第14話 降り注ぐ雨


「ふ…ぅ…っ、ヒック……」


それから走って逃げたのは、神社だった。


本殿の前にある六段ほどの石段に座って膝を抱えて泣いた。

ここは普段から人通りも少ないし、人が参拝に来ることも珍しい。

そのおかげもあって、今は誰もいなかった。


「……なんで、私が…こんな目に……」


手で拭っても拭っても、それでも止まらない涙は次から次へと溢れてきた。


つい数分前のことを思い出す。

どうしてあんなことになったんだろう。

どうして私があんなに責められなければならなかったんだろう。

周りに合わせて気を使えば、一人になることはないと思っていた。それなのに私、どこで何をどう間違えたのか分からない。


『にゃ〜』


ふいに、遠くから猫の鳴き声がする。顔を少しだけあげてちら、と視線を向ければ、私の元へ歩いて来るおはぎちゃんの姿が見えた。


「おはぎ…ちゃん……」


私が名前を呼ぶと、にゃー、と鳴いて、私の足に擦り寄った。

小さな頭を一生懸命擦り寄せては私を見つめて、にゃー、と鳴く。

まるで『どうしたの? 大丈夫?』と言われているみたい。


そしたらもうたちまち涙腺が崩壊して、また涙が溢れてくる。


「ふぇ……っ、うぅ……っ」


声を抑えることができずに、泣いた。


おはぎちゃんは私を心配して、その場から動こうとしなかった。

ずっと私の足に擦り寄って、慰めてくれようとした。

そんな些細な優しさが胸に沁みて、涙は止まらなかった。


「──泣いておるではないか」


ふいに頭の上の方から声がした。

泣いたまま顔をあげると私の少し上の方で神様が浮いていて私を見下ろしていた。


「どうしたのだ」


ゆっくりと声を落とす。


そんなの聞かなくたって、


「……どうせ…全部、お見通しなんでしょ…」


神様は、言葉を発しなくても私の心が読める。

前に何度も勝手に読まれたことがある。

それに何があったのか、なんて聞かなくてもどうせ分かってるくせに。


「まぁな」


眉尻を下げながら、弱々しく呟いた。

私を見下ろす瞳はいつもより覇気がないように見える。


でも、そんなことどうでもよい。


「一緒にいた友人にまさかあんなことを言われるとはなぁ……」


思い出すだけでも、胸が痛む。


「……その話…もう、やめて…」


何も、聞きたくない。

思い出したくもない。


鋭い刃物のようなもので胸をグサリと刺されたように痛くなる。そこからじわじわと血が滲んでいるようで。


「分かった分かった。もう言わぬ」


ポン、と頭の上に優しく添えられた手のひら。

大きくて温かくて、いつも以上に優しくて。


「ふ…ぅっ…、ヒック……」


その温もりに感化されて、また涙が溢れてきた。


それを止める術を知らない。


「にゃ〜お」


膝にちょん、と柔らかい肉球が乗った。おはぎちゃんが私を覗き込むように後ろ足で背伸びをしていた。

首はわずかに傾げているようで。


「ミケロンティスリア・ジュウミスもおまえのことを心配しているようだな」


神様がそう言うと、にゃー、頷くようにおはぎちゃんが返事をする。


まん丸なビー玉のように透き通る瞳が、私をじーっと捉えている。

目が合うと、にゃーと鳴いて、しばらくするとゆっくりと瞬きをする。


「…ふ…っ、ヒック…」


おはぎちゃんと神様が、いつになく優しい。

そう思ったのもつかの間、


「顔がひどいことになっておるぞ」


……前言撤回。神様はやっぱり意地悪だ。


なんて思っていると、


「──冗談だ」


肩を落として言った。

そんな冗談今言われても通じない。


「おまえの気が少しでも紛れればと思ったのだ」


どうやら私を元気付けてくれようと思ったらしい。その気持ちだけはなんとなく伝わった。


「だが、もうよい」


矢継ぎ早に現れた言葉は諦めたみたいなもので。神様は私の気を紛らわすのはやめたみたいだ。


なんて、勝手に解釈していると。


「香織の気が済むまで泣くがいい」


今度は対照的な言葉を紡いだ。


「ここなら誰も見ておらぬ。私とおまえの二人だけだ。おまえの悲しみや痛みを私が受け止めてやる。だから安心して思う存分泣くがいい」


淡々と告げられて、え、と困惑した声を漏らす私。

突然の言葉に驚いて涙も少し引っ込んだ。


「……なに、言って……」

「泣いた方がすっきりするだろ」

「だから…って……」


人前では泣きたくなかった。だが、神様に見られている時点でもう遅い。


「おまえは昔から我慢しすぎるのだ。一人で隠れて泣いたりするな」


「なんで、それを……」

「私が知らぬわけなかろう。ここの神様なのだぞ」


……そうか。たしかに、その通りだ。ここの神様なら昔のことだって知ってるよね。例え、私が見えなくても昔から神様はここにいるわけだし。


「一人で我慢をして、何か得になるものでもあったか?」

「そ…れは……」

「ないだろ」


言葉を遮られて、


「得をするものなんか一つもない」


神様は、私の瞳を真っ直ぐ見据えて断言してみせる。


そんなこと、ずっとずっと前に知っていた。


私が我慢することで何かが変わるわけでもない。ただ、自分が損をしていくだけだ。

どんどんどんどん蓄積された苦しみや痛みは、今までギリギリ耐えていただけ。

それが今日、壊れてしまったのだ。ダムが決壊してそこから水が次から次へと溢れてくる。


「だからもう、我慢をするな」


……そんなに優しくしないで。


「おまえは今までよく頑張った」


……やめて、もうやめて。


「香織、今日は。今だけは。何もかも全て忘れて自分の感情に素直になれ。そうしたら苦しみも悲しみも、全部流れてゆく。そうしたらきっとおまえは楽になる」


そう言うと、おもむろに私の頭を引き寄せる。


「何も考えずに泣いてしまえ。全部吐き出したらいい。おまえが流した苦しみや悲しみは、私がもらってやろう」


「……神、様……」

「心配するな。ここには私とおまえの二人しかいない」


神様がそう告げると、にゃー、ふいに鳴いたおはぎちゃん。

まるで私のことを忘れているよと主張しているかのようだ。


「おお、そうだったな。ミケロンティスリア・ジュウミスもおったんだったな」


神様の声に返事をするかのようにまた鳴くと、私の足に頭を擦り寄せた。

ふわふわした毛並みは柔らかくて温かくて、心地よくて。


ゆらゆら頭の中が揺れていく。

ふわふわ意識が薄れていく。


私、今一人じゃないんだ。


友人にあんなことを言われて苦しくて痛くて悲しいはずなのに、涙は溢れてくるのに、心が少しだけぽかぽかした。


──コツ、と頭に触れた何か。それが神様の頭だと知るのはすぐだった。


「おまえがここで泣いたのは、私たち二人だけ……いや三人の秘密だ」


「……なに、それ……」

「二人だと言えばミケロンティスリア・ジュウミスが拗ねるからな」


神様の吐息が私のおでこにかすかにかかる。


声が優しくて、切なくて。私のことを心配してくれる二人がいて……なんかもういいや。我慢なんかできなかった。ううん、したくなかった。


「今日だけは我慢せず私の胸で泣けばいい。そしたら明日はきっと晴れるだろう」


そう告げられて、緩んだ感情はもはや誰にも止められなくて、神様の胸元で声を殺して泣いたんだ──。

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