神子の命 5
目を覚ますと、体が重たく感じた。椎羅は倦怠感と吐き気を抑えつつ、風見の元まで向かった。彼はデッキのベンチに座ってうたた寝している。
「風見先生」
声をかけると、風見はぼんやりとした目で椎羅を見上げた。
「おや、もう到着ですか」
「いえ……あともう少しで着くようですが」
そう答えて彼の隣に座る。
「風見先生は昔、帯刀洋江に会ったんですね」
単刀直入に訊くと彼は目を細めた。
「懐かしい名前です……彼女と出会ったのはもう三十年近く前。あの時に宝足島を知り、調べ、彼女に教えた。それがまさかこんな……こんな悲劇を生むなんて、あの時は想像もしていなかったんです」
その声には憂いがある。椎羅は溜息をついた。
「もうとっくに記憶の彼方へ葬り去った名前でした。島が過疎化で無人島になったという記事を見つけるまで思い出しもしなかった。洋江さんたちがどうなったのかだけ調べようと再び向かえば、島は過疎化によって無人島になったわけではなく、火事のせいで人がいなくなったということを知り、その時に彼女たちも巻き込まれたのだとばかり」
それから彼は焼け跡をしばらく散策して本土へ戻ったという。その数十年後──まさか、猟奇殺人事件や心中事件などの裏にこんな事情が潜んでいようとは夢にも思わなかった。
風見は淡々と告白した。メギの存在は彼にとってはお伽噺の一つだったのだろう。重要視していなかった。ただ、島に伝わる信仰と文化に興味を抱き、調べただけのこと。そもそも、彼が島を訪れたのは隣の島に歴史的遺物が発掘されたことから、ついでに調査へ来ただけなのである。
椎羅はやり場のない気持ちを飲み込んだ。
もうすぐ中継地の島へたどり着く。そこから漁船で宝足島へ向かう。
ようやく地に足をつけると、体がさらに重く感じた。ここから漁船に乗り換える。
「顔色が悪いですね」
漁船に乗り込む際、足元がふらついた。風見が心配そうに顔を覗き込む。
「……まぁ、そうだろうと思います」
船酔いではないことは明らかで、椎羅はこの体の異変に恐ろしさを感じていた。
ショルダーバッグのベルトを握りしめる。なんだか全身に毒が回っているような感覚だ。こんな重たいものを抱えながら生きるのは大変だと思う。
久留島たちのことを思い浮かべた。いや、彼らは自分が何に取り憑かれていたのか知らなかった。さまざまな思いや葛藤、恐怖が駆け巡り、無性に怖いと感じていく。体温もどんどん低くなっていく。この重さは彼らの記憶も含むのだ。たくさんの人間を経由して一つになろうとしている。
「志々目くん」
ふいに風見が呼ぶ。椎羅はゆったりと首をもたげた。
飛ぶように走る小さな漁船は飛沫が飛び、また揺れも激しい。風見は遠くを指差した。
宝足島が見えてくる。黒い岩肌と森。それを見ると、胸の内側が激しく脈打った。
「……帰ってきた」
ついに帰ってきた。懐かしの我が故郷。無意識に心が躍る。それまで重たかった倦怠感が一気に消え失せていく。妙な気分だ。喜んでいるようでも嘆くようでもある。気分が行ったり来たりし、落ち着かない。自分の感情なのか分からなくなる。
「でも、これですべて終わる」
終わらせる。言葉に力を込めれば、体内のざわめきが止んだ。
港に着くと、椎羅は風見を待たずに浜へ走った。
見知らぬ場所なのに、泣きたいほど懐かしい気持ちが駆け巡る。澄んだ海はエメラルドグリーン。一月下旬とは言え、今日は晴天だ。
何もかもが焼けたこの島には人がいない。無数の渡り鳥が木々や瓦礫の上に止まっている。だが、椎羅の姿を見たのか鳥たちが一斉に羽ばたいた。慌ただしく上空を旋回する。
その時、背後に視線を感じた。振り返る。
「……お久しぶりです」
なんと声をかけたらいいか分からず、それだけ言った。
彼女は真冬の島であるにも関わらず、白い装束と裸足で佇んでいる。黒い髪の毛は長く垂らしており、風に任せて乱れている。
「お帰りなさい」
彼女はそう言った。虚ろな目をうっとりと溶かし、微笑を浮かべる。恍惚ともとれる表情に椎羅は意思とは裏腹に泣き出したくなった。
「あなたは──誰なんですか」
訊くと、彼女は声が届くギリギリの位置で立ち止まり、優しく言う。
「お役目を果たすためだけに生きている者です。それ以外の何者でもありません」
「そんなはずはない。あなたにだって家族がいたはずだし、名前もあった。あなたは志々目家の人間だ。父のいとこで──僕の、本当の……」
だが、その先は何故か言えなかった。まるで喉に蓋をしたような感覚がし、思うように声が出せない。
椎羅は彼女に近づいた。彼女は一歩下がった。それでも椎羅の足が早かった。逃げようとする彼女の腕を掴み、問いかける。
「あなたの目的は、メギを統合すること──そのために何人の命を犠牲にした? 一体、どうしてこんなことをしなくちゃいけなかったんだ?」
すると、彼女はピタリと止まった。両眼を大きく見開かせ、首を傾げる。
「どうしてって、決まっているでしょう? メギ様をこの地に呼び戻すため島を復興するのです。ゆくゆくは以前のようにメギ様を信仰し、共に生きていきます。それが私の幸せなのです」
「自分の幸せのために……義姉たちを殺したのか? 洋江の臓器をばら撒いて、関係ない人間を巻き込んだのか? お前が崇めているこの神は、人を殺す化物なのに」
椎羅の言葉に彼女は噴き出した。そして腹を抱えて笑い出す。貧相な体のどこからこんな笑い声を響かせているのだろう。鳥の啼声のように耳障りな声だった。彼女は砂浜に突っ伏して喘ぎ、腹を抱えて笑い続ける。
「福子と同じことを仰いますね。福子だって最初は島に帰りたいと泣いていたのに、コロコロと意見を変えて……本当にあの人は面倒な人でした」
彼女は笑い顔のまま首をもたげてじっと椎羅を見上げた。大きな目がぎょろりと動き、右側にそびえる山を指す。
「邪魔が入らないところに行きましょう。あなたのお社に」
そう言って、彼女はすらりと立ち上がると、滑るように山の方へと向かった。椎羅は海岸を見やり、おそらく風見がこちらに向かっているのだと察した。急いで彼女の後をついていく。
山の麓はすでに草木に覆われていて、足元が見えない。連れてこられたのは帯刀家跡地のようだった。わずかな骨組みが屋敷の姿を象っているだけで、焼け残ったと思しき炭が無造作に散らばっている。
「私がここへ連れてこられたのは五歳の時。それまで私は志々目家でつらい目に遭っていました。いつも真っ暗な部屋に閉じ込められていたんです」
彼女は静かに語る。
「最初の記憶は綿でした」
「綿?」
「えぇ。ぬいぐるみの中にある綿。それが本当に綿なのか見てみたくって、ぬいぐるみを分解したのが始まりです。そのうち、人の中にある内臓も本当にその形をしているのか見てみたくって、人のお腹にハサミを入れようとしました。私には生まれつき、見えないものが視える力があったんです」
産み子は能力を持った者だけにしかできない役目──能力を持つ彼女の生き甲斐でもあったのかもしれない。
「だから、暗い部屋に閉じ込められてもさして困ることはなかったのですが、私がいない部屋で私以外の家族が幸せそうにしているのが視えて、私は孤独を感じました。この家に私の居場所はないのだと……だから、帯刀のおうちに移されると決まった時は嬉しかったんです。私を受け入れてくれる場所があるんだって。これで寂しい思いをしなくて済むんだって。そのためならどんなことでもしようって」
言葉の端々に熱がある。とめどなく話し続ける彼女に対し、椎羅は疲労感に襲われていた。体の内側で何かがのたうつ感覚がある。
「帯刀のお家は最初こそ不思議でした。でも、その理由も最初にお父様から教えられた──メギ様が本当の母なのだと。そして、洋江と福子は特別な存在。洋江の体にはメギ様という神様がいらっしゃる。福子は洋江を支えるお役目を継ぐ。だから、お前にもお役目を与える──洋江はメギ様となり、体を失う。その体を継ぐメギ様を生むのがお前だ。お前はそのために生きなさい。そう言われました。私はメギ様という神様が気になり、だからずっと洋江を見ていました」
椎羅は頭の中でイメージした。幼い少女が養父に言いつけられる。年端もいかない少女に重たいものを背負わせようとしている。そんな光景が浮かび、顔を歪めた。
──狂っている。
しかし、そうしなければ自分たちの命が危ない。島を守るために続けなくてはいけない因習なのだ。
「洋江の体には、確かにメギ様がいらっしゃいました。とても小さなひな鳥みたいで、とても愛おしくお美しかった──これからどう成長していくのだろうと楽しみにしておりましたよ。けれど、ある日、洋江がとんでもないことを言い出して」
──あの人たちを殺さなきゃ。
すると、彼女は目を瞬かせて椎羅を見た。
「そう……でも、メギ様がそう仰るなら仕方がないわ。私は従いました。もちろん、福子も洋江に付いていきました。二人は昔から島の外に行きたがっていたのです……私にはその理由が分からなかった。外はとても怖いのに、どうしてわざわざ幸せを捨てるのだろうって」
彼女は悔しげに歯噛みし、柱に爪を立てた。
「それから洋江は志々目家の男と結婚しました。福子は私を使って占いの仕事を始めました。だから、私は福子と一緒に過ごしていました。福子……洋江がいなければ何もできないあの人は、自分の力で生きていけるはずがないんです。仕事がうまくいかない時は決まって私に八つ当たりして、いつも泣き叫んでいましたよ。島に帰りたいって。島に帰りたい──だったら、どうしたらいいのか考えましょう、福子姉さん、島に帰りましょう。でももう無理よ、私たちはとんでもないことをしてしまったのに。大丈夫です、帰れる方法があるんです」
福子とのやり取りが再現される。彼女は柱を優しく撫でた。
「洋江の中にいるメギ様を別の人間に移すのです。どのみち、あの方の体はもう綻び始めている──そうです、メギ様はまだ生きていらっしゃるんです。あの時、あなたたちは勘違いしていましたね。メギ様はあのお社にいたわけじゃありません。すでに洋江と共に生きてらしたのです。だから、島を焼いたとしてもメギ様は死ななかったのです」
椎羅は蒼白な顔を持ち上げて彼女を見上げた。いつの間にかその場に座り込んでいた。
それを彼女はうっとりと見つめていた。おそらく、視えているのだろう。彼女の目には椎羅の体の中で蠢くメギの姿を。
「私は産み子です。だから、私がメギ様の体を産みます。そんな提案をしたのは、洋江が異変を訴え始めた頃です。洋江の体から無数の羽が落ちた──それはメギ様が洋江の体では抑えきれないほど育ってしまったということ。だから、あなたが必要だったんです」
彼女はその場にしゃがみ、椎羅と目線を合わせた。そして、幼い子どもを慈しむように頭を撫でる。それを払いのける力はない。
「メギ様の力は重たいでしょう? 産まれたばかりのあなたにメギ様の力は少し重すぎました。だから、分散しましょうということになったんです。もっとも、メギ様のお引越しは満七歳にならなければできないそうで、だから私と福子は洋江を分解することにしました。いつか、この子の元へお帰りになられるようにと」
その瞬間、椎羅の中で激しい怒りが燃え上がった。それは自分の意思ではなく、またメギとは違うものだった。
洋江だろうか。洋江の記憶がそうさせるのだろうか。椎羅は彼女の首を掴んだ。
殺す。この女を殺す──
「志々目くん!」
草木を掻き分けてくる音が近づく。風見だった。風見は椎羅の手を払い除けた。そのおかげで意識が正常になる。
一方、女は激しく咳き込み、その場に転がっていた。風見は女を一瞥し、椎羅の肩を掴んで立たせた。
「離れましょう。今は君の精神状態が危ない。この場所が良くないのかもしれません」
その言葉に従い、椎羅はもつれそうになる足でその場を離れた。女を置き去りにしたまま。
浜辺に行き、椎羅は冷たい海水に頭を突っ込んだ。頭を冷やしてもなんの解決にもならないが、いくらか冷静になれるような気がした。
「大丈夫、ではなさそうですね」
心配そうに見つめていた風見に言われ、椎羅は頷いた。
陽が傾いている。今、何時なのか分からない。スマートフォンは置いてきてしまった。水平線の向こうは何もなく、ここが唯一の世界のような感覚に陥る。
呆然と眺めていると、小型の船が見えた。
「風見先生……あれは迎えの船ですか?」
訊くと、風見は「そうかもしれない」と不審そうに答えた。時計を見やって首を傾げている。
「だったら、あの船に乗って帰ってください。僕と一緒にいると先生が危ない」
椎羅は早口で言った。
「僕はもうすでに化物に侵食されている。そもそも、僕は洋江の代わりにメギを封じるために産まれた器だったんです」
認めたくないが、事実はそう告げている。
自分は、割れた皿を取り替えるような手軽さで産みだされただけの存在なのだ。
喪失感が広がっていく。その隙間にメギが入り込もうとする。不快な感覚が回っていく。
すると、風見は口を開いた。
「君は神子だったわけですね。では、あの人は本物の産み子……」
「えぇ、そうです。あの人は洋江と福子にはなかったメギへの信仰心がある。僕が七歳を越えるまで、メギの力を分散させておかなきゃいけなくなった。僕の体を使って信仰を続けるために、たくさんの人が……」
メギには定期的に生贄を捧げなくてはいけない。バラけた臓器だけでもなお生き続けるには、誰かに寄生するしかない。そのためにたくさんの犠牲者が出た。メギは七つに分割され、今、統合されようとしている。
そうなると自分はどうなるのだろう。意思も心もすべて失ってしまうのだろうか。化物になって、もし大事な人を殺してしまったら──
絵莉の顔が思い浮かぶ。
彼女みたいに苦しむ人をこれ以上増やすわけにいかない。
「志々目くん……」
風見が息を飲みながら言う。彼は足元を指差した。見ると、そこには無数の羽毛が落ちている。
椎羅はダウンジャケットを脱ぎ、服の袖をめくった。血のように真っ赤な羽がびっしりと生えている。
「──時間がない」
袖を元に戻し、椎羅は立ち上がった。
「どこへ行くんです?」
風見も追うように立つ。しかし、椎羅は視線だけで彼を静止した。その鬼気迫る視線に射抜かれたかのように、風見が立ちすくむ。
「先生、絵莉さんと甲斐さんによろしくお伝え下さい」
それだけ告げ、椎羅は旧帯刀家まで戻った。
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