第3話 隣の席の田中くん


 ◇


神様と名乗る人物と、不思議な出会いをしたあれから数日後。


 私の生活にも変化が起きた。それは、今まで意識することもなかった相手──隣の席の田中くんを観察するようになったこと。


 もちろん本人には、気づかれないように。


 本名は田中英治。クラス一の優等生で、なんなら学年で一位二位を争うほどに頭が良く、勉強以外のことをしている姿なんて今まで見たことがない。というか、それ以外のことは何も知らない。


 綺麗に揃えられた襟足に前髪は、規則に引っかかるはずがないくらいの長さ。一度も染めたことがないと主張するくらいに黒髪で、艶があり手触りがよさそう。


 シャツなんて第一ボタンまでしっかりと閉めていて、不要なものは一切身につけていない。黒縁のメガネがチャームポイントの彼は、見るからに優等生を“具現化”したようなものだった。


 優等生と聞けば爽やかだったりかっこいい人を連想するだろうけれど、実際の彼はどちらかというと地味な方で。


 ──つまりは、ガリ勉というやつだ。


 そんな彼が、まさか私の運命の人だなんて今思い出しても信じられない。


 それともあの神様、私に嘘をついただけとか? ……あり得る。すごくあり得る。あの胡散臭い神様のことだ。


でも、あの胡散臭い神様の証言を裏付けてしまうようなことがつい最近、起こった。

 それは、席替えでのこと。まさかの隣同士になってしまったのだ。


 神様のお告げがあったのは、一週間ほど前の話だ。こんなタイミングで席が隣同士になってしまうなんて偶然なのだろうか。それともあの神様の仕業?


 もちろん田中くんとは、ほとんど会話らしいものをしたことがない。しいて言うなら、よろしくね、と自己紹介をしたくらい。


 だって特に話すことだってないんだもん。

優等生である田中くんは、勉強以外のことなんて頭になくて、私のことを見下して見ているに違いない。なんなら私だけじゃなく、このクラス全員を。

田中くんがクラスメイトと仲良さそうに話している姿なんて見たことないもん。友達とかもいなさそう。


そして彼が運命の人だと告げられて、数日。

これは何かの間違いなんじゃないかと思ってならない私は、気がつけば田中くんを見つめることが多くなった。


ふいに、ノートから視線を外した田中くんが、私の方へと顔を向ける。その瞬間、視線がぶつかって、思わずギョッとする。


「あのさ……僕の顔に何かついてる?」


ずーっと彼を観察していた私を怪しんだ田中くんは、顔色ひとつ変えることなく真っ直ぐ見つめて言い放つ。


 しまった、そう思ってもすでに遅く、嫌な汗が背中を流れる。


「いや、何もついてないけど……」


 まさか観察に気づかれるとは思っていなくて、言葉に詰まってしまう。動揺して、目線が落ち着かない私。


こんなの言えない。言えるわけないよ。


 だってまさか田中くんが運命の人なんだって、なんてことは絶対に言えないし。ていうか私まだそれ信じたくもない。


 そもそもあの神様が本物だったのかなんてのも怪しいもん。自分だけがそう思い込んでいるだけで、証拠はなにひとつ……いやでも空に浮いていたのはたしかだし……。


 ううん、きっと、あれにもタネがあるはず。手品のようなタネが。


 ──『普段は赤い糸見えないから安心するんだな』


 神様が、言い残してたことを思い出す。


 それもニヤッとしたような表情付きで。


 いちいち上から目線なのとか嫌味っぽい言い方が気になるけれど……


 たしかに今は、薬指に赤い糸は見えなかった。もちろん田中くんにも。

 もし仮に見えていたとしたら、今隣にいる田中くんの薬指と繋がっていたりするのかな。

そう考えるだけで身震いした。


「じゃあ何で見てたの?」

「べ、勉強頑張ってるなぁと思って……」


それ以外に誤魔化す言葉が見当たらなかった。すると、「ふーん」とメガネの真ん中をくいっと持ち上げる田中くん。


「いい高校に入学したからには勉強頑張らないといけないから当然のことだよ」


皮肉にもとれるその言葉を聞いて、やっぱり田中くんとは合わなそうだ、と納得する。


 確かにこの高校は、地元ではわりと頭が良いと有名で。隣町からやって来る生徒もいるらしい。

 けれど、それは特進科であって私たちがいる普通科ではない。それなのにどうして田中くんは特進科じゃなかったんだろう。


「蓮見さんは、勉強してなさそうだよね」

「う……だってあんまり勉強好きじゃないし…」


聞くタイミングを逃してしまって、田中くんが普通科に通う理由を聞けなかった。


 いやまあ、べつにそこまで気になるほどでもないからいいんだけれど。


 ……ていうかなに、今の。“勉強してなさそうだよね”って。まるで私が、バカとでも言いたそうな表情。


「それにいつも休み時間とか話したりお菓子食べたりしてるよね」


 指摘されて、ムッとした私は。


「べ、べつにいいでしょ。私の自由なんだから」


子供のようにムキになって言い返す。


 休み時間に誰がどう過ごそうが田中くんには関係ないじゃん。田中くんに迷惑かけてないわけだし。


そんなことよりも席が離れていた私の、休み時間の使い方を知っているなんて、まさか私のことを見てたとか?


 ……なんてそんなはずないっか。考えすぎだよね。


「うん、まあそうだけど、もったいないなと思っただけ。人間いろんな人がいて当たり前だけど、蓮見さんは危機感とか持ってないの?」


 田中くんの口から発せられる言葉にカチンときたけれど、グッと堪える。


「……危機感って何?」

「いい高校に入学したからには点数落とさないように頑張ろうとか、次のテスト赤点取らないようにしようとか」


淡々と告げられて、一瞬何のことを言われたのか分からなかった。


 けれど、“赤点”という田中くんの口からはありえない言葉が飛び出して、ピンときた。


「もしかしてこの前のテスト見たの?!」


一ヶ月ほど前にあったテストで私は、赤点を取ってしまった。全教科ではなく数学と地理だけだけれど。

 そりゃあ田中くんとは違って全然勉強してないし点数は低いけれど、それでも平均点は超えている教科だってあるし。


「人聞きの悪いこと言わないでくれる? 僕だってべつに見たくて見たわけじゃないから」


ほら、こういうところ。上から目線の言い方がいちいち気になって仕方ない。


 もうちょっとオブラートに包むとか、言葉を選んでもらいたいものだけれど、それを田中くんに求めるのはきっと間違っている。


 だって、人間関係に欠点がありそうだし。今だってそう。私の方がイライラしている。


 だから、我慢しているのもバカらしく思って。


「田中くんは、一言余計だよね。そんなんだから友達いないんだよ」


売り言葉に買い言葉で言い返す。


 すると、今まで表情ひとつ変えなかった田中くんの表情が曇る。


「それ、今関係ある?」

「ないけど……最初に余計なこと言い出したの田中くんの方じゃん」

「僕が何を言ったと言うんだい」


相手を怒らせたことなんて気づいていない。分からなくて当然なんだろう。だって、田中くんは言葉を選んでしゃべらないから。

思ったことを素直に言ってしまうんだろう。


 それが相手の逆鱗に触れているとも知らずに。


「……気づいてないならべつにいいよ」


それを今さら蒸し返したところで、田中くんが改心してくれるとも思わないし。なんなら『怒らせてるつもりなんてない』なんて言い出しそうだもん。


 これ以上言い合いをしたところで時間の無駄だ。


「ちょっと待ってくれ。僕はまだ全然分からないんだけど。一人で勝手に話を終えるのはやめてくれ」


……やめてくれ、って言われても。


「どうせ言っても変わらないし」


田中くんは、全部自分のことが正しいとでも思ってるんじゃないのかな。


 だからいつもそうやって上から目線な物言いで周囲を激怒させる。それを本人が気づいていないならなおさらのこと。


 それなのに「あのさ」と言いかけた田中くんは、


「話の途中に言いかけて一方的にやめるそれって一体何なの。蓮見さんもそうだけど、みんなもそうだよね。それ、僕からすれば気分が悪いんだよね」


自分のことは棚に上げて、私を責めたような言葉を告げる。


 どうして私が責められるのだろうか。全然、納得できない。

 第一、私をイラつかせているのは他ならぬ田中くん自身に問題があるというのに。


「田中くんがそうだからじゃないかな」


だから、私は、あえて言葉に含みを持たせた。

 言うなれば、ちょっとした仕返し。小さな意地悪みたいなものだ。

そしたら、眉間にしわを寄せた田中くん。


「……もういいや」


何を言われているのかさっぱり分からないといった表情をした。どうやら深掘りするのを諦めたらしい。それか私のことを呆れたのか。べつにそれでよかった。だって田中くんと仲良くするつもりなんてなかったし。


 神様があんなこと言ったから少し気になっただけ。それ以上でもそれ以下でもない。


 田中くんは、何事もなかったかのようにシャープペンシルを持つと教科書を見ながらノートに何か書き始める。予習をしているのか、復習をしているのか。いや、田中くんのことだから前回の勉強をまたするってことはないか。


「ねえ」


話しかけるつもりなんてなかったのに、勉強をする田中くんの横顔を見ていたら無意識に声をかけてしまう。


 けれど、田中くんは返事をすることもなければこちらを見る気もないらしい。

 時間の無駄とでも言いたげに、一切私のことを気にする素振りは見せなかった。


田中くんの横顔は、さっきより少しだけ険しく見えた。

 それは私がそうさせてしまったのだろうか。


 でも、私だって同じだ。少し話しただけでもやもやとイライラが両方お腹の中で渦巻いている。


 ……ああ、やっぱり苦手だ。

優等生の田中くんは何を考えてるのか全然分からない。

 勉強ばかりして、人と関わろうともしない。誰かと話している姿だって見たことない。


 こんな人が私の運命の人だなんて、きっと何かの間違いに違いない。

あの神様は、インチキをしたんだ。嘘をついただけ。絶対に。だってそうとしか考えられないよ。


 ──私が田中くんを好きになるはずなんかない。


 もやもやした感情をかき消すように、机に突っ伏して目を閉じた。



 ***



「ねー、香織。なんか今日イラついてない?」


 お昼休みになり、いつもいる親友たちとお弁当を食べているとき、突然そんなことを尋ねられて、え、とお箸が止まる。


 自分ではイライラを表に出しているつもりはないのに、そんなふうに見えるんだ。


「イラついて見える?」


そう尋ねると、二人が顔を見合わせたあと、「見えるよー」と返事をする。


イラついているなら、その理由はひとつしかない。

 数時間前に田中くんとした会話に原因があった。思い出すだけでも、おへその真上あたりがもやっとする。


「もしかして、席が田中くんの隣だからじゃない?」


親友のうちの一人がポンっと手を叩いて閃いたような声をあげた。


「いや、それは関係ないんじゃないかな」


 すぐ近くに田中くんがいるから私は気を遣って否定するけれど、


「絶対そうだよ!」


 声のボリュームを抑えることなくしゃべりだすから、私の方がヒヤヒヤする。


「田中くんってさぁ、何考えてるかほんとに分からないよねえー」

「うんうん。それに、勉強ばっかりしかしてないから友達だっていなさそうだし。いーっつも机に向き合ってるもんね」


 私そっちのけで話が飛躍していくから、どんどん追いつけなくなる。


 やばい、そう思って田中くんがいる席をちらっと見ると、ぶつかった視線に、思わずどきっとする。


「ねー、香織」


親友に呼ばれて、慌てて目を逸らす。


 それなのに真っ直ぐ視線が突き刺さるような気がする。のは、きっと気のせいなんかじゃない。


 けれど、私はそれに気づかないフリをしながら、


「な、なに…」

「だからぁ、隣の席が田中くんだからイライラしちゃうんじゃない?」


隣の席がどうとか、そういうわけじゃなくて。さっき田中くんに言われた言葉にカチンときているだけなのに。


「……いや、だから」


それでも必死に否定しようと試みるが、言葉に詰まって言い返せない。


 どうして素直に答えることができないのかな。何が引っかかるんだろう。


 ──『きみの運命の人は、同じクラスの隣の席の田中というやつだ』


 うん。やっぱり、インチキ神様が告げた言葉が引っかかっているんだ。それでいつも以上に田中くんを意識してしまっているからなのかな。田中くん自身に、じゃなくて神様の言葉に意識してるのかも。


だって、今までは田中くんのことなんか同じクラスメイトくらいにしか思っていなかったのに、数日前から『運命の人』として私の頭の中にインプットされてしまったわけだし。


 もちろんそんなことを信じているつもりはない。だって、あの神様って人も本物なのかどうかまだ分からないし。ていうかそもそも神様って見えないのが普通じゃん。それなのに姿を現すなんて、きっとあの人はあの神社を有名にしたくて仮装しているだけなのかも。


「私だったらイライラしちゃうなぁ」

「私も。だって、なーんかいつも上から目線だし。きっとうちらのこと見下してるんだよ」

「ちょ、ちょっと、もうその話は……」


いくら田中くんにイラついていても、二人のようにボリュームを気にせず言っちゃうのはさすがに気が引ける。それに、人の悪口で盛り上がるのもなんか嫌だし。


「香織だってさっきイライラしてたじゃん。いい人のフリしてないで全部ぶちまけちゃえよー」


 そんなことなどつゆ知らず、そーそー、とテンションが上がったように笑う二人。


 ……なに、いい人のフリって。二人に私はそんなふうに見えてるの?

 そりゃあね、いい人でないと思うけれど、それを他人に指摘されるのはなんか傷つく。


それに同じ教室で食べてるんだから、聞こえないはずはないし。教室は騒がしいけれど、こんな大きな声で言ってたら聞こえるよ。


 実際に田中くんは、こっちを見ていたわけだし。それに気づいてないのは二人だけ。


 多分聞かれてるよね、全部。


「ねえ、もう少し声のボリューム……」


 それなのに私は二人を止めることができない。二人の耳に私の声が届いていないみたいに話すことをやめない。


 元々私は、自分の気持ちをオープンに伝えるのが得意ではない。

 そして自分の気持ちを伝えても、正しいとは受け取られないときがあることも知っている。


 人間束になって弱い人をいじめる世界。


 なんて矛盾した世界なんだろう。


 過去にそういうことを経験したことがある。

 だからいつも自分の言葉を飲み込むの。そしてすぐに後悔するの。


「勉強よりもっと大事なことあるのにね! きっと人生の半分くらい損してるんじゃない」

「あー、分かる分かる! 勉強より大事なのは恋だよね、恋!」


田中くんがどうとか、二人にはもう関係ないらしかった。

 だってそれくらい話題が切り替わっていくから。流れてゆく川の水のように。


「高校生に必要なのは、なんといっても恋愛だよねー!」


会話に花を咲かせる二人。


 田中くんがこの会話を聞いていたら、きっとくだらない、と一喝するだろう。優等生の田中くんのことだ。きっとそう。


「ねー、それよりさぁ、あの告白どうだったの?」


なんの脈絡もなく告げられた言葉に、え、と掴みかけていた卵焼きがお箸から離れてお弁当箱へ逆戻りする。


 動揺を隠せなかった私は、身体がカチンと固まる。


「そうだそうだ。この前言ってたよね、告白しようかなぁって!」


つい数秒前まで楽しそうに自分たちの会話に花を咲かせていたのに、今度は私の話題に切り替わる。しかもこんなクラスの真ん中で。


 ……ああもう最悪、と一気に居心地が悪くなる。恥ずかしくて、悔しくてたまらない。


 そんなことお構いなしに、


「ねーねー、聞いてる?」


 と私の肩を揺さぶった。


「え、っと……」


 言葉に詰まった私は、二人の視線から逃げるように瞬きを繰り返したあと、親友たちの向こう側にいる田中くんと視線がぶつかった。


 けれど、いたたまれなかった私は、また目を逸らす。どうせ私のことを憐れんでるに違いない。だって田中くんのことだ。勉強よりも大事なものなんてない。


 恋愛なんて、くだらない。


 どうせ、そう思っているに違いない。


 でも、守りたかった。


「告白は、やっぱりやめたの!」


私にとっては大切な思い出だったから。

 それを二人に汚されるわけにはいかない。


「え、やめた? できなかったの?」

「そうじゃなくて……なんか、そこまで好きじゃなかったみたいで……」


そんなわけない。ずっと好きだったんだ。


 けれど、その思いをこんな場所で言ってしまうのが恥ずかしくてできなかった私は、自分の気持ちに嘘をつく。


「えー、そうなの? でも半年も片想いしてたんでしょ?」

「そうだよ。もったいないよ! せめて告白してみたら?」


二人は、多分私のためにアドバイスをくれているだけ。でもそれが今は、苦しくて仕方なかった。


 松田くんに彼女がいることを知らない。私も、数日前に初めて知ったばかりだ。


 そんなことを言ってしまえば次に大きな声で言うのは、私が失恋したこと、だろう。

この狭い教室でこんなに大きな声でそれを言われたら、たちまち私の失恋は広まってしまう。


 最悪、松田くんの耳にも噂が入ってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。


「なんか、ただの憧れだったみたい。……だからね、ほんとにもういいんだ! 二人ともごめんね!」


必死に笑顔を浮かべて、笑う。

けれど、心はキリキリと痛かった。


嘘をついた罪悪感、失恋をした消失感や絶望。そんな感情を飲み込むと、溝落ちあたりにポツンと落ちる。そこがズキズキと痛んでくる。


 二人から逃げるように目線を下げると、卵焼きを口の中に詰め込んだ。


「香織がそれでいいならうちらは何も言わないけどさ。何かあったら相談してよ?」

「そうだよ。事後報告とかじゃなくて今度はちゃんと前もって相談してよね」


二人の言葉に私は、うん、と小さく頷くことしかできなかった。


あーあ。

……なんか、悲しくて泣きたくなる。


 せっかくさっきまでほとんど過去のものにしていたのに、二人が掘り返すからまた思い出しちゃった。


 私、ほんとに失恋しちゃったんだよね。

またつらい現実と向き合うことになって、二重に苦しかった。


けれど、そんなことよりも二人がTPOも考えずに教室でしゃべるから居心地がとにかく悪かった。


 クラスメイトからの視線をかすかに感じた。その大半は、憐れみが占めているようで。

そのせいで数日前の失恋の傷が開いたように感じたんだ。

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