第6話 恋愛マスターになるには
◇
今日の休み時間、田中くんは教科書とノートを机の上に広げていた。
そして、買ったばかりであろうブックカバーが付いた本を、いつになく真剣な表情で読んでいた。
ちら、と気づかれないようにそれを盗み見すると、難しそうな活字ばかりが並べられているようだ。
それを見ていると、本人よりも私の方が眉間にしわを寄せてしまいそうで思わず目を細める。
「あのさ」
突然、右側から声がする。予想だにしていなかったせいで、視線がふいにぶつかった。その瞬間、へ、と気の抜けた声が漏れる。
「これ、どういう意味か分かる?」
本を私のそばへと寄せると、その中に指をさした。パッと見、活字ばかりが並んでいる。
「いや、それ……田中くんが分からないなら私が分かるはずないじゃん……」
クラス一優等生の、学年一位二位を争う田中くんが分からないなら、もはや私に聞いたって無駄なことなのに。
それともこれは新手の嫌がらせか何かだろうか。
昨日、私が言い返したことに腹を立てて、その仕返しだろうか。
「こういうのは僕より蓮見さんの方が得意分野かなって思って」
「え、っと……?」
得意分野? 益々、言っている意味が分からない。
「とにかく一度ここ読んでみて」
さらに本を突き出されるから、受け取らないわけにはいかなくて。渋々本を受け取ると、指をさされた文を読むことにした。
えーっと。
『胸がどきどきしたり苦しくなったり、時には意味もなく泣きたくなったり、特定の相手のことを好きだと感じ、大切に思ったり、一緒にいたいと思う感情が現れたらそれはもう恋だ』
並べられている活字は、難しいものなんかではなく、なぜか「恋」と書かれていた。
「え、ちょっと待って……」
困惑しながらブックカバーを外すと、背表紙には『恋愛マスターになるには』そう書かれていた。
田中くんへと視線を向けると、彼はあいかわらず顔色ひとつ変えずにいた。
「これ、どうしたの……?」
おずおず尋ねてみれば、ああ、と眼鏡の真ん中をくいっと持ち上げながら、
「昨日、近所の本屋に行って参考書買うついでに見てみたんだ。意外とこういう本って高いんだね。千二百円もしたよ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
どうしよう、話が噛み合っていない。
近くにクラスメイトが通るから、慌ててブックカバーを付け直す。これが私のだと思われたら嫌だから。
「これ、自分で買ったの?」
「ん? ああ、うん。昨日、蓮見さんが言ってたから、試しに買ってみた」
「えっ……?」
私が言ったから買った?
うそだ、信じられない。
優等生の田中くんが、本屋に寄って参考書以外のものを買うだなんて……
「それで、その文の意味分かる?」
私が困惑する間にも田中くんは、冷静沈着に事を運ぶ。頭が追いつきそうになかった私は、
「あ、う、うん……?」
素っ頓狂な声が漏れる。
つい数分前に田中くんが言った言葉が手繰り寄せられる。
『こういうのは僕より蓮見さんの方が得意分野かなって思って』
──なるほど確かに、そう思った。
でも、背表紙に『恋愛マスターになるには』って書いてあった。
まるで私とは大違い。
だって、それもそのはず。
「……言っとくけど私、恋が成就したこと一度もないんだけど……」
私が教えられるとは到底思えない。
「僕よりは、分かるでしょ」
「そりゃ、そう、だけど……」
「だったら教えてよ」
男子が女子に恋愛について尋ねるだなんて、聞いたことないけれど。ふつうなら恥ずかしいし。
でも、田中くんの場合常識から外れるみたい。だから、みんなと同じだと思っちゃダメなんだ。
優等生の田中くんが私を頼ってくれている。
そんなことに立場が好転しているように思えて、
「仕方ないなぁ……」
少し優越感を感じた。
本の中の文を読み解いて、自分なりに言葉を考えたあと。
「恋っていうのは、その人と目が合っただけでどきどきして嬉しくなったり、でも胸が苦しくなったり、意味もなく泣きたくなるときもあるの。まあ、好きだからこそなんだけど。その人のことを考えるだけで心が動くっていうのかな? ……そう感じたら、もう恋ってこと」
一気にしゃべりすぎたかな、と気になった私は田中くんの方を、ちら、と見た。
「うーん……」
腕組みをして眉間にしわを寄せて考えていた田中くんがいた。どうやら、まだ理解できていないらしい。
私の言葉のチョイスがいまいちだったのかな、とまた本へ目を落とす。
なんて説明してあげたら分かりやすいんだろう。
「恋のどきどきってどんな感じなの?」
小さな呟きが右側から聞こえてきて顔をあげる。田中くんは、腕組みをしたまま私を見つめていた。
「え、どんな感じ……」
「うん。だってどきどきって鼓動の音なんだよね? それなら普段も鳴ってるけど。それがいつどうやって恋のどきどきだって分かるの?」
真剣な表情でそんなことを尋ねられるから、これは一体何の時間なのだろう、と一瞬分からなくなる。
まさか、また聞き返されることになるとは思っていなくて言葉を用意していなかった私は、えーっとだから、と言葉に詰まらせて、
「……その人を見ると胸がぎゅーっとなるっていうか、胸が苦しくなるっていうか」
「苦しくなる? それってなにかの病気なんじゃない?」
「え? えー……と…」
恋のどきどきや苦しみを、病気と勘違いするなんて田中くんらしいっちゃらしい。
いやでも、例えとするなら合ってるのかな。
「……まあ、恋は病気みたいなものかもね」
「ええっ、やっぱり病気なの?」
椅子にのけ反りそうなほど過剰に反応するから、なんかおかしくって。
「いや、だから例えばの話だから」
思わず苦笑いをしてしまう。
なんか田中くんって勉強以外のことになると、トンチンカンになるというか、抜けてる要素が多い気がする。
そんな彼は「あ、ああ…」と納得すると、動揺を隠すように眼鏡の真ん中をくいっと押し上げた。
「じゃー、はい」
本をパタンっと閉じて返そうとすると、「ちょっと待って」と手で本を押し返される。
その瞬間、わずかに指先が触れて小さく胸がどきっとする。
まるで漫画の世界の一コマのように、これで恋が始まってゆくんだろうけれど。
私と田中くんの間に、そんなことがあるはずない。
「まだ何か……?」
もうさすがに嫌気がさして、眉間にしわを寄せる。
「あと、もう一つあるんだ!」
私へと身体ごと向けると、本を私の手から取ると、ぱらぱら、とページをめくる。
しばらくめくったあと「あったあった」と声を漏らしながら、それを私に向けた。
つまりそれは、見ろ、ってことであって。
「……な、なんだよ」
じろ、と睨みを効かせると、おどけた彼の瞳が揺れる。
なんだか私、いいように利用されているようでならない。けれど、こうなったのは私が昨日あんなことを言ってしまったせいだから。
昨日の自分に少しイラ立ちながら、何も言わずに渋々本を受け取ると内容を確認する。
「それで今度はどれ?」
「……あっ、ここ! ここ読んでみて」
ページの真ん中あたりに指をさすから、おのずと距離が近くなる。
レンズ越しに見える瞳が、色素が薄くて綺麗に見えた。おまけにまつ毛は長くて。
「──蓮見さん?」
名前を呼ばれて、へ、と声が上擦った。
「今、ぼーっとしてたけど…」
「な、なんでもない」
あまりの顔の近さに、ぶつかった視線をわざとらしく逸らす。
田中くんごときに動揺するなんて、らしくない。ごとき、って言い方は失礼かもしれないけれど。
きっと距離が近すぎたせいだ。
べつに田中くん自身に動揺したわけじゃない。
やめやめ、と頭に浮かんだ変な感情を掻き消して本の中へと戻った。
『恋には、駆け引きが大事です。押してばかりではうまくいきません。たまには引くのも忘れずに。そしたら相手は追いかけてきてくれます。そしたらチャンスです』
……ふむふむ、なるほど。田中くんが分からないといったのは、おそらくこの“駆け引き”なのだろう。
だが、私もやったことはない。
なぜならば、恋は一度だってうまくいってないのだから。
人を好きになることはあっても、恋に奥手な私は自分から動くことができない。駆け引きなんていう高度な技を使用したことだってないし。
そもそも私がやったところで効果があるとも思えない。
「あの、蓮見さん……?」
覗き込むようにこちらを見るから、またレンズ越しの瞳とぶつかった。まじまじと見たことはなかったけれど、やっぱり綺麗だ。
優等生でガリ勉の田中くんにそんなこと思うのは、おかしくって。いやいや、と首を振ってかき消した。
「えーっと、なんだっけ」
一瞬頭がフリーズして、なんの話をしていたか曖昧になる。
「だからここの文も読み解いてほしいんだけど」
そう言うと、私が持っている本の中にまた指をさす。ああそうだった、と思い出し、頭の中にある引き出しをあちこち開けて言葉を選ぶ。
合っているかどうかは定かではなかったが。
「駆け引きっていうのは、アプローチのこと。押しすぎても、引きすぎても恋愛はうまくいかないの。逆に失敗したりするからね。相手を迷わせたりするのはダメ。まあ簡単に言うと、押してダメなら引いてみろ、ってこと。ほら、よく言うでしょ?」
「いや、よくは言わないけど……」
「そんな屁理屈はいいの。そこはよく言うねって頷いてくれればいいの」
聞いてきたのはそっちなんだから、黙って聞いてよね。
まあ実際、私は駆け引きなんてしたことないからそれをしてみて成功するかどうかなんて分からないけれど。
「蓮見さんは、試してみたことあるの?」
まじまじと見つめられる。
いや、そんな純粋に聞かれても困る。
「……ないけど」
なんか田中くんに聞かれると、かちんとくる。
べつに本気で怒っているつもりはないけれど。
「な、なんでそんな睨むんだよ……っ」
怖気付く田中くんは、腕を顔の前にかざす。
私が暴力でもふりそうな顔に見えたのだろうか。顔を守っているように見えた。
「ちょっと田中くんがイラっとしたのかも」
「え、僕に? 今、何かイラつかせるようなこと言ったか……?」
レンズの奥の瞳がゆらゆらと動く。動揺しているように見えた。
「……うん、田中くんはそうだよね」
やっぱり、気づくはずがない。
なんていったって優等生でガリ勉の田中くん。
勉強以外のことには全く興味がなくて、自分が言った言葉で相手を逆撫でするなんて気づきもしない。
特に人間関係は、欠点ばかり。
「もういい?」
「え、あ、うん。ありがとう」
田中くんに本を返す。
どうして私が苦手な田中くんに、恋愛について教えてあげなければならないの。
あー、もう。昨日私があんなことを言ったせいだ。
いや、きっとそれ以前の問題で。だとするならば、やっぱりインチキ神様が赤い糸を結んだせいに違いない。──そう思わずにはいられなかった。
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