して『思っていた仕事内容と違っていた』なんて理由ですぐに辞めてしまうだとか、急な予定が入ったなんて言って頻繁にシフトを無視して遅刻したり欠勤する、そういう人と一緒に働いた経験が。そういう人物こそが、本当の意味で無責任な人間ではないかと僕は考えている」
一言一言がゆっくりと紡がれ、その言葉は一つ、また一つと自身の胸の内に降り積もっていく。
そんな考えだからダメなのだ。と、叱責されるのではと思っていたのに。
「……、それは…そう、かもしれないですけど」
「僕からすると、キミはあまりに真面目過ぎるところがあるのが心配だな。もう少し肩の力を抜いて、誰かを頼るということを覚えると良い」
頭を撫でていた柔らかな腕が、頬を滑り、肩を撫で、そのまま腕から手元までするすると降りていく。
そうして彼はふかふかの両腕で、そっと温めるかのように優しく自分の手を包み込む。
「人に…頼る…ですか?」
「そう。同僚でもいいし、僕みたいに上司という立場の人にでもいい。一人で全部を抱えるのが苦しいときは、周りの人間に目を向けてごらん。キミみたいな頑張り屋さんの周りには、キミのことを助けたいと思っている人は必ずいる。だから一人で頑張りすぎないでほしい」
包み込んだ自身の手は、そっと引き寄せられて彼の額に導かれる。
恭しく傅かれて、そのまま真摯に祈りを捧げられて。
まるで儀式めいた様子にドギマギとしてしまうのを隠せない。
「…あ、あの…っ、専務……!」
「……まぁ、キミの考えの根底には、過去のトラウマも少なからず影響しているようだから、何もかもを改善するというのは難しいかもしれない。寧ろ改善しようとして結局悪い方向に悪化してしまっては元も子もないから、少しずつ、焦らずに調整していくのがベストかな」
こちらの焦りを察知してか、パッと声のトーンを明るくさせて、雰囲気をがらりと変えてくれる専務の気遣いに心から感謝するしかない。
ホッと息を吐くと、「キミはわかりやすくていいね」と彼に少し笑われてしまったけれど、そこはもう誉め言葉として受け取っておこうと思う。
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