酸鼻の極 7
『いきいきホーム咲楽庵』近くのパーキングエリアに車を停め、司城は施設の周辺をぐるりと一周歩いた。昼時だからか、庭や玄関、駐車場には人がいない。白いフェンスに囲まれた庭には色とりどりのバラが咲いている。例年より温かい十月、日向ぼっこでもできそうな晴天だ。
司城は駐車場まで行き、施設内の様子を窺った。談話室でスタッフと一緒に体操をする高齢者の姿が見える。
「……ん?」
本当に体操をしているのだろうか。そう思った瞬間、窓に何かがぶつかる衝撃音が聴こえた。頭を打ち付けたような鈍い音だ。司城は玄関ホールへ向かった。その時、若い女性スタッフがドアを開けて飛び出してくる。
「助けて!」
金切り声を上げる女性。その後ろからヨロヨロと飛び出す高齢者、中年のスタッフ。皆が恐怖に慄いた顔で外へと雪崩れ込んでくる。
「どうした!」
「お願い、助けて……! 助けて!」
「落ち着け、何があったんだ」
司城は倒れる女性スタッフの肩をつかんで揺らす。彼女は目に涙を浮かべて何事か訴える。しかし震えてうまく言葉が出せないのか「あぁ」と泣き崩れ、要領を得なかった。司城は女性を残し、避難を誘導する男性スタッフに駆け寄った。
「どうしたんだ?」
「ひ、人が、暴れて……と、とととにかく避難が先です!」
そう動転しつつ、彼は果敢にも施設内へと向かった。司城も後に続く。車椅子を勢いよく押していくスタッフ、乗せられた高齢者が次々と外へ避難しようと飛び出し辺りは騒然とした。
中は阿鼻叫喚だった。倒れて身動きできない人もいる。しかし、助ける余裕がないのか女性スタッフの多くが老人たちを見捨てた。逃げ惑う人々。泣き叫ぶ老婆。怒号を上げる老爺。冷静な者は誰一人いない。
司城は足元でつまづいた老婆を車椅子に乗せ、逃げようとした女性スタッフを捕まえて外に出しながら奥へ進んだ。段々と人の波が減っていく。明るい廊下を曲がる。
「……あっ」
白い壁は真っ赤に染まっていた。その惨状を視認した瞬間、血の匂いが鼻腔を刺激する。磨き上げられた廊下をドロドロと流れていく赤黒い血溜まりの先に、先日面談した面長の男がうつ伏せで倒れていた。思わず駆け寄り、体をひっくり返す。
「うわっ!」
つい叫び、男から飛び退いた拍子に尻もちをついた。男の顔には無数の歯型と引っかき傷があり、顔のパーツが崩れていた。生きているのか死んでいるのか判断できない。思考はグルグルとかき回されるかのように目まぐるしく、心臓が警告を促している。
司城はゆっくり立ち上がり、しばし佇んだ。
逃げたい。しかしこの目で確かめなければならない。生存者もまだいるかもしれない。この先に逃げ遅れた人がいる、もしくはこの惨劇を作った犯人がいる。すなわち美鶴が死ぬに至った事件と同じ何か。久留島や足立、河井を苦しめ狂わせた何か。椎羅が視続けた何か。その秘密が今、ここにあるのかもしれない。
司城は震える膝を叩き、奥へ進んだ。逃げ遅れたらしきスタッフと高齢者が声を殺し、部屋の中から様子を窺っている姿が見え、司城はその場に留まるよう手で制した。近づくと、彼女らは怯えた目で何か訴えている。
「向こうか?」
小声で訊くと、彼女らはしきりに頷き、すがるように司城の腕を掴む。怪我はなさそうだが、どうやら老婆の足腰が悪いのか動けないようだ。
「鍵かけられるんだろ? だったらこの部屋を施錠して隠れてろ」
すると女性スタッフは頷き、ピシャリと部屋の戸を閉めた。他にも同じように隠れている人がいるのだろうか。なんにせよ、施錠した部屋への侵入は物理的に不可能だ。相手が相当な怪力でない限り。化物でない限り。提案した手前、その判断が正しいのか分からなくなってくる。血の匂いのせいか噎せ返りそうで、惨憺たる光景に支配され脳がエラーを起こす。
血の轍が続く。辿る。相手は車椅子だろうか。だとしたら、椎羅の言う通り白源則子という人物が犯人なのだろうか。非力な老婆が大の男を相手に襲いかかったとでもいうのだろうか。
その時、視線の先で車椅子に座ってうずくまる老婆を捉えた。傍らには見るも無惨な女性スタッフらしき体の残骸が横たわっている。胸から臍にかけて血に塗れている。こぼれ落ちているのは柔らかそうな臓器。女性スタッフの指がビクビクと小刻みに痙攣していた。
それを見ないようにしながら、司城は老婆に近づいた。
「おい」
声をかけると、老婆は顔を覆って泣いていた。逃げ遅れたのだろうか。白い髪の毛には返り血が飛び散り、おそらく介助していた女性スタッフが殺される現場を目の当たりにしたのかもしれない。
「大丈夫か?」
「みわさんが……みわさんが……かわいそうに……」
老婆はそれからも同じ言葉を呟き、まるで赤子のごとくしゃくり上げて泣いた。司城は老婆の車椅子を掴み、押した。仕方がない。この老婆を避難させてもう一度戻ることにする。
「婆さん、逃げるぞ」
「みわさん、みわさんは」
「また後で助けに行く。だから、あんただけでも先に」
「みわさん、かわいそうに。みわさん、かわいそうに、あぁ……」
滑る廊下に注意して移動させる。老婆は腕をさすって何事か呟くばかり。折り紙の輪が連なった腕輪のようなものをはめており、それも血で濡れている。
察するに、この事件を起こした犯人らしき白源則子はスタッフだけを執拗に狙っているようだ。どういうことだろう。それもかなり酷い殺し方だ。尋常じゃない。
「あぁ、お母さん、お母さん」
思考の中に老婆の嘆きが割り込んでくる。司城は肩を震わせ、立ち止まった。老婆が号泣する。
「お母さぁぁんっ! 助けて、お母さぁぁぁぁんっ!」
「婆さん、落ち着いてくれ。犯人がまだ近くにいるかもしれないだろ」
ふと司城は背もたれの裏についていた名札に目を向けた。血で汚れたそれは「シラモト」と書いてある。
シラモト──白源、則子。
途端に老婆が唸り声を上げ、苦しみだす。
「婆さん、もしかしてあんたが……」
刹那。司城の左肩から血飛沫が上がった。痛みよりも驚きが勝り、慌てて飛びのくも遅く、凄まじい速度で老婆が覆いかぶさってきた。
獣だ。人間ではない。まるで手負いの猛獣を相手にするような獰猛さで老婆が司城を組み敷く。何を言ってもその耳には届かない。口からは唾液が垂れ、何かに取り憑かれたかのよう。悪魔か。その瞬間、昔観たホラー映画のワンシーンを思い出した。同時に何故か腹を突き破るような感触がし、全身が硬直する。
「司城さん!」
玄関の方角から少年の声がし、老婆が悲鳴を上げる。石をぶつけられたのか、老婆の頭が陥没していた。老婆はその場でうずくまり、椎羅を見るなり目を覆ってしおらしくなった。司城は起き上がろうとしたが、思うように身動きができない。腹から血が溢れていく。
「司城さん!」
「椎羅、お前……どうして」
「あれからすぐ家を出て戻ってきたんです。ここに着く前にまた視えたから……司城さん、血が」
司城は腹を抑え、死にものぐるいで立ち上がった。椎羅の怯えた顔を見ていると自分が情けなくなる。
「あともう少しだったのに……とにかく逃げるぞ」
椎羅の支えでなんとか前へ進むことができる。思ったより深傷のようだ。老婆の力で腹に穴が空いたとは思えないが──
「クソッ、何がどうなってやがる……」
あの老婆は正気じゃなかった。
「悪魔に取り憑かれているのか……人間業とは思えない……」
「司城さん、まずはここから離れないと」
椎羅の懇願にも似た声で司城は思考を止め、廊下を抜け出すべく必死に歩いた。呼吸が荒れる。全身の血をすべて流したように思えた。力がどんどん抜けていき、全身の熱が奪われて寒い。
背後が静かだ。自分の荒い息遣いしか聴こえない。足がもつれ、受付カウンターにもたれた。
「司城さん!」
椎羅がバランスを崩し、悲鳴を上げる。
「司城さん、お願い……もう少し頑張って」
なんとか起こそうとしてくれるが、司城にはもう立ち上がる気力がなかった。代わりにまだかろうじて回る頭で考える。
──ヤツは、どこだ?
その時、背後に殺気を感じた。司城は力を振り絞り、無事な右腕で椎羅の手首を掴んだ。
「椎羅、逃げろ」
「えっ」
「ヤツが、後ろに、いる。ここで、二人でくたばるわけに、いかねぇだろ」
椎羅の目に涙が浮かぶ。怖いくせに一人でこの地獄まで駆けつけられる子だ。この子に託そう。司城は椎羅の手に自分のスマートフォンを渡した。
「そこに、いろいろ入ってるからさ……あと、資料も持ってけ」
「ちょっと待ってください」
「あとは、絵莉に……何もないように……」
「司城さん、そんな」
しかし、司城は言葉を待たずに椎羅を突き飛ばした。瞬間、脳天から鋭い何かが突き破るような感覚に溺れる。間際、思い浮かぶのは美鶴と絵莉の顔──
警察が駆けつけた頃には、白源則子は気を失っていた。不気味なほど静かな施設内には確認できるだけで五人の遺体があった。外には重軽傷者が数名。白昼のど真ん中、ほんの三十分の間に多くの死傷者が出たというが、その真相を知る者はこの場に存在しない。
事件を追うべく奔走していた司城賢明も志半ばで死んだ。
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