第7話 人からの評価は気にしない
◇
それからというもの、ことあるごとにブックカバーをつけた恋愛マスターの本を読んでいた田中くん。
そんなことなどつゆ知らず、クラスメイトは『まーた勉強かよ』『ほんとガリ勉』などと陰口をついていたけれど。実際はそんなことない。
──なんてこと、私だけが知っている。
偶然にして田中くんの秘密を知ったけれど、そんなこと共有できたって、全然嬉しくなんかない。
隣で、恋愛マスターの本を真剣な表情で読んでいる彼を、ちら、と横目で見る。
すると──。
「恋の高鳴り……ってなんだ? そこから説明してくれないと僕には分からないぞ」
ぶつぶつと大きなひとりごとを呟くから、隣にいる私の耳にまで入ってくる。
どうやら彼は、苦戦しているらしい。だが、私が手助けをする必要はない。
私と田中くんは、そんな間柄ではないからだ。
「相手に意識させるためのスキンシップだと……? なんだこれは。全然理解できないじゃないか」
盛大なひとりごと。周りに聞こえていないとでも思っているのだろうか。
頭を抱えて眉間にしわを寄せる彼は、どうやら難問と闘っているらしい。
「裏表紙に超簡単と書いてあったから買ったはいいが、全然簡単じゃないじゃないか」
まるで逆ギレとも言えるような声色で、ぶつぶつと文句をついた田中くん。
「フッ」
なんかおかしくて思わず、吹いてしまう。
ちら、一瞬田中くんがこちらを気にする素振りをするから慌てて自分の口を両手で抑えた。
笑ったなんて気づかれたら今すぐにでも抗議されかねない。
視線がぶつかったけれど、息を殺してその場をしのぐと田中くんは何事もなかったかのようにまた本へと集中する。
ホッと安堵して、肩の力を抜いた。
そしてまた視線を戻して彼を観察する。
よーく見てみると、今まで気づかなかったような仕草や言動におかしさを感じたりする。それはまるで、新しい生き物が発見されてありとあらゆる面から観察して新たな一面を知ってゆくときのわくわく感に少し似ている。
「田中、また難しい参考書でも買ったの?」
ふいに、クラス一の人気者である斎藤くんが彼に話しかける。相手を確認するように、ちら、と顔をあげる。うん、と頷くとまた本へと視線を戻す。
実はそれ参考書なんかじゃないんだよ、って教えてしまいたい衝動に駆られるけれど。ぐっと飲み込んで、二人の様子をちらちらと横目で伺った。
「田中でも分からないような難しいやつばかり載ってるの?」
「うん、すごく難しい」
「へえ。田中でも悩んだりするんだね」
「そりゃあ僕だって人間だからね。分からないことの一つや二つは当たり前さ」
本の正体を知っている私は、二人の会話が噛み合っていないことに気づく。そしてやっぱり笑いたくなってくる。
だって田中くんが悩んでいるのは参考書なんかではなく、恋愛マスターになるには、なのだから。と、田中くんの弱みを握った気分で優越感を感じていた私。
「田中でも分からない参考書かぁ。ちょっと見せてよ」
そう言うと、横からひょいと本を掴み上げて中身を確認すること数秒。
「え……?」
ブックカバーの中身を知った斎藤くんは、田中くんと本を交互に見つめた。そのときの表情はまるで、鳩に豆鉄砲を食らったような──だ。
それもそのはず。だって私も、そうなったから。
「……これ、田中のだよな?」
「そうだけど」
「え? …いや、まじで?」
「何かおかしいことでもあるのかい」
目を点にしたまま立ち尽くす斎藤くんとは対照的な彼、田中くんは、眼鏡の真ん中をくいっと持ち上げて顔色ひとつ変えずにいた。
「これ、蓮見さんのだったりする?」
突然、私の方を向いて尋ねる斎藤くん。
そりゃあそうなるのも分かるよ。だって田中くんが持っているはずのない本だもんね。だからといって私のでもないけれど。
「ううん、違うけど」
もちろん私は否定する。
「え、じゃあまじで田中の?」
「だから最初からそう言ってるじゃないか。それともなんだい。僕がこの本を持っていたらおかしい理由でもあるのかい?」
眼鏡をくいっと持ち上げて斎藤くんをじろりと見上げる。
「どう考えてもおかし……あ、いやべつにそういうわけじゃないけど……」
明らかにおかしい、と言いかけていやいや、と手を振って否定をする斎藤くんは、
「なんか意外だったっつーか……」
「意外?」
「田中がそういうのに興味があるなんて知らなかったし」
ぎこちなく言葉を紡ぎながら、ほら、と本を返すと、静かに受け取った田中くんは「あ」と思い出したように顔をあげる。
「べつに興味があるわけじゃないから。ただ、勉強の一環として読んでるだけ。だから誤解してもらわないでほしい」
本をまた開いてそこに目を落としながら淡々と告げる。
その圧に押されたのか「お、おお…」と苦笑いをした斎藤くん。クラス一人気者の彼が、誰かにいい負けたことがあるだろうか。
かっこよくて爽やかな顔が田中くんの言葉によって崩れたんだ。
「……まあ、頑張れよ」
「 ? ありがとう」
その場を離れた斎藤くんを、首を傾げながらしばらく目で追った田中くん。
「……今のはなんだったんだ」
困惑したように言葉を落としたあと、本に目を落とす。
斎藤くんは、いつも一緒にいる友人たちの輪に入って何事もなかったかのように楽しそうにおしゃべりをしていた。
ちら、と田中くんを見ると、また彼は真剣な眼差しで本を読んでいた。
私の方が気になって仕方ない。
だって。
「口止めしなくてよかったの?」
思わず、声がポツリと漏れる。その声に、え、と顔をあげた田中くん。
「どうして?」
「だって…他の人に言いふらされたりするかもしれないんだよ……?」
「べつに言われたからって困るようなこと僕には何もないよ」
優等生でガリ勉の田中くんが、参考書以外のものを読んでいたとなれば。しかもそれが、“恋愛マスターになるには”なんていう本だと知られたら、たちまに噂になりそうなのに。
──困るようなことは僕には何もない。
田中くんは、人からの評価を全く気にしないようだ。
何をしようがどうしようが、自分の意志を貫くような。後ろ指をさされるような行動はしていない、そう感じて。
彼はどれだけ強いんだろう、と思った。
「田中くんって強いんだね」
「僕が?」
「うん。すごく強そうに見える」
見た目はすごく地味でひ弱そうなのに、“強そう”だなんて不釣り合いすぎる。
対して私は、人からの評価を気にしすぎる。
ミジンコのように気が小さくて、だから、ちょっとしたことを気にしてしまう。
友人に対して思ったことを素直に伝えることができない。我慢して飲み込んで、衝突することを回避する。そうすることで自分を守っているのかもしれない。
自分の殻を破れずにいる。昔も、そして今も。
「蓮見さんの目はふし穴なんじゃない」
いつのまにか本を閉じていた田中くんは、ふいにそんなことを言う。その言葉で、自分の眉毛がぴくりと動くのを感じた。
「ふし穴……?」
「こんなにひ弱な僕を強そうだって? それこそありえない話だよ。もしそれを本気で言ったのなら一度眼科に行くことをおすすめするよ」
淡々と告げたあと、何事もなかったかのように「あ、今のうちにお花摘みに行こう」なんて平気な顔で言ってのける。
のそり、と立ち上がると、椅子をきっちりと押して直すと歩いて行った。
呆気にとられてポカンとしていた私だけれど。いやいやそれを使うのは女の子の方でしょ、と心の中で盛大にツッコミを入れた。
男の子は、雉を……なんだって。忘れた。もういいや。
田中くんってそんな冗談も言うんだ、となんか意外だと思った。
でも、そんなことよりも、
「……なんなのあれっ」
眼科に行くことをおすすめする? それって私の目が悪いとでも言いたいってこと?
そういう言い方を直せばいいのに。
ふつふつと湧き上がるイラだちをどこへぶつければいいのやら。
こんなことなら気を遣って声なんかかけなければよかった、そう後悔せずにはいられなかったんだ。
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