第20話 7年を経て、気づいた答え
◇
「遅くなってごめんね」
それからやって来たのは、田中くんと待ち合わせをしていた神社だった。
石段に座ったままのそりと顔をあげた彼の眼鏡のレンズがキラリと反射した。そしていつものように真ん中をくいっと押し上げる。
「遅かったね。てっきり忘れられてるのかと思って、もう少ししたら帰ろうかと思ったよ」
「ご、ごめんね。ちょっと急用ができちゃって……」
田中くんと先に約束をしていたのに、そのあとにできた用事を優先してしまうなんて。余計なこと言ってしまったのだろうかと不安になって、ちらと彼へと視線を向ける。
「急用?」
理由は言わずに誤魔化そうと思ったけれど、私のことを田中くんは気にかけてくれていた。
そんな彼にこのまま嘘をついていいのだろうか、そう悩んだ私は言おうとしていた言葉を飲み込んで、代わりに
「実はね、さっき友人に呼ばれて……」
重たい口を開いたのだ。
そしたら彼は、え、と困惑した声を漏らしたあと慌てたように石段を立ち上がる。
「そ、それでどう…だったの?」
私よりもはるかに驚いているような表情を浮かべる。その姿を見て、不思議と私の方が落ち着いていた。
当事者の私が平気なのに、どうして田中くんが焦ってるんだろう。
「一応ちゃんと話せたと思うよ」
あの頃の私ならこんなふうにはいかなかった。
やっぱり少しは成長できてるのかな。そうだといいな、そうだったらいいな。いろんな感情が交錯する。
「じゃあ仲直りしたってこと?」
「えっと、うーん、仲直りしたっていうかしてないっていうか……」
「え、それじゃあ許してないってこと?」
「うーん、許してないとも違うというか……」
さっきの記憶を思い出そうと、目を閉じて掘り返す。ギュルルルっと音を立てながら頭の中で逆再生する。
それを仲直りというのかいわないのかしばらく考えたあと。
「結局仲直りはできなかったの。ううん、違う。しなかったの、仲直り。自分がそう決めたの」
「……自分が決めた? なんで?」
上擦ったような声で尋ねられる。
なんで、ってそれは、
「なかったことにすることができなかったから」
陰口を言われていたのは事実で、それをなかったことに、ゼロにすることは不可能で。
それを飲み込んで笑顔を貼り付けるなんて私には、きっと無理だ。
「仮に許したとしても自分がまた同じように苦しむだけだと思ったの。でもそれってあの頃と何一つ変わらない。成長してない。それじゃあダメだなって思ったの」
一人でいるのはすごくつらいことだけれど、自分の気持ちを我慢して周りに合わせてばかりいるのはもっと苦しくて。
けれど、それは私だけではなかったはず。
「それにね私、思うんだ。きっと二人も今まで悩んでいたはずだし同じように苦しんでいたんだと思う」
「でも陰口を言ったのは彼女たちだろ?」
「それはそうだけど……」
もっともなことを告げられて口ごもる。
陰口を言ったのは、間違いなく彼女たち。
それを聞いたときはなんでって思ったし苦しかったし、もう嫌だ全部なくなってしまえって世界を恨んだ。
けれど、冷静になって考えてみると。
「そうさせてしまったのは私だったのかもしれない……そう思うんだ」
話も趣味も合わなくて、性格も違うから合うはずがないんだ。そう思って諦めて向き合おうとしなかった。彼女たちのことを知ろうとしなかったし何もしてこなかった。
人間みんな違って当たり前だ。十人十色って言葉もあるくらい、十人いたら十人とも性格や考えも全部違う。だからこそ、仲良くなれたり新しい考えが生まれたりもする。
「蓮見さんは彼女たちのことを責めないなんて、優しいんだね」
「ううん、ほんとにそんなことないよ」
優しいって言われると嬉しかった。優しいねって褒められると自分がほんとにいい人みたいに思える気がした。
でも実際はそんなことなくて。
「私は優しいんじゃないの。多分ずっと自分だけを守ってきた。私は可哀想だから、傷つきやすいからって思ってもしかしたら悲劇のヒロインを演じてたのかも」
ずっと自分のことばかりで、彼女たちのことなんかちっとも考えなかったしそこまで興味もないなんて思った。
ただ、一人になりたくないからと彼女たちの輪にいることを優先した。
それは自分のことを守っているだけだった。
こんなことが起こってしまったのは、今までの私が招いてしまったことなのかもしれない。
「悲劇のヒロイン……?」
「うん。誰よりも可哀想な子なんだって思ってた。この世界にいる誰よりも私が一番なんだって」
無視をされたり陰口を言われたり、そんな自分は可哀想で被害者なんだと思った。そう思い込んでいた。
「可哀想な被害者で、そして偽善者だった」
同じクラスの子が仲間外れをされたのを助けたのは見て見ぬフリができなかったから、と思っていたけれどきっとそれは建前で、助けた私はいいことをしたんだ。いいことをした自分は偉いんだ、みんなとは違うんだって思った。──きっとそれが本音だった。
いいことをした自分がただ気持ちよくて、自分だけは特別なんだって、そう思いたかった。
今までの自分のしてきたことや口に出していた言葉を思い出すと、全部が上っ面で心からの言葉なんてなかった気がする。
「そう思ったらこのままじゃいけない、変わらないとって思った。いつまでも過去にしがみついていたら私、ほんとにひとりぼっちになっちゃうんじゃないかなって怖かった」
そうしたら、今の彼女たちを受け入れたままそばにいることなんてできなかった。
彼女たちが悪いんじゃなくて、私自身が変わらなきゃいけないって思った。
そうしたら。
「仲直りはできなかったし、許すこともできなかった。こんな結果になるなんて、つらくて苦しい選択だったけど……でも、時間が解決してくれるんじゃないかなって私そう思ってるし、そう信じてる」
裏切られた過去があったから“信じてる”なんて言葉は一番大嫌いだったけれど、自分の口からは思ってもいなかった言葉がこぼれ落ちて驚いた。
例えそれが一人になると分かっていても、つらくなると分かっていても自分が選んだ道。
正しいかどうかなんて誰にも分からない。何が正解で、何が間違いなのかも分からない。
けれど自分だけは自分が選んだ道を間違いだなんて思いたくなかった。
「そっか」
「うん」
初めて向き合うことができて少しだけ二人のこと知れた気がする。
成長できた自分は、心に余裕ができた。
「蓮見さんがそう決めたならいいと思う。僕は、これからの蓮見さんを応援するよ」
少しだけ口元を緩めた田中くん。
「あり…がとう」
照れくさくなって、ふい、と視線を逸らした。
彼女たちと向き合ってちゃんと話すことができて、そして田中くんに私の思い全部話したらすごくすっきりした。
誰にも話せなかった思い、誰にも言えなかった過去、全部話したら見えなかったものが見えてきた気がして。
改めて、頑張ろうってそう思えた。
田中くんの存在が私の成長へと繋がっている、そんな気がしたんだ。
「そ、それより、田中くん、何か話があったんだったよね……?」
自分のことばかりを話した羞恥心に耐えられなくて話を逸らしたら、ああそうだったね、と思い出したようにハッとするとかばんの中を漁りだす。
「これ」
そう言って、かばんの中から取り出した何かを私へと差し出した。
なんだろう、思いながら恐る恐るそれを掴む。
「これに見覚えない?」
折り畳まれていたそれを広げると、真っ白でレースが付いていて右下に花柄の刺繍がついているハンカチだった。
そしてタグの反対側にK.Hと記入されていた。
「それ蓮見さんに貸してもらったんだ」
突然そんなことを告げられて、え、と困惑した声が漏れる。
「わ、私に……?」
「うん。まあかなり前のことなんだけど覚えないかな」
「覚えって言われても……」
全然、記憶にない。
あ、でもK.H……蓮見香織のイニシャルと一致する。
いや同じイニシャルの人なんかこの世界に何万といるだろうし。
「蓮見さんと僕は、小学生の頃一度だけこの場所で会ってるんだ」
聞こえた声に顔をあげると、そこの石段に座って話したんだ、と石段に指をさしながら続けた。
「え、うそ……」
私と田中くんが前にここで出会っていて、しかも石段に座って話をした……?
彼の視線をたどるように私も同じように目を向ける。そのあとに、もう一度ハンカチを見つめた。
『──泣いてるの? 大丈夫?』
その瞬間、急速に記憶が手繰り寄せられる。
すると音を立てて逆再生すると、男の子の記憶が浮かんだ。
石段に座った男の子が一人で泣いていて、そこに居合わせてしまった私。その男の子が自分と重なって声をかけた。
ちら、と彼を見上げると、あのときの子とは顔は違うけれど、面影が重なった。
「……もしかしてあのときの?」
おずおずと尋ねると、うん、と頷いた彼は、表情を緩ませる。
「よかった、やっと思い出してくれたんだ。まさかこのまま忘れられるのかと思っていたよ」
と、言うと眼鏡をくいっと押し上げる。
「う、だって……そんな前に会っていたなんて想像もしてなくて……ほんと、ごめん」
ハンカチを持ったまま両手を合わせてごめんと言うと、まあいいけど、とまた眼鏡をくいっと押し上げると、目の前から歩いて石段の方へ行くからあとを追いかけると、そこへ腰を下ろした。
すると、あの日の男の子と田中くんがリンクして見えた。
「でもなんで、これを……?」
──年月を超えて今さら私に。
「蓮見さんにお礼を言いたかったんだ」
「私に、お礼……?」
わけが分からない。どうして田中くんが私に感謝なんて、そう思っていると、
「あの日、僕は何もかも嫌になってここへ逃げて来たんだ」
ポツリと声を落とし始めた。
「あの日……?」
尋ねると、うん、と頷くと、おもむろに眼鏡を外した彼は、
「僕、学校で一人だった。地味で暗いからって無視をされて、陰口も言われて苦しかった。だけどそんなこと誰にも言えなくて……それで気がついたら僕は、泣いてたんだ。ここで、一人で。そうしたら蓮見さんがそのハンカチを僕に差し出してくれたんだ」
まくし立てるように告げたあと、私が持っているハンカチへ指をさした。おもむろにそれへ目線を下げる私。
「そしたら蓮見さんは、こう言った。──泣いてるの? 大丈夫?──って。僕のことを心配してくれたんだ」
その言葉を聞いて、頭の中にあの日の映像が走馬灯のように流れてくる。
そうだ、私そんなこと言ったんだ。
そのあとに“きみも一人なの? じゃあ私と同じなんだね”って。
どうして今までずっと忘れてしまったんだろう。
「僕のことを心配してくれるのは、僕にハンカチを渡してくれたのはきみが……蓮見さんが初めてだった。蓮見さんだけが僕の悲しみを分かってくれたんだ」
“きみも一人なの? じゃあ私と同じなんだね”
「違うよ、田中くん。私、悲しみを分かったなんてそんな綺麗事じゃなかった……」
悲しみを理解した、なんてそんな綺麗なものではない。ただ私はあのとき、自分と同じ境遇にいた男の子を同情していただけだ。
苦しいのはひとりぼっちなのは一人じゃない、そう思うと少しだけ人に優しくなれた。
それは偽善者と似ているのかもしれない。
「そうだとしても僕はあのとき助けられたことには間違いはないから」
レンズ無しの彼の瞳は濁りなんか一切なくて綺麗なビー玉のようで、彼の瞳を見ていると私の心まで浄化されていくようだ。
「あの日、蓮見さんに出会わなければ僕は今こうやって生きていたかどうかも分からなかったし。ほんとに感謝してるんだ」
眼鏡をかける。見慣れた彼の姿が視界に映り込む。そして、だから、と続けると、
「蓮見さん、あの日の僕を救ってくれてハンカチを渡してくれてありがとう」
私を真っ直ぐ見据えたあと、ゆっくりと頭を下げた。
知らなかった。田中くんがそんなことを思っていたなんて。全然気づかないまま、今までずっと過ごしてきた。
私と田中くんが過去に繋がりがあったなんて、思いもしなかったし思い出すこともなかった。
「蓮見さん、ほんとにありがとう」
七年前のあの日、私は田中くんと出会った。
そして声をかけて、ハンカチを渡してあげた。
それが今の私たちの繋がりを結んでいたのだろうか。
「私の方こそ、ありがとう」
「え、なんで……」
「田中くんにいろんなこと話せて今はすごくすっきりしてるから」
誰かに悩みを打ち明けるのがこんなにも心が軽くなるなんて知らなかった。
もっと早くに知っていたら彼女たちに話せていたのかな。そうしたらこんなことにならずに済んだのかな。
「あーあ」
石段から立ち上がると、タンっ! と平坦な地面へとジャンプする。
「自分ってなんでこんなにうまくいかないことばかりなんだろう……!」
空を見上げて大声で叫ぶと、タンっと音がして隣を見てみれば、ジャンプして私と同じ目線へと降りた田中くん。
「それが人生なんじゃないのかな」
私と同じように空を見上げた。
「……人生?」
「そう考えた方が納得がいくだろう?」
「どう、だろう」
うまくいかないことが人生……か。
そんなふうに考えたことなんか一度だってなかった。全部、不幸体質のせいにして自分の運命はこうなのかと神様を恨んだ。世界は不条理だと嘆いた。
「人生は、難しくて難問を解いているようなことばかりが現実で起きるけど、それが解けたときは自分の成長にも繋がるし、難しい難問が解けるほど人間燃えてくる。きっとそういうふうにできてるんだ。壁にぶつかって僕たちが成長できるように作られているんじゃないのかな、世界は」
なるほど、確かに。そう考えてみれば、少しだけ心が軽くなる気がする。
同じ境遇を過ごしていたのに、考えは全く対照的なものばかり。
「田中くんってやっぱり頭が良いね」
知れば知るほど、もっと知りたくなる。
不思議な思いが私の身体を駆け巡っていた。
「いいや。これは僕自身が体験して思ったことさ」
「田中くん、意外と心強いよね」
「今でこそだけどね。昔はすごく弱かったよ」
そんなふうにとても見えないけれど、あの日の記憶の男の子は田中くんで、弱々しく泣いていた。
「でも、蓮見さんにハンカチを渡してもらったあの日から考えが変わったんだ」
「変わった……?」
「誰にも文句言われないように一つだけ自分に特技を持とうって。誰にも負けないような、自分の力になるような」
「それで見つかったの?」
すごく気になって、ハンカチを握りしめてどきどきしながら尋ねたら、ああうん、と表情を緩ませて、
「勉強だよ。誰にも負けなくて僕を絶対に裏切らない。頑張れば頑張った分だけ僕の力になる。あの日から僕は、勉強を人一倍頑張るようになったんだ。それがいつしか自信につながって、僕は弱いままの僕じゃなくなった。嫌なことは嫌だって無理なものは無理だってちゃんと言葉にできるようになったんだ」
淡々と続けるその言葉を聞いて、田中くんは並々ならぬ思いをしながらこの七年間を過ごしてきたんだなと思った。
「だから今もずっと勉強してるんだね」
初めて知った、田中くんの内側。
いつも教科書とノートを開いて勉強ばかりをしている彼をガリ勉だとみんな言っていたし、私だって思っていたけれどそれは自分を強く見せるための纏う鎧だったのかもしれない。
「勉強は絶対に僕を裏切らないからね」
「確かに、人よりは信用できるかも」
「そうだろう? だから蓮見さんもちゃんと勉強した方がいいと思うよ。前回のテストは赤点だったみたいだし」
無関係な話を持ち出されていてもたってもいられなくなった私は「それ今関係ないでしょ!」と声をあげたあと、
「せっかくさっきまではいい話をしていたのに……田中くんってばほんとに一言余計なんだから」
知らない一面を見たとしても、心の中心にいる彼は気づかいが下手で人間関係がうまくない田中くんのままだった。
「ご、ごめん! 今のはそのわざとじゃなくて……」
途端に慌てた彼は、えっとだから、と言葉に詰まらせながら身振り手振りアタフタする。
「クセなんだ、クセ!」
「……クセ? なんで?」
尋ねてみるけれど、それはだから、と言葉をもごもごさせて言いたいことが見えてこない。
痺れを切らした私は、
「だから、なに!」
声をあげたあと、一歩足を前に出して急かすと、私から視線を逸らしたあと、
「……わざとカンに触るようなことを言えば、相手の意識に残るからって言われて……」
ポツリポツリ気まずそうに言葉を落とした。
まるでそれは自分の意識ではないことを告げているような言葉だ。
「言われたって誰に?」
間をおかずに尋ねると、
「……神様に」
突然、メルヘンチックなことを言う田中くん。
ちょっと待って。神様ってなに。こんな真剣な話をしているときに。
「……ふざけてる?」
「いやっ、ほんとに、神様に言われたんだ! 相手に覚えられたいならまずは意識に残らないといけないからって、それで……」
どうやらほんとうにそんなことを言われたらしい。
だが、神様なんかこの世界にいるはずがない。
──いや、待てよ。そういえば私がここで出会った変な人も神様だと名乗っていたじゃないか……
「変な人とはなんだ」
聞き覚えのある声が聞こえたあと、突然空がぱあっと光った。
そして私たち二人の前に現れたのは、あの神様だった。
「久しいな、香織」
私を見下ろして、ニヤリと笑った。
また今の心読んだんだ。
ていうか、この人の前で泣いたと思うとそんな自分が恥ずかしくてたまらずふいっと視線を逸らす。
「──あ、この神様! この人が僕にアドバイスくれた人なんだ……!」
田中くんがいきなり声をあげたあと、神様の真下へ駆け寄ると、両手を空へ掲げる。
うそでしょ。まさか田中くんもこの神様と縁があったなんて、と開いた口が塞がらない私。
「おまえも久しぶりだな、英治」
「うん、久しぶり! …じゃなくて、ちょっと大変なことになったんだ。説明するの手伝ってくれないかい?」
「なに? 私に頼み事だと」
私一人そっちのけで、二人は仲良さげに会話を続けていた。その様子がぼんやりと見える。
まさか神様と田中くんが……
神社にお願い事をするような人ではないし、どうやって知り合ったんだろう。ていうか出会ったんだろう。
謎はますます深まるばかり。
「まあ、よい。どうせ暇をしていたゆえ、おまえたちの力になってやるとしよう」
そう言うと、神様は私の元へ降りて来る。
視界に映り込むから意識がハッとして、目の前の神様を見つめた。
「英治が困っているらしいのでな、少しばかり私が手を貸してやるのだ。だからよく聞いておくのだぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。その前に二人はどうやって知り合ったの……?」
「これからそれも話してやるから黙って聞いておれ」
命令的に嫌味っぽいことを告げられる。
ああ、やっぱりなんか田中くんに似ている。
「まずはだな、英治と出会ったプロローグから話してやるとしよう」
どうやら私の意見など関係なしに事は進んでいくらしい。
「あれは、今年の春。高校の入学式とやらのあとのことだな。英治がここへ来たんだ。『やっと同じスタートラインに立てた』そう言ってな」
「スタートライン? それって」
どういうことなのか尋ねようと思った矢先、
「質問は受け付けぬ」
神様が先手を打った。私は言葉を吐き出すこともできなくて、そのままお腹の中へ流し込む。
「それで英治が神に祈りを捧げたのだ。『これから自分はどうすればいいのか』と。この私に。初めは面倒くさくて無視をしようと思ったが、そのときその姿が目に止まったのだ。そして分かった。おまえが七年前のあの日の子どもだと」
ちら、と田中くんへ視線を向けた神様は、少しだけ複雑そうな表情を浮かべていた。
「腐った心を持つ人間が幸せになるなんておかしな世の中だ。そんな中、心が優しすぎるおまえは苦しんでいた。正直者がバカを見る世の中、まさにそれだと思った」
人間界の言葉を知ってるの、と尋ねようと思って口を開くけれど、ちら、と神様の視線が向いた。心読まれてる。瞬時にそう思って、両手で口を抑えた。
そうしたら視線はすうっと外れて、
「それなら私が英治に手を貸してやろう、そう思ってな。その日、私は姿を現してやったのだ」
と、言ったあと長い前髪をふわりとかきあげて、
「まあ、突然現れた私を見て英治はかなり混乱しておったがな」
「そ、そりゃあ驚くさ。空中に浮いてるし、神様って名乗るし、でも見えてるし……だから僕は頭でも打ったのかと思ったよ」
「あのときの表情は何度思い出してもおかしいな」
クックックッと引き笑いをする神様に、口をパクパクさせて顔を真っ赤にする田中くん。
どうやら二人はかなり仲がいいらしい。
「それで次はだな」
つかの間の休息もあっという間に終わり、
「頭が良い英治がなぜ特進科ではなく普通科を選んだのか、まずは同じスタートラインに立つためだからだ」
……あっ、私もそれ気になる!
「どうして田中くんは頭が良いのに普通科に来たの?」
「ああ。それには理由があってな。同じスタートラインに立つためだ」
スタートライン……?
さっきもそれ言ってたけれど、そもそもそれってどういうことなんだろう。
「理由は簡単なことだ」
そう言って、私に指をさしたあと、
「おまえのためだ、香織」
「えっ、私……?」
「ああそうだ。だが、英治はまだ自分の気持ちに気づいていなかった。だからそれを知るためにおまえと同じ学校の普通科を選んだのだ」
田中くんが普通科に来た理由は一応分かったけれど、それが私と繋がるなんて一体どういう…
ていうかそれ以前に。
「そもそもどうして私が今の学校に行くことを田中くんが知ってたの?」
私たち、ここで一度しか会ってないはずなのに。どこの高校を受験するのか親しかった人にしか言っていなかったのに。
「それはだな、おまえたちは中学が同じだったからだ」
神様が当然のように告げる。
「──え? うそ!」
私と田中くんが同じ中学……?
信じられなくて困惑していると、ほんとだよ、と口を挟む田中くん。
「ここで会った小学生の頃は学校別々だったけど、中学は同じだったんだ。まあでもクラスもかなり多くて一緒になることはなかったしすれ違うこともなかったから、僕が一方的に知ってたってことだけど」
確かに中学は、かなり人数が多くてクラスも一学年七クラスもあったから覚えていなくて当然っちゃ当然なのかな。
「で、でも、なんで小学校が別々って分かったの?」
「あーそれは、ハンカチを返そうと思って全学年の教室見て回ったんだけど蓮見さんがどこにもいなかったし、先生たちにも確認してみたけど『そんな人はいないぞ』って言われたから」
「そ、そうだったんだ……」
あ、そういえば私の小学校の近くにはべつの学校あった! もしかしたらそっちの方に田中くんがいたってことなのかな。
それでずっと私を探してくれていたなんて……
「おっと、話が逸れたな」
神様が口を挟んでパチンっと指を鳴らしたあと、さっきの話に戻るが、と前置きをしてから、
「英治が自分の気持ちを知るためにおまえ…香織と同じ学校を選んだのだ」
正しい道筋へと軌道修正する。
それ、さっきも聞いたけれどよく分からない。
「自分の気持ちって?」
焦る気持ちが先走り口を挟むと、まあ黙って聞いておれ、と告げられて再度口をつぐんだ。
「自分の気持ちを知りたければ、まずは話しかけることだと説明したのだ。だが、英治は自分が目立たないということを言っておった。目立たない人間が相手の意識に残るためには苦手意識を持たせることだ」
まくし立てられるように告げられる言葉は、神様が助言したものとは思えないほどのもので、身体の中に飲み込むのを一瞬躊躇いかける。
「まずは相手の意識に残ることが大事だったからな。いいことを言ったところで存在の薄い人間は意識には残らぬ。なら、カンに触ることを言って苦手意識を持たせたら確実に人間の意識に残る」
そういえば前に何かの本で読んだ文章を思い出し言葉の理解に追いついた。
“人間という生き物は嫌いな人ほど脳に残りやすい。一度相手に嫌い、苦手だと意識してしまえばそれはなかなか消えることはない。そういうふうに作られている”
──確かに、その通りかもしれない、なんて心の中で納得しかける。
でもそれがどうしてアドバイスになるのだろうかと新しい疑問が生まれると、
「それは、おまえだ。香織」
突然名前を呼ばれて、「へ?」素っ頓狂な声が漏れる。
私……? なんで?全く意味が分からない。
「おまえが分からぬのも無理はない。なに、理由は簡単なことだ」
勝手に心を読んだあと、淡々と言葉を告げるが、「だがこれは私の役目ではない」と付け足して口を閉じたあと、ちら、と田中くんへと視線を向ける。
「英治。おまえから言うべきだ」
と、バトンタッチをした神様。
「ええっ……? ぼ、僕?!」
いきなり騒ぎ立てる田中くんに喝を入れるように、
「ああ、そうだ。いい加減腹を括れ」
腕組みをした神様はニヤリと笑った。
神様に促されるように分かったと頷いた彼が、ふいに私に向き直る。
「蓮見さん」
私の名前を呼ぶ。ごくり、とのどの奥で蠢いた何か。それは、間違いなく田中くんが唾を飲んだ音で。あまりにも真剣な表情を浮かべていたから、どきんどきんと胸が鳴る。
「僕は、あの日からずっと自分の心の中にある感情を知りたかったんだ。会えば何か分かるのかなって思ってた。でも、会えたのはあの一度きりで、それからこうやって話すようになるまで七年も経った。勉強ばかりをしていた僕がこの感情の正体に気づけることなんかなかった」
田中くんが緊張しながら言葉を紡ぐ。
その感情が伝染して、私の鼓動も音を立てる。
「だからこの感情の答えを見つけるために蓮見さんと同じ学校で同じ普通科に来たんだ。神様に言われたように、蓮見さんの意識に残るために」
田中くんの言葉が耳に入り込んで、どきんどきんと鼓動を加速させる。
「一度会っただけの蓮見さんのことがどうしても頭から離れなくて……それはただ助けられたから頭に残っている、そう言われればそうかもしれない。けど、ただなんとなくそうじゃないんじゃないかなって思って」
レンズ奥の瞳は、真っ直ぐ私を捉えていて、逸らすことなどできなくて。
「蓮見さん、前に言ってくれたよね。“恋愛もそんなに悪くないと思う。人を好きになることってほんとはすごく幸せなことなんだと思う。だから教科書ばかりじゃなくて、たまには恋愛の本でも読んでみたら”って」
「ああ、うんそれは……」
確かに私が言った言葉だった。
そしたらほんとうに恋愛の本なんか買って読んじゃうし。
「教科書では教えてくれないようなものがたくさん書かれていて、本の中には僕が知らないような世界が広がっていた」
恥ずかしそうに頭をかいた田中くんは、それに、と続けると、
「蓮見さんと話す時間は僕にとってどれも新鮮だった。だからもっと蓮見さんのこと知りたい、いろんな話をしてみたい。どんなものが好きでどんなものが嫌いなのか、そんなふうに気になるようになって」
私も田中くんに対して同じ気持ちを思うことがあった。
苦手だと思っていた彼と少しずつ関わるうちに、この人はどういう人なんだろう。もっと違う一面も見てみたい。そんな欲望が生まれてきた。
「僕には、まだまだ知らない世界があるんだなって思ったらもっといろんな世界を見てみたいと思った。それは僕一人ではなく、蓮見さんと一緒に、二人で見ていきたい。そう思うんだ」
「……え?」
「勉強ばかりしかしてこなかった僕でもさすがに分かったよ」
そのあとに続く言葉が容易に理解できて、思わず息を飲んだ、その瞬間。
「──これはもう恋なんじゃないかな、って思うんだ」
真っ直ぐ言葉を紡いだ彼は、初めて見せるような柔らかな表情を見せていた。
ああ、どうしよう。彼の言葉を聞いて嬉しく喜んでいる自分がいることに気づいた。
だってもう私だって、ほんとはずっと前に気づいていた。その感情に。
「こんな僕がきみに好きだなんておかしいと笑われるかもしれないけど、それでも僕は気づいた気持ちを手放したくないんだ」
そう言って、私に向かって手を伸ばす。
初めはすごく苦手だった。
真面目でガリ勉だからいつも勉強ばかりしているし、カチンと来ることばかり言われるし。絶対に彼とは合わない、そう思っていた。
でもそれは、私が背を向けて向き合おうとしていなかっただけ。心を閉じていただけ。
それじゃあ分かり合えるはすがなくて。
でも、一度彼のことを知ってしまったらどんどん知りたくなった。気になった。
田中英治くんという人は、どういう人なのか。
もっと心の奥を知りたくなった。
そうしたら、知らないものが見えてきた。心の強さや暖かさに触れると、もう彼のことをなかった存在にできなかった。
「私も……」
差し伸ばされた手のひらにゆっくりと手を乗せると、彼はそれを嬉しそうに微笑むと私の手を握りしめた。
緊張しているのか彼の手は温かくて少しだけ湿っていた。
心がそわそわして落ち着かない、恥ずかしくてたまらない。
でも、心がぽかぽかと温かくて空いた穴を埋めてくれるかのようで。満たされていた。
しばらくしてあたりを見渡してみても神様の姿はどこにもなかった。
もしかしたら神様は私たちに気を使って黙っていなくなったのかもしれない。
けれど、見えないだけで空のどこかにいるようなそんな気がしてならなかったんだ──。
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