第11話 優しい神様(2)


 ◇


「香織、うちら今日仲原くんたちと遊ぶ約束してるんだけど一緒行かない?」


 HRが終わったあと、私の机の前にやって来てそんな提案を持ちかけられる。

けれど、私は決まって両手をパチンっと合わせたあと、


「ごめん! 今日はお母さんに頼まれてる用事があるから、二人で楽しんできて」


適当な嘘は簡単に口からこぼれ落ちる。


そうしたら二人は、そっかあ残念、と口を揃えて呟いたあと、じゃあ今度時間合えばみんなで遊ぼうね、と言ってばいばーいと私に手を振ると教室を出て行った。

こんな光景は、これで何度目だろう。

私はその後ろ姿を何度見送っただろう。


べつにそれが悲しいとかじゃない。明日になればまた私は二人と一緒にいて、一人になることはない。

余計なことを考えるのはやめやめ、と頭を振って帰り準備を再開させる。


ねーねー今日遊びに行こうよ。クラスメイトの声が聞こえる。さっきまでの私たちと同じだ、そう思っていると、今日は彼氏と会う約束してるからまた今度ね、と言葉を紡いだ。

私とは違う断り方。そんな言葉を私が一度だって使ったことはあっただろうか。


楽しそうに恋バナに花を咲かせるクラスメイトの様子を、ちら、と横目で盗み見しながら思った。


あーあ。


「……羨ましいなぁ」


思わず、小声で呟いた。


中学生のとき今まで幾度となく聞いてきた彼氏というワード。

私も憧れたことがあって早く彼氏がほしいと思ったりもした。でもなかなかできなくて私だけが余っていく中、周りにどんどん彼氏ができて会話はいつも恋愛のことばかりだった。

いつも会話の中に入ることができなくてひっそりと聞く側に達していた。彼女たちの会話には、難しい言葉ばかりが並んで私はそれを理解できずに一人寂しい思いをしていた。


そんな苦い記憶が手繰り寄せられて、ずきっと胸が痛んだ。


廊下へ出て歩いても、仲良さそうに手を繋いでいる恋人がいたり、恋愛の話をしながら楽しそうに笑う生徒の姿が視界に映る。


それなのに私は、一体いつになったら幸せになれるのだろう。


「ねえ、今日は何時まで一緒にいられる?」

仲睦まじい恋人たちの会話が、通り過ぎるときに聞こえてくる。


羨ましい。憧れ。悲しい。切ない。嫉妬、いろんな感情が交錯する。

そんな現実に耐えられなくなった私は、軽く拳を握りしめて足を蹴って前に進んだ。


ここじゃないどこかへ逃げたかった。


「早かったな」


それから逃げて来たのは、神社だった。

そしたら今日は私を出迎えるように神様が待っていた。

まるで今日私がここへ来ることを予測していたかのような言葉だ。

いや、どうせあれだ。私の心を読み取ったのかもしれない。どこにいても相手の心を読み取るくらい容易いはずだ。だって神様だし。


「そこにいるミケロンティスリア・ジュウミスも待ちわびていたぞ」


そう言うと、そうだろ、とおはぎちゃんに声をかける。じーっと神様がいる方を見つめるけれど、ぷいっと視線を逸らして私のそばへとやって来た。


前に神様は使い魔と言っていたけれど。


「……全然懐いてないね」


ボソッと呟くと、


「そこ、聞こえておるぞ」


悔しそうにジロっと睨まれた。


けれど、全然怖くない。だってどうせ負け惜しみだろうし。


「聞こえると思ってわざと言ったの」


小さな声で言おうが言わまいが、神様に私の考えていることは全てお見通しだ。

人の心を読み取るなんてことは、息をするのと同じくらい造作もない。


「生意気な小娘め」

「もう私、高校生で大人の仲間入りしてます」

「私にとっては小娘に変わりはない」


ふんっ、と鼻で笑らい飛ばしたあと、おもむろに浮かぶ。気持ちよさそうに宙に浮くと、ふわりふわりと着物が風に揺れる。


小娘って呼ばれるなんて神様は一体いくつなんだろう?


それにしても……いいなぁ。私も一度でいいから空飛んでみたい。

自由に空を飛べるなら、どこか遠くへ行ってみたい。

何の柵(しがらみ)もないような自由な場所へ。

誰も傷付かず、誰もが幸せになれるような場所へ。


「それで今日は何しに来たのだ」


ふいに、腕を組みながら上から目線で物を言う。

私の小さな憧れをパチンっと弾き飛ばすから、


「……神様だから分かるんじゃないの?」


少しムッとして嫌味にも聞こえるような返事をした。


そしたら、ほお、と一瞬だけ目を細めた神様。


「言うようになったではないか」


口元を緩めてニヤリと笑った。


肝心されても、困る。

だって、全然神様はダメージを喰らっていないのだから。

どうしたものかと、困った。


「まあ、大抵のことは分かるがな」


と、言って空を仰いだ。


私と神様の位置は、地面と空中。どうしたって手の届かないところにいる。


いつも私が少し見上げる形で、それを神様が見下げる形で。


「どうせあいつのことだろう。おまえの運命の人である田中のことだな」

「え、いや、べつにそれでここに来たわけじゃないけど…」


神様でも間違えるんだな、そう思っていると、


「ああ、どうやらそうらしいな。今のはただ、カマをかけただけだ」


と、ニヤリと笑う。やっぱり笑い方には品がない。


「……運命の人だって認めたわけじゃないし」

「そう言っていられるのも今のうちだけだ」


どうやら神様は、よほど自信があるらしい。

そうなると予測しているのか、そうなる未来が見えているのかは分からなかったけれど。

神様だから何かしら見えているのだろう。じゃなきゃこんなふうに断言しない。


けれど私にとっての運命の人は、私自身が決めたかった。


「私にだって好きな人はいるもん」


もちろん、田中くんではない。


「ああそれも知っておる。サッカー部とやらに入ってる松田というやつだろう」


矢継ぎ早に現れる言葉。それを聞いてもう驚いたりしない。

だって神様は、人の心を読み解くのが得意らしいから。


「だが、そいつには女がおる。おまえではない他のやつだ。それにそいつとおまえは運命の赤い糸で結ばれてはない」

「そ、それは神様が勝手に私と田中くんを結ぶからでしょ」

「勝手にではない。そうなる運命だったのだ」


短く息を切ったあと、だから、と続けると、


「早く諦めるんだな」


諭すように告げられた。


今日、私の片思いについて二人が提言している。一人は田中くんで、もう一人が神様。

だが、二人はまるで対照的な言葉を私に言った。


田中くんは、無理に諦める必要はないし無理に忘れようとする必要もない、そう言った。

恋愛を知らない彼から出る言葉とは思えないほどに前向きだった。


一方で神様は、早く忘れるんだな、と言った。

私に奇跡なんてものは起きないと知っているからこそ、そう言うのかもしれない。

なんていったって神様だ。私の未来のことなんて簡単に分かるらしい。


けれど、どちらの言葉が胸に刺さったかなんて。そんなのは当然前者に決まってる。


「神様って意地悪なんだね」


私がそう言うと、


「なんだと……?」


眉をピクリと動かして言葉に反応する。


「だって、いくら未来が分かるからって私の気持ちなんておかまいなしに一方的に諦めろだなんて。全然優しさがないよね」


言葉は淡白で、温かさなんてまるでゼロ。


「神に優しさも意地悪もないに等しいのだ。私にそういうのを求めるでない」


神様はもっと優しいものだと思っていた。


亡くなった人を健やかに過ごさせてあげたり、優しく見守ってくれていたり、人を平等に幸せにしてくれたり。

でも、そんなの嘘ばっかり。


だって私、一度も幸せになれたことなんかないんだよ。


「……私はただ、幸せになりたいだけなのに」


ポツリと本音が口から漏れてしまう。


まるで、あの日と同じ。神様とここで出会った、あの日だ。


「ああ、知っておる。だから、おまえには運命の人を教えてやったではないか」


急に声色が優しくなるから戸惑って、


「運命の人っていったって……松田くんじゃないじゃん……」

「だからそれはおまえの運命の相手ではないからだ」


神様は容赦なく私に現実を突きつける。

どうやらほんとに松田くんとは縁がないらしい。

いっつもそうだ。私が好きになる人とは全く縁がない。好きになったところでうまくいくわけでもないし、告白だって出来ずじまいであっけなく恋は終わってしまう。


どうしてみんなはうまくいくのだろう。


「……なんで私だけうまくいかないの?」


やっぱり私が不幸体質だから? それとも私自身が不運を呼び寄せているから?


何もかもが嫌になって、俯いた。


「そう焦るな」


そう言うと、私の頭にふわりと何かが落ちてくる。ゆっくりと顔をあげると、それは神様の手のひらで。


「おまえはさっき私を意地悪と言ったがそうじゃない。おまえには幸せになってほしいと願っておる。だからこそ、こうやって目をかける。他の誰よりも心配になる。そうしたら口が悪くなるというものだ」


私に幸せになってほしい? 誰よりも心配になる? だから口が悪くなる……?


「……どういう、こと?」


神様の言っていることが分からない。

だって、さっきと言ってることが全然逆なんだもん。

「全く、おまえというやつは……」ため息をつきながら、優しく頭を撫でたあと、


「私がおまえに声をかけたのは、おまえに幸せになってほしいと思ったからだ」

「え、なんで……」

「それはさっきおまえが思っていたであろう」


さっき、という言葉で記憶が手繰り寄せられる。それはまるでギュルルル、と音を立てながら逆再生するビデオテープのようだ。


“──なんで私だけうまくいかないの”?


「この世は不条理で溢れておる。幸せになる人間がいる一方でこうして不幸に悩む人間もおる。それを人間だけの力では変えられぬ。だからこそ、私はおまえに目をつけたのだ」


「……目をつけた?」


じゃあ、ずっと神様はここにいて私のことを見ていたってこと?


「ああ、そうだ」


言葉にしていない心の中の呟きに返事をされて、戸惑った。


「私は幸せになっておる人間には興味がない。なぜなら、その人間たちは自分で幸せを掴むことができるからだ。ならば誰の力も必要なかろう」


混乱している私のことなどおかまいなしに神様は淡々と言葉を告げる。


「だが、おまえは違う」


返事をできない代わりに言葉を拾うので精一杯だった私。小さく、え、と困惑する。


「幸せになりたいと願う一方で幸せになれない。それはなぜか分かるか?」


私が幸せになれない理由?


えっとそれは、


「……私が、不幸体質だから?」


恐る恐る口にしてみれば、そうじゃない、と言って目を伏せたあと。


「おまえは優しすぎるのだ」

「──え?」

「優しすぎて空回っておるのだ」


矢継ぎ早に現れた言葉に開いた口が塞がらなかった。


「おまえは誰よりも優しい。優しすぎるからこそ損をするのだ。身に覚えがあるだろう?」


「……損をする? 身に覚え?」

「なんだ。ここまで言っても分からないのか。仕方のないやつだなぁ」


はあ、とため息をつきながら肩を落とすと、


「昔、仲間外れにされていた人間を助けたことがあっただろう。それで今度は逆におまえが仲間外れになったことがある」


神様の言葉で急速に記憶が手繰り寄せられる。


どうしよう。身に覚えがありすぎて、困った。


やっぱり神様には全てお見通しみたいだ。


そんな私に、「それだけじゃない」と断言してみせると、


「掃除当番とやらを代わってやったり嫌な雑用を押し付けられても一切反論しなかった」


告げられた言葉は、どれも自分の身に起きたことだった。


誰かが用があると聞けば掃除当番代わってあげたこともあるし、雑用を押しつけられても反論しなかったのはそれがべつに苦だと思わなかったから。誰かの役に立てるならいいと思ったからだ。

たしかに全部“誰かの役に立てれば”と思って行動したことかもしれない。

けれど、それに対して何かの見返りを求めたりはしなかった。


「それが幸せになれないことと関係しているの?」


恐る恐る尋ねてみれば、そうだ、と頷いた。


「おまえは、優しすぎるから見て見ぬフリはできないし困ったやつがいると助けずにはいられない。周りの役に立つことばかりを考えておる」


昔は、人の役に立つと嬉しいと思っていた。

だから率先して困った人を助けたり、間違ったことは間違いだと訂正する。

小学生の私は正義感に溢れていたと思う。


「でも、それは悪いことじゃないでしょ……?」

「それはそうなのだが、時と場合にもよるだろう」

「時と場合?」


ちら、と神様が私を見る。呆れたように肩を落として、眉尻を下げて、


「あまりにも優しすぎると返って損をするのだ。現におまえは損な立ち回りばかりをして幸せを逃がしておるのだぞ」


と、人差し指をトンッと私の眉間についた。


「……え?」


じゃあ何。今まで私が幸せになれなかったのは、損な立ち回りばかりして幸せが寄ってこなかったってこと?


「そういうわけだ」


また、口に出していない心の声に勝手に神様が返事をする。


「だから」と続けると、


「優しすぎて損ばかりをして幸せになれないおまえのような人間には手を差し伸べてもいいだろう、そう思ったのだ」


眉間についていた指がゆっくりと離れると、上に上にあがっていく手のひら。そうっと私の頭に添えられる。優しく、右に左に撫でられる。

私の頭の形を確かめながら、壊れ物を扱うかのように、ゆっくりゆっくりと動いたんだ。


驚いたとか戸惑ったとかそんな簡単な言葉では言い表せられないほどに、頭の中は真っ白でいくら言葉を探してみても何も見当たらなかった。


「今まで傷ついた分、損をした分、おまえには誰よりも幸せになってほしいのだ」


言葉が耳からするすると入り込んで、私の傷ついてぽっかり空いていた穴を埋めるように覆った。


「……幸せに……」


神様の言葉を反芻すると、「そうだ」と言って頷いた神様はいつになく優しい表情を浮かべていて、


「──香織、おまえは誰よりも幸せになるべき人間なのだ」


初めて私の名前を呼んだ。


胸がぎゅうっと苦しくなって、視界がぼんやりと滲み始める。


「だから、これからは自分の幸せだけを考えて生きるんだ。そしたら必ず、香織は幸せになれる」


「……私、幸せになれるのかなぁ」

「ああ、必ずな。私が約束しよう」


神様が、なんの躊躇いもなくそう告げた。


「そうだと、いいなぁ……」


私の凍った心をゆっくりと溶かすように、じんわりと胸に溶け込んだ。

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