第19話
◇
放課後になり、私より先に帰り支度をした田中くんは一度も私の方を見ることなく早々に教室を出た。
その後ろ姿を見つめながら、私も早く準備しなきゃ、と思ってかばんの中に荷物を詰める。
「……か、香織」
ふいに、聞き覚えのある声が耳に流れ込んでくる。視線を上へ向ければ、最近距離をとっていた友人二人がそこにはいた。
あの日の記憶が急速に手繰り寄せられて、胸の中がぎゅうっと苦しくなる。
「あ…えっと……」
私まだ心の準備が……。
咄嗟に俯いて、下唇を軽く噛んだ。
「いきなり話しかけてごめんね」
曇った表情を浮かべながら、
「あのさ、ちょっと今いいかな……?」
ぎこちなく声を紡ぐ、その声はわずかに震えているようで。「え」わずかに視線をあげると、元気のない顔色がそこには二つあった。
どうやら苦しいのは私だけではないらしい、そう思うには十分すぎるくらい材料が残っていた。
「えっと……」
これから神社に行かなきゃいけないのに、そう思っていると。
「少しだけ時間もらえるとありがたいんだけど…」
控えめに言葉を紡ぐ彼女たちの姿を見て、突き放すことはできなかった。
「……う、うん」
だから代わりに頷くしかなくて。
田中くんごめん。少し遅れるね、心の中でつぶやいた。
移動してやって来た場所は、校舎裏だった。
私たちが立っている間には少しだけ距離があった。
「いきなり呼び止めてごめんね」
ちら、と視線を向ければ、ぎこちなく笑っているような表情が二つ視界に入る。
その声に、ううん大丈夫、と返事をするけれど笑顔は添えられなかった。というよりは顔が引き攣ってうまく笑えなかった。
笑おうとすればするほど頬の筋肉は引き攣って、違和感のある笑顔になってしまう。まさにそんな感じだ。
「うちらから声かけられる状況じゃないってことは分かってるんだけど、やっぱりこのままってわけにはいかないから…」
一人がそう言うと隣にいた彼女は、うん、とゆっくりと頷いて私も、と続けた。
放課後に校舎裏で二対一で向き合って話し合うなんて、周りから見れば喧嘩していると思われるに違いない。
「それでね」
どちらかともなく声を紡ぐと、
「香織には、ほんとに申し訳ないことしたと思ってる。ごめんなさい」
「香織、ごめんね」
二人して、頭を下げた。
その瞬間、なんだか私が悪者になった気分になって「やめて」と声をあげる。自分でも想像していないほどの声が出て驚いた。
たしかに、私はひどいことを言われた。
一緒にいる友人たちがまさか影で私のことをそんなふうに思っていたなんて全然気づきもしなかった。
あの日と同じ間違いをしないようにと、自分の気持ちは飲み込んで周りの雰囲気を壊さないように輪の中から外れないように、必死だった。
それを頑張っているつもりだった。
けれど、それは彼女たちからすれば、ほんとうの私を見せてくれていないということで。今思い返すと、信用されていないから、と思われても仕方がなかった。
ただ、私が我慢していると思ってた。
でも、そうじゃなかったんだ。
「私の方こそ、ごめんなさい」
そう言うと、私はゆっくりと頭を下げた。
彼女たちの姿は見えなくなり、代わりに視界が校舎裏の地面に切り替わる。
一生懸命アリが行列を作って、どこかへと歩いている。ふいに、一匹だけが列からずれて迷うようにウロウロしている姿があった。
一人では大した力がなくて何もできない小さなアリは、まるであの頃の自分を見ているようだと思った。
けれど、あの頃の自分とは違う。
何もできない幼い子どもで一人で我慢をしてその場に耐えるあの頃の私じゃない。ちゃんと自分で言いたいことははっきり言える。大丈夫。私、少しは成長できている。
「今までずっと私と仲良くしてくれたのに、いつも私は自分のことばかりだった。二人はたくさん話をしてくれたのに私は雰囲気を壊さないようにってそれだけに必死になって真剣に話を聞いてあげられていなかった。ほんとにごめんなさい」
二人とはキャラが違うから合わなくて当然だと思って、合わせようなんて一度も思わなかった。
ただ一人になりたくないからと、いつも我慢をした。我慢をしているのは自分だけだと思い込んだ。苦しいのは、悲しいのは、私だけなんだと思って疑わなかった。
私が謝るから、明らかな戸惑いが正面から伝わってきた。
「ちょ…香織、頭あげてよ!」
「そうだよ。悪いのは私たちなんだし!」
慌てたような声が二つ落ちる。
悪いのは自分たちだと、言い切って。
あの陰口を聞いたときは、私は何も悪くないと思っていた。自分だけは被害者なのだと思って疑わなかった。
でも、ここまで腹を割って言い合いを始めたら今までの怖いものなんか一つもなくて、不思議と落ち着いていた。
「ううん、私も悪いの。そのことに気づかなくて自分だけが苦しいんだって思い込んで、ずっと被害者ヅラしていた。二人の気持ちなんて考えずにいて、ほんとにごめんなさい」
ここには、私たちしかいない。
だから誰の邪魔も入らないし、言いたいことを言い合える。そんな状況が作り出されていた。
だからもう何も我慢する必要はなかった。
「そんなに謝られると私たちがますます悪者みたいになっちゃう」
うろたえるような声が漏れる。
彼女たちの表情を見れば、戸惑っているような困惑しているような。
謝ればいいと思っていたけれど、それが無意識のうちに彼女たちを責めていることになるなんて思いもしなかった。
でも、言いたいことはちゃんと心に鎮座していた。もう私に迷いはない。
「そういうわけじゃなかったんだけど、そう思わせてしまったのならごめんなさい。でもほんとに二人だけのせいとかじゃないと思うんだ」
放課後の校舎裏、静寂な時間が流れる。
時折聞こえる声は部活に励む部活生の声で、まるでそれが私の背中を押してくれているように聞こえて、また頑張れる。
「でも悪いのはどう見てもうちらじゃん」
「そうだよ」
ふいに叫ぶような声が聞こえて、ちらと視線をあげれば彼女たちはさらに曇った表情を浮かべていた。
どこまでも自分たちのことを責めるのは、それだけ私に対して申し訳ないという気持ちの表れだと理解するには容易くて。
「うん。でもやっぱり私も悪いから」
彼女たちだけの責任ではないような気がしてきて、私も申し訳なくなる。
今まで一緒に過ごしてきた仲なのに。それは昨日今日に始まったわけじゃない。
入学してすぐに声をかけられて、それからずっと一緒にいる友人たちだ。
加害者とか被害者とか、そんなものはもうどうでもいい。
「もちろんあんなことを言われてすぐにいつも通りというわけにはいかないよ。陰口言われたことに対してはもちろん悲しかったし、すぐには許せないと思うけど…」
あれを何事もなかったかのように振る舞うのはまだ無理だし、時間が解決してくれるのかどうかも分からない。それに高校生といってもまだまだ子どもで、十代はとても難しい時期で。いいよ、と笑って許せるほど心は寛大ではなかった。
「そりゃそうだよね。だってうちら、それだけ許されないこと言ったわけだし」
戸惑ったような声で呟くと、もう一人が、うんそうだよね、と表情を曇らせたまま頷いた。
彼女たちと、ここまで真剣に話し合ってきたことなんて今までなかった。
同じ空間にいても、同じように笑っていても同じ方向を向いても一緒にいるわけではなかった。だって私の心がべつの場所を向いていたのだから。
そんなんじゃ、お互いのことを心から理解できるわけがなかった。
「今まで通り友達として過ごすことなんて、そんなむしのいい話なんかないよね」
そう言うと、二人してさらに表情を曇らせる。
“今まで通り友達として”
それは確かに無理があるかもしれない。
今までの苦しい思いや陰口を言われてしまったこと。それを全てなかったことに、そのことから目を逸らして笑うのがどれだけつらいのか、それは計り知れない。
まだ、今は許せないけれど、もしもの話をするならば、
「時間が経って自分がもう少し大人になって…許せる、って。そう思えるときが来たらまた二人と話せるといいなって思ってる」
そうなる日が、いつか来ると願って。私は、二人を見つめた。
そうしたら彼女たちは顔を上げる。困惑していた表情が次第に崩れて、涙を浮かべているようだった。ごめんねごめんね、と繰り返し呟いた。
その姿を見ていると、込み上げてくるものがあった。
だから、私も口を開いた。
「私の方こそ、今までごめんね。……でも、声をかけてくれて、ちゃんと向き合ってくれて……ありがとう」
一緒にいた時間が無駄なわけではなかった。
ゼロになるわけじゃないんだ。
ちゃんと楽しいことだってあったし、半年分の思い出だって残っている。
彼女たちの表情を見ていたら、これで間違いじゃなかったのかも、そう思って。少しだけ肩の荷が降りた、気がした。
いいよって、許してあげるって簡単に言えないのが十代だ。そんな思春期真っ只中な私たちは、見栄もプライドも捨てて、心からぶつかり合った。
そうしたら分からなかったものや見えてこなかったものが、少しだけ見えた気がした。
そのあとに見上げた空は、今までかかっていた霧が晴れて綺麗な夕焼けが広がって見えた──。
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