夭鳥の目 6
翌朝。重たい体に鞭打って目覚めると、ダイニングテーブルに一枚の書き置きを見つけた。
【黒田さんの様子がおかしいので行ってきます。 椎羅】
たったそれだけの手紙から、絵莉は寝間着のまま外へ飛び出した。肌を突き刺す寒さに襲われる。
「あいつ……!」
絵莉は書き置きを握りつぶし、部屋に戻った。彼がいつ出ていったのかはっきり分からない。一旦、黒田の家へ行き、いなかったら他を探そう。絵莉は慌てて支度し、すぐに家を飛び出した。
午前八時半。車庫を開けて、箱のような紺色の軽自動車に乗り込む。
「あんまり運転したくないんだけどな……!」
しかし、今は電車やバスで悠長に移動している場合ではない。危なっかしくハンドルを操作して車を走らせた。
横風に悲鳴を上げながらもなんとか潮風吹き荒れる港町までやってくる。急いでマンションのエントランスへ入り、彼らがまだ家にいることを祈る。五〇三号室まで半ば雪崩れ込むように走っていき、家の鍵を開けた。
「黒田さーん? 椎羅くん、いる?」
声をかけるも応答はない。部屋の中へ入るも人の影はどこにもない。絵莉はすぐに部屋を飛び出した。
エレベーターで椎羅のスマートフォンへ電話を入れ続ける。つながらない。車に乗り込み、すぐさまハンドルを切って走りつつ、信号待ちの間に電話を入れ続けた。
椎羅たちが今どこにいるのか──家にいないなら港だろう。
フェリー乗り場をナビで確認し、走ること数十分。直角三角形を横に倒したような建物が見えてくる。車を乱暴に駐車してターミナルへ急ぐ。
この大荒れの海の中、フェリーはすべて休航だった。それなのに、二人の姿はどこにもない。ただただ閑散としたベンチがあるだけの空間にポツンと一人、心細く突っ立っているしかない。
絵莉はもう一度、スマートフォンに電話を入れた。
また出ないつもりか。そう思って諦めようとしたその時、
『はい』
椎羅が電話に出た。
「もしもし? 今どこ?」
絵莉は努めて平静に訊いた。彼の背後の音を聞こうと耳を澄ませる。
『……ターミナルにいますよ』
「はぁ? どこにもいないじゃん」
『絵莉さん、もしかして横須賀のターミナルにいませんか?』
訊かれて絵莉はハッと息を飲んだ。黒田の家から近いフェリー乗り場ではない。今、東京湾は荒れている。そもそもフェリーで直接、宝足島までは行けない。乗り継ぎが必要だ。つまり二人は今、空港のターミナルにいるのだ。
「じゃあ、今あんたたちは福岡にいるの?」
『……これからフェリー乗り場へ行きます。それじゃ』
椎羅の声からなんの感情も読み取れない。
今から行ってももう追いつけはしないだろう。電話は一方的に切れてしまい、絵莉は呆然と立ち尽くした。
二人より一歩遅れて追うことにした絵莉は急いで福岡行きの航空チケットを取った。ここから飛行機で二時間、フェリーでさらに二時間。大幅なロスはあるが、最悪な事態になる前にはなんとか辿り着きたい。
椎羅を黒田に接触させたのは狙い通りではあるのだが、その場に自分がいないことには納得がいかない。そもそも椎羅を呼び戻す前に絵莉は黒田と話し合っていた。
『その椎羅とやらのせいで、化物が呼び寄せられているのなら俺が囮になってやる。だからなんとしてでもそいつを連れてこい』
絵莉は当然止めた。しかし、黒田は
『どのみち時間はあまりないと思うぞ。椎羅と接触するか、ししめ星羅と接触するかの二択しかない。星羅に会ってしまえば俺は白源のようになるだろうさ。その説が正しいのならな』
絵莉は飛行機の窓に頭をくっつけ、目を閉じた。
白源則子の件は、椎羅を追尾していた星羅によるものだろう。その考えに至ったのは、白源則子の急変があまりにも不自然だったからだ。
──白源則子。七十二歳。白源家に嫁いでからは姑にいびられ、夫は不貞を働き、それでもなお離婚せず男児二人を育て上げ、義両親とも同居していた。その当時の感情(夫への不満、姑への恨みつらみなど)を語りだしたのは六十八歳の頃に小腸移植をした後だった。それまでは物静かで、姑の無茶な要求にも嫌な顔一つしない。真面目で働き者だったという。小腸移植をしてからは足腰が不自由になり、長男家族と同居していたがすぐに『いきいきホーム咲楽庵』に入所する。それから軽度の認知症を発症。それからというもの、不満をこぼすようになっていた。
白源則子の事件前日まで彼女は不満はこぼすものの、穏やかそのもので友人たちと楽しく談笑していたらしい。またスタッフとの関係も良好。ただ、友人の八坂マツ江がスタッフの男性とトラブルを起こし、その不満を散々聞かされていた。スタッフの男性はその後、白源則子に殺されている。そのことからマスコミは彼女がスタッフへ不信感を募らせていたというストーリーに仕立てた。白源則子の発狂は事件前日まで兆候すらなかったのだ。
『寝言で〝お母さん、お母さん〟と泣いてることはあったねぇ』そう語るのは彼女の友人、八坂だった──
絵莉はまず、当時の状況を考えた。父、司城賢明が椎羅を連れて『いきいきホーム咲楽庵』に辿り着いたが、その後ししめ星羅に阻まれ、椎羅が連れて行かれた。
何故、ししめ星羅は『いきいきホーム咲楽庵』に現れたのか。現れるならば老人ホームではなく、司城探偵事務所ではないだろうか。二日も甥を放置しておきながら、突然の登場はどう考えても不自然極まりない。ということは、ししめ星子の狙いは『いきいきホーム咲楽庵』だったのだ。化物の腸を持つ白源則子に会うべく訪れたのだろう。何かしらの危害または暗示を行い、狂気とは無縁の白源を化物へと変貌させた。
ししめ星羅と椎羅には〝叔母と甥〟以上の深い繋がりがあるように思える。現在失踪中の星羅は、きっと黒田を探しているのだろう。その理由は分からない。しかし、化物を復活させようとしていると仮定するならば、どんな手段も厭わず化物の臓器を移植された者たちを椎羅の目を使って探すはずだ。
今、まさに四年半前と同じことが起ころうとしている。
そして、椎羅は絵莉を遠ざけた。つまり彼もすべて気づいているということ──もしくは。
絵莉は思考を止めた。もう一つの可能性を思いつき、身震いする。
椎羅が一人で行動しようとするのは、星羅の指示の可能性も考えられる。昨夜、強烈な眠気に襲われたのは、椎羅が絵莉を強制的に眠らせたのではないだろうか。毎晩、睡眠剤を服用してはいるが、長いこと服用しているせいかこのところ体が薬に慣れていた。眠りにつくのは服用後からせいぜい一時間はかかるのだが──いつもより多く服用したのだろうか。あるいは椎羅に──
それにしてもいつの間に薬を盛られたのだろうか。分からない。
「……あぁ、もう」
絵莉は悔し紛れに思わず呟いた。
もうすぐ地上へ降り立つ。
***
福岡空港から直接、地下鉄で中心街まで行き、そこからはタクシーを拾ってフェリー乗り場まで行く。着いたのは十五時を過ぎた頃で、ちょうど次の便が出るところだった。ここから離島まで向かい、そこから船を乗り継いで宝足島へ行ける。運が良ければ今日中に二人に追いつくかもしれないが、望みは薄い。
結局、島の港へ着いたのは陽が落ちた頃だった。仕方なく近所の民宿で一泊する。
その時間、絵莉は民宿や近所を回って、宝足島の調査をすることにした。
この島から十キロメートルほど西へ行けば宝足島へ渡ることができるのだが、宝足島が無人島になった今は誰も渡ったことがないのだと地元漁師から話を聞いた。
「昔からあの島は他との接触を避けとったよ。渡るもんがおらんでな」
浅黒い肌の漁師たちが口々に言う。大衆食堂の座敷で酒盛りをする彼らは五、六〇代くらいに見える。酒が回ればさらに口は滑らかになっていく。
「変な島やったな。人口もそうおらんごたぁやったし、子供ももう少なかったっちゃないかな」
「そもそもあの島に学校とかあったんかいな。聞いたことない」
「ばあちゃんから聞いたことあるけどな、あの島の人たちはみんな不気味やったって。船ば近づいたら、じぃぃって睨むと。追っ払うかのように」
「あそこは神様がおるんよ。なんかよう分からんけど、霊能力みたいなのを持つ人もおったって」
「でも出ていく者もおったやろ? それくらいやないか、あそこから船が出よったの」
「それはいつ頃の話ですか?」
訊くと、彼らは宙を睨んでうーむと唸った。そして誰かがポツンと一言、
「三十年前かねぇ」
すると皆が口を揃えて「あぁ」と頷く。そうや、そうやった、俺の子供が生まれたばっかりやったけん、その頃たいねぇ──そう言って彼らは笑いあい、段々と場が冷えていく。
「聞いちゃマズイ話でしたかね?」
絵莉は気丈に言った。すると彼らは、また息ピッタリに「いやいや」と笑う。
「まぁ、あの日はさ、島全体が火事になったけんが、こっからでも見えよったんよ。宝足島が火事のごたぁって、横田のおやっさんが慌てよったのをよう覚えとう」
「そうやったなぁ。漁に出とる時間やったけん、真夜中やったか」
「おぉ、そうやった」
そのまま彼らは、今は亡き漁師仲間を惜しむように語りだした。絵莉ももうこれ以上尋ねることはせず、静かにその座敷から遠ざかり、ゆるゆると店から出る。
錆が浮き出たステンレスの引き戸を開け、夜の道へ足を踏み入れた。港近くは民宿が多く、また食堂の他にチェーン店のコンビニや食事処もあり、過去と現在が混在しているような場所だ。民宿へ戻る道すがら、まだ明かりのある宿や食事処を覗こうと一歩踏み出した。その時、いきなり背後の戸が開き、声をかけられた。
「ねぇ、そこの女の子」
振り向くとそこには、がっしりとした体型の男がいた。島民の素朴さとはかけ離れた垢抜け具合で、洒落っ気のあるパーマ頭と夜なのに淡い色入りサングラスをかけている。口元から顎にかけて髭を生やしており、胡散臭い。
「さっきの話、聞かしてもらったけど。宝足島、やったっけ? その無人島でなんかあるん?」
地元民だろうか。先ほど話を聞いた漁師たちと訛りが同じだ。絵莉は怪訝に見つめながら曖昧に答えた。
「ちょっとヤバいことになりそうだから調べてるんですよ」
「ヤバいって何? 興味あるなぁ」
「あなた、どこの誰です? さっきの人たちの中にいなかったですよね」
近づく男を制止するかのように鋭く問うと、彼は「あぁ」と白い歯をこぼす。ジーンズのポケットからスマートフォンを出して、SNSのアカウントを見せた。〝jogo kai〟と書かれたアカウント名と、夕日をバックにした自撮り画像のアイコン。
「
福岡在住。心霊相談受け付けます、とプロフィールに書いてある。フォロワー数は五十人弱。
どうにも信用ならず、絵莉は眉をひそめた。
「そう都合よく霊能者がいるもんか」
鼻で笑って一蹴するも、彼は「だよねぇ」と慣れた様子でヘラヘラ笑う。
「この島、鎌倉時代あたりの遺跡があるんよ。それを見に来ただけっちゃけどね」
そう言って彼は折りたたんでよれよれのパンフレットを見せてきた。
「霊能者って名乗るほどのもんやないけど、まさか旅先でそういうオカルティックな話聞けるとは思わんくて。急に話しかけてごめんね」
甲斐の口調は軽い。絵莉は品定めするように甲斐を見つめ、腕を組んだ。
「あっそう……んじゃ、話しますけど」
「おう」
待ってましたとばかりに口角を上げる甲斐。絵莉はそっけなく言い放った。
「化物に取り憑かれたおじいちゃんを探してるんです。ついでにそいつに付き添ってる陰気な男の子も。そいつらが化物に食われるのを阻止したいんです。その化物の原産地が多分、宝足島」
一息に言うと、甲斐の口角がだんだん下がっていった。
やっぱりナンパ目的だったのか。煩わしい虫にこれ以上構っている場合ではない。そう思って鼻を鳴らし、踵を返そうとすると甲斐は深刻な声で答えた。
「そりゃ、めっちゃヤバいな」
絵莉は両目を瞬かせた。対し、甲斐は「ん?」と要領を得ないように聞き返す。
「いや、信じるんですか、今の話」
「信じるも何もそうなんやろ? ただまぁ、俺にできることはないな……妖怪は分からん」
あっさりと返す甲斐はそれから「ごめんなぁ」と苦笑した。
「でも一人でそんなもんに立ち向かうのは危ないと思うよ。君に霊感はないみたいやし」
そう言うと甲斐は憐憫な声で続ける。
「大変やったなぁ、お父さんのこと」
「え……」
「亡くなっとるよね? 君のお父さん」
困惑のあまり、後ずさった。それは肯定を示す態度であり、甲斐は「あぁ、やっぱり」と言って手を合わせた。それから真っ暗な星空を見上げながら寂しそうに呟く。
「一瞬だけね、降りてきとったよ」
「………」
「もー、これでもまだ信用できん? でも君が泊まってる宿、俺も同じとこやし、まぁここはご縁と思ってさ、もうちょい詳しく聞かせてくれ」
焦れるように言う甲斐だが、絵莉は無言のまま宿へ向かった。その後ろを彼はついてくる。走って逃げるのは面倒だったのでそのままにしておく。だが、危害を加えてくるようだったら手荒な対応を取らざるを得ない。
民宿の引き戸を開けて入り、ちょうど通りかかった主人に「おかえんなさい」と声をかけられた。背後の甲斐が「ただいまー」と明るく言う。どうやら本当に同じ宿に泊まっているようだ。
「甲斐さん」
絵莉は努めて鬱陶しげに聞こえるよう低い声音で話しかける。
「ししめ星羅って知ってます?」
「ししめ星羅……」
甲斐は逡巡した。分からないならいい、と口を開きかけると、彼は「あぁ!」と手をポンと打った。
「地元で占いやっとう師匠がそんな話をしよった。俺は直接会ったことないけどな、力の強い霊能者やったって聞いて、一回でもいいけん会うてみたいな……でもなんで?」
振り向くと、甲斐はキョトンとした目で見ている。絵莉はゆっくり近づき、甲斐を見上げる。
「分かりました。それじゃ、ちょっと手伝ってください」
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