第12話 亀裂
◇
朝、八時一〇分。クラスメイトはまだ半分もいなくて、友人たちの姿もなかった。その代わり、私の隣の席はすでに埋まっていた。
「田中くん、おはよう」
今日は教科書ではなく本を読んでいるらしい。顔をあげた彼が私を捉える。
「あ、蓮見さん。おはよう」
相変わらずニコリともしない。
きっちり着られている制服は少し堅苦しそうで、ネクタイだって上まで詰められている。
どうやら今日も田中くんは田中くんのままだ。
私へのあいさつが終わると、またすぐに本へと戻る。そこでプツリと会話は途絶えた。
今までならそこで自分から話しかけることだってなかったのに。もう少し彼のことを知ってみたい、なんて思う自分は神様の影響を少なからず受けているのかもしれない。
「この前の本読んでるの?」
集中する彼に声をかけると、え、と困惑した声を漏らしてこちらを向いたあと瞬きを数回してから、
「……僕に話しかけてるんだよね?」
「そうだけど」
私の周りに本を読んでいる人は田中くんしかいないのだから、状況的に考えて彼しかいないのは明白だ。
数秒考えたあと、「いや、ごめん」と左手を私に向けて目を逸らすと、
「なんか最近蓮見さんから声かけられるのが意外というか、慣れないというか……今のも僕に声をかけてくれてるのかどうか不安だったし、それで返事をして僕じゃなかったときが恥ずかしいし」
たしかに田中くんに声をかけるのは最近になってから。正確には神様と会ってからだ。
それ以前は自分からとかは全然で、田中くんが戸惑うのも理解できる。
「せめて名前で呼ぶとかにしてほしい。そしたら間違うことだってないわけだしさ」
「…分かった、気をつけるね」
「よろしく頼むよ」
田中くんのしゃべり方にも慣れてきたし、違和感だってなくなってきた。苦手だと思うことだって減った。
今まで私は田中くんの何が苦手だったんだろう、と疑問に思ってしまうくらい話してみればふつうだった。
「それで、その本もう読めたの?」
「うん、一応全部読んだよ」
「どうだった?」
そう尋ねると、うーん、とパラパラと本をめくり始める。そのわずかな風で、彼の前髪がふわっふわっと動く。
一度も染めたことのない黒髪がサラサラしてて、肌触りが良さそうだった。
──触ってみたい。
咄嗟にそう思った。
男の子の髪の毛を、しかも田中くんのことをそんなふうに思ったことは初めてだった。
「僕に恋愛は難しそうだなっていうのが結論…かな」
「どうして?」
「僕は今まで勉強しかしてこなかったから女の子との接し方とか話す内容とか、そういうのに疎かったりするから目を合わせて話すのだって容易ではないし…」
たしかに、田中くんはそうだった。
今まで彼が女の子と話すとすれば、あいさつかノート回収のときくらいで。そう考えると彼にとって勉強が唯一無二の存在だったのかもしれない。
「私と話すときは結構目が合ってない?」
「それは一瞬でしょ。それくらいなら誰にでもできるんだけど、なんかこうやって話すだけでも精一杯というか……」
そう言うわりには女の子と話すことさえも意識してるようには見えないし、動揺してるようにも見えない。
まあ、アクシデントとかあったときはテンパっているみたいだけれど。
「それにこの本にも書いてあったけどさ、女の子って喜怒哀楽が激しいだろ?」
「そんなことまで書いてあったんだ」
「それについては蓮見さんも思い当たるふしがあるけどね」
突然私の名前を持ち出されるから困惑した。
「私って田中くんの前では喜怒哀楽激しい?」
「うん……て、え? 自分ではそういうこと気づいてないの?」
「いや、たしかにこの前二重人格みたいなことは言われたけど、そこまで喜怒哀楽激しいようには思えないっていうか……」
「まぁ、そういうことには周りの方が気づきやすいのかもしれないね」
白いシャツにネクタイをしている彼は、見た目からして心理学者のようだ。
そしたらほんとうにそう見えて、私は今田中くんに心理カウンセラーを受けているのかもしれない、とクスッと笑う。
「でもさ、こういう本もたまには脳の刺激になっていいね」
本をめくる手が止まると、わずかに口元を緩めた彼。
「僕は今まで本屋に行っても参考書以外見たことがなかったんだけど、この本を探して思ったんだ。僕の世界には、まだまだ知らないことがたくさんあるんだなって」
ぱら、とページをめくる。
紙がすれる音が耳にクリアに入ってくる。
「今まではそういうの全く興味なんかなかった。むしろ頭の中そういうことばかりのやつなんてバカだろって見下してた」
それを聞いてやっぱり、と納得する。
「中学のときも周りにそういうやつばかりいた。頭の中はお花畑って言うのかな。でもそういう人に限って“振られた”とか“浮気された”とか泣いてるんだ。結局最後は裏切って裏切られる。それが恋愛なんだ」
田中くんが言っているとはとても思えないような言葉が並ぶ。
興味はない、と言い切った彼がここまでのことを知っているのはおそらく中学のときの女の子たちの会話をインプットしていたのだろう。
「勉強は絶対に裏切らない。頑張れば頑張った分、自分の力になる。知識だって得ることができる。自分の将来にだって生かすことができるんだ」
人間は裏切るけど、勉強は裏切らない。
──まさしくその通りだ。
「でも」言いかけた田中くんが、ふいに私の方へ視線を向けるから、ぶつかって、どきっと小さく鼓動を揺らす。
「蓮見さんが言ったよね。恋愛もそんなに悪くないと思う、人を好きになることってほんとはすごく幸せなことなんだと思う、って」
「……あー、そういえば言ったよねぇ……」
その言葉を聞いて急速に記憶が手繰り寄せられて、途端に恥ずかしくなる。
穴があったら入りたい、とはまさしくこのことだ。
「だからさ、ほんとにそうなのかどうか答えを見つけるために本を買ってみたんだ」
「え、そうだったの……?」
突然のカミングアウトに戸惑う私。
確かにあのときはいきなり、分からないから見てほしいって言われて読んでみたら、なぜかそれが恋愛の本だったし。ほんと、目が点になったよ。
「……それで、答えは見つかったの?」
気になって尋ねてみた。
ゆっくりと口を開く田中くん。
「それは──…」
彼の言葉を待つ私は、緊張してゴクリと息を飲み込んだ。
「香織おはよー」
田中くんの声を遮るように明るい声色が二つ聞こえてきた。
そのせいで田中くんは口を開いたまま言葉を発そうとしなくて、友人が近づいて来ると口を閉じる。そして何事もなかったかのように本へ目を落とす。
私がおはよう、と返事をするとそういえば、と話は続いて、
「今、田中くんと何か話してなかった?」
突然そんなことを尋ねられる。
さっきの見られてたんだ、と焦った私はゴクリと息を飲み込んだ。
「そうだったっけ……」
「え、覚えてないの?」
「うーんどうだったかなぁ……」
目を逸らしながら誤魔化すと、えーうそー、と呟いたあと、今すごく楽しそうにしてたよと話を進めてゆく。
どうやら少し前までの私たちを見られていたみたいだ。
さて、ここはなんと言って乗り切ろう。そう考えていると、
「うちらには話しにくいこと話してたの?」
「え、いやそういうわけじゃないけど…」
「けど、なに?」
二人に詰め寄られて逃げ場がなくなる。
どうしよう、なんて言い訳しよう、と頭を巡らせていると。
「そんなにうちらに話せないこと?」
さっきまで明るかった声色が急に曇る。
困惑したまま顔をあげると、彼女たちから笑顔は消えていた。
「香織、なんかよく隠すよね」
「そんなに私たちって信用ないのかな」
いつものように誤魔化せば流れてゆくと思っていた。どんどん上書きされていくと思っていた。
けれど、今回はそうはいかなかったみたいだ。
「えっと、二人ともどうしたの……?」
そう尋ねると、彼女たちはお互い顔を見合わせる。曇った表情のまま。
いつも完璧だった。何事も起こらなくて円満に解決するはずだった。
それなのに私は今、一体何をどこでどう間違えたのだろう。
「香織がいつか話してくれるって思ってたけど、そうじゃないみたいだね」
「えっと、だから何が……」
分からなくて尋ねたいのに、彼女たちのそんな表情を見たのが初めてで困惑したせいで言葉に詰まる。
さっきまでの会話は一掃されて、この場所だけが冷たい空間へと変わる。
「香織は──」
彼女が口を開いたその瞬間、何を言われるんだろうと怖くて目を閉じると、ゴホンッ、わざとらしい大きな咳払いが右側から聞こえた。
そして目の前から落ちてくるはずの言葉がピタリと止まる。
恐る恐る目を開ければ、彼女たちの視線は田中くんの方へと釘付けだった。
「話の邪魔をして申し訳ない。だが今僕は本を読んでいるんだ。だから少しボリュームを抑えてくれないかい」
眼鏡をくいっと押し上げながら、そう告げる。
「ボリュームって……うちらべつにそこまで声大きくないじゃん」
一人がそう言えば、そうだよねともう一人が同調する。
感情の矛先は田中くんへと向いた。あっという間の出来事で私はそれを止められずにいた。
「いや、二人が思ってる以上に声大きいから。そんなに話したいのならべつの場所でやってほしい」
顔をあげずに本へと目を落としたまま田中くんがそう言うと、友人はイラ立ってはあ? と声をあげる。今にも田中くんに掴みかかりそうな勢いで。だがそれをもう一人の友人がやめなって、と仲裁に入る。一触即発とはまさしくこのことだ。
「ほんとに、むかつく!」
田中くんに向けられた棘のある言葉。
けれど、彼自身はそれを気にも留めていなかった。
「えっと、あの……」
二人に声をかけるけれど、どうやらそれどころではないらしく。
「ごめん、香織。またあとで」
口早にそう告げると、私たちの前から離れてかばんを席へ置くと、教室から出て行った二人。
あっという間の出来事で私は何も身動きできずにいた。
怖くて、俯きながらスカートの上でぎゅっと拳を握りしめた。
どうしてあんなことになってしまったんだろう、なんて考えても答えなんか出てこなくて。
ただただ、困惑した。
さっき友人は私に何を言おうとしたのだろう。
私は、何を言われるんだったのだろう。
完璧な答えは見つからなかったけれど、表情と雰囲気が曇っていた。
それはよくないことのような気がしてならなくて──
嫌な考えが頭をよぎったけれど、振り解くように頭を上げた。
右側から感じる小さな視線に、構ってあげるほど今の私に余裕なんてちっともなかったんだ。
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