裏庭日記/孤独のわけまえ

中田満帆

第2話 汚れた血



 山口中学校にあがった。公立中学だ。貧しくあらっぽいひとびとでいっぱいのなかに校区はあった。落書きから婦女暴行、工事現場を荒らすのがやつらの流行りだった。薄汚い男や女。耳慣れない言葉づかい。なにもかもいけすかなかった。うしろには長陸というやつ。隣は前田美香という陰険な女がいた。おれは早々からかわれ、ぶ厚い唇を揶揄された。矢吹丈のスウェーバックをまねしてた。どうしてだかおもいだせない。おれは図書室にいこうとした。そのとき胸板のある男と眼があった。拳の薫陶を受けた。不愉快だった。かれのなまえは知らない。なまえもないあらくれものが幾人もいる。

 入学生の看板を見たとき、驚いた。そこに友衣子のなまえがあった。かの女がこんなところに来るなんてとおもった。おれは7組で、1階にある。あとはみんな2階だ。どれぐらい会えるだろうか。おれはおもった。いつだったかスーパーマーケットで、中井龍之介とつれあいの中学生ふたりにつきまとわれたことがある。やつらはあざ笑った。「おまえは絶対8組にいく!──特殊学級やぞ!」──寸止めじゃないか。おれはさっそく嗤いものにされてしまったし、友衣子に出会すのもむつかしいとわかった。勉強にはもう着いていけないのがわかってる。

 かつて幼稚園で一緒だったやつらが、つきまといはじめた。どうしてかはわらない。かれらの悪態や挑発にはうんざりだった。みんながいっせいにつよく見せようと気取ってる。校庭の花をひきぬいてやつらに投げつけた。花壇を荒らしたとして訓戒を受けた。たいしたものじゃない。でも、カブラ・ペンを突きつけたあと、やつらの母親が飛んできた。「うちの子につきまとわないでくれ」──こういった不条理と友人になりつつあった。それも長い友人に。──なぜ?

 友だちがないということに気づいたのは科学館へいったときだ。だれも一緒に昼餉をとってくれるものがない。だれも声をかけくれない。みんながみんな、だれかとそいつをやってるあいだ、おれは恥ずかしくて、ひと気のない隅っこで喰った。小学生のときなら、だれかが声をかけてくれてた。ときには女の子ですら。じぶんがまったくの用なしだとわかった。透ですら声をかけてくれない。帰りのバスのなか、ふざけあうみなを横目におもった。どうしておれはひととおなじにできないのか。やがてその日の写真があがった。クラスでいちばんの女の子とおれが写った1枚があった。さっそく注文用紙に番号を書いた。けれども、その注文用紙は母がまちがって父の書類棚に置いた。気づいたときには受付は終わって、写真はけっきょく手に入らなかった。あるとき廊下から声がした。半分白人の女の子だ。

   ねえ、アレやって。

 そうせがまれた。南山真波だった。アレってなんのことだろう。まったく憶えがない、かの女はせがむ、残念ながら応えられなかった。かの女が去ってからしばらく、それが「カンガルーのボクシング」だと気づき、おれは臍をおもくそに噛んだ。



 廊下を歩いてた。おれの足がだれかの足に当たった。かるく謝った。かれはおれを便所へ連れ込んだ。相手はちょっとした顔役だったらしい。おれに眼鏡をはずさせると、平手をいっぱつ。くやしくなって睨むと平手をもういっぱつ。山田という細いからだ、細い眼の、蛇みたいな男だった。教室に帰ってしたたかに泣き、みずからの弱さを嘆いた。それを槇田や福島亜紀が蔑すんだ眼で眺める。田臥というやつが、おれをアルフと渾名しだした。アルフとは公共放送でやってたアメリカのコメディ・ドラマの主人公で、宇宙人だ。だれかをからかわずにはいられないやつばかりだ。そういう病気なのか?──それとも風土か?



 おれは美術部へ入った、4年ぶりの男子だった。4年まえまでは顧問は男だったらしい。デッサンは退屈だった。石膏像も好きになれない。女の子たちはみな、いかがわしい漫画本を持ってはしゃいでた。なにが藝術だ。ばか女どものズリネタなんかくそ喰らえ。そんなものでマチスの筆致がどうとか、クレーの色使いがなんていうのはよしてくれ!──顧問はずっと不在だった。技術指導もない、基礎知識を教えてくれるわけでもない。幸いなことにおれはすぐにそこを馘首になった。たったひとこと、クラスのからかい屋を「あいつらはくそだ」とだけ。日毎くりかえされるいやがらせにあきあきしてた。「ひとの悪口をいうひとはいりません」。顧問の老女がいった。これで幸せだ。おれはなにもいわずにでてった。しかし担任の三宅女史が黙ってなかった。おれを部に戻すべく歩きだした。ばかばかしい。おれはでていき、つぎの場所を探した。みんなが吹奏楽部へ誘った。朝も早くから練習とは気狂い沙汰にしか見えない。それに姉がいる。おれは帰宅部になった。ばかどもの面を見なくともいい。どっかの女の子がいった。

   なあ、ミツホは部活せぇへんの?

  おれがやりたいことがないよ。

   なに?

  軽音でもあったらな。

 みんなじぶんでなにかをしようとはしなかった。すでにできあがったなにかにしがみついてるだけだ。つまらない連中がつまらないヤンキーどもにあたまをなでてもらってた。おれはご免だった。それでもかれらはおれに拘ってた。片山というちびの双子が、河内という痘痕づらが、しつこくからんで来るようになった。そして夏、非行ものと精薄児で海にいくことになった。旅の内容もわからずに頷いてしまった。片山と河内の両方がいた。ハミゴだの、逆ギレなんてことをいわれた。どういう意味かわからない。おれはひとり小島をめざして泳いだ。水はどんどん深くなる。たどり着けるかが心細くなった。そしてついに助けてくれと叫んだ。岩場に立つ5人組の男がなにもいわずにいた。助けてくれ!──もう1度いった。やつらはうごかなかった。おれはなんとか岸についた。

   こっち、来んなよ。

   おまえ、どっかいけや。

 だれがおまえらなんかのところにいくものか。おれは水を吐き、しばらく岩のうえに坐った。もといた海岸は遠く、かすんでる。なんのためにここへおれは来たのか。けっきょく、ふたたび海に入った。そして最後まで泳ぎ切る。岩場で足の裏を切った。そのまま靴を穿いて宿にもどった。不良たちがおれの腕時計を毀してた。どうにでもなれとおもった。なんとばかなやつらか。帰りのバスで、片山のちびが、金のないやつは土産屋にはいるなといった。おれは金を家に忘れてきてた。おれはちびを無視して入り、つまらない商品を眺めた。家に帰った。おれのまわりには醜い連中が続々とあつまって来る。そしておれ自身、どうしようもなく愚かで、ぶかっこうだった。どうしたものか、わからないまま過ごした。


   *


 写真はおそらく

 時間のモチーフなんだろう

 現像し忘れたいまが

 古い記憶の紙束になって送られて来る

 

 かつてぼくは映画監督になりたかった

 そしてやみくもにカメラを回して

 歩きまわったよ


 あなたの時間をモチーフにして

 ポラロイドを撮った

 写っていたのは夜の鯨が

 陸で涼んでるところ


15/9/26


   *


 残りの夏はずっと穴を掘ってた。あるとき、2階まで上ってるときだ。踏み段代わりの仮板がはずれ、落下したおれは1階の砂利に叩きつけられた。おれがソファで痛みに耐えてると、父は薄笑いをにやにや浮かべ、ほかの仕事をいいつけた。この男はいかれてる、そうとしかいえなかった。父は地下室をつくりはじめる。まったくの手作業で。スコップと掘削機。たまに大きな岩にぶつかると、鎖で牽引し、とんでもない荒業でそいつを引き抜くことになる。いかれてる。とてもついていけるようなもんじゃない。おれは父の眼を盗んでさまざまなところで寝た。物置のなかや、林のなかでも。こんなことがいったいいつまでつづくのか、見当もつかない。どうやら父は吝嗇か、あるいはちゃちな幻想にでもかられて、重機や他者の手を使いたがらない。いったいどこに逃げ場がある?

 友衣子とは公智神社の夏祭りですれちがっただけだし、だんだんとかの女のことがぼやけてきてた。顔も声すらも忘れそうだ。おもったよりも出会すことがない。休みがやっと終わって、またからまれるようになった。双子の片山と皰づらの河内だ。体育祭でじゃまを仕掛けてきた。あるいは図書室の合同授業で、片山のひとりにおもいきり顔を撲られた。すさまじい右だった。そのとき懐いだしたのは、はじめて力石と出会い、撲られた矢吹そのものだった。そんなふうにして災難はずっとつづく。親にはなにもいわなかった。勉強ができないからだと父はいうだろう。母はあたらしい職をみつけたらしい。いつもいなかった。あるとき、職員室の帰りに2階へ寄った。かの女を求めて廊下を歩く。かの女が見えた。眼鏡をかけてる。そして義村と笑みを交わしてる。おれは妬心と、情けなさとともに地階へ降りた。かの女だけが問題じゃない。おれには女の子と話すなんてとんでもないことだった。

 秋口、山田が謝るようにいって来た。いったいなにを?──おれは応えなかった。掃除の時間、かれの手下がしつこくおれを呼びだした。おれはいかなかった。やがて2階から山田と片山、河内、そしてなまえのわからないやつが降りてきた。おれは通路にでてって、やつらに囲まれた。クラスの全員が窓から見てた。だれも助けようとしない。創世記にあるみたいに《たったひとりの神が血に飢えた狼と、か弱い子羊とをつくりだし、これ善しと観たまえり》ってわけだ。みんなおれがいたぶられるのを待ち望んでる。期待する眼がずらりとならんであった。

   あやまれや。

 山田がいった。

  どうして?

   おまえ、おれのことばかにしてるんやろうが。

  憶えがない。

   いまからあやまれや。

 おれは観衆に手をふりたかった。おれは大丈夫だって。でもそうじゃなかった。5人にかこまれ、観客に見られ、とても身動きはとれなかった。だれかおれを助けてくれ、だれでもいいから救ってくれ。

   どうしたんや?──謝れや。

  ああ、土下座してやるよ。

   土下座なんかいいから謝れや。

 そのときひとつの窓から女子がわめいた。──だれか先生呼んできて!──福島亜紀だった。ちゃらちゃらした女だとおもってたから意外だった。ほんとうはいい子なのかも知れない。でもかの女の声にはだれも応えなかった。時間がゆっくり動きだす。

  やっぱり謝らない。

   なんや、どういうつもりや?

 黙ったまま鉄の柵にもたれ、時間が経つのを待った。三宅が入ってきた。5人組みは慌てて去っていく。山田がくやしまぎれにおれの足を蹴った。力が入ってない。羞ずかしく、口惜しくてたまらず、それを上村透に告白した。「あいつらをやっつけたい!」。かれはペンケースからペーパーナイフをだした。

   これ、使えよ。   

   おれが貸したっていうなよ。

  わかってる。

 授業の終わりを見計らって、おれは山田の下っ端を狙った。やつの腿にナイフを突き上げる。「痛い!」。感触はない。おれはもういちど刺した。次は山田や河内の番だ。ぜったいに殺す。けれど意思はぼやけ、道は昏くなった。おれが刺した他丹という少年は医務室に運ばれてった。なにかがちがう。おれは教師に捕まった。そうして医務室へ、血まみれの脚で、他丹が横たわってる。かれの小柄なからだが寝台のいうえで藻掻いてた。床には血だまりができ、大量のティッシュ・ペーパーやナプキンのなかに坐ってる。柔道教師がいった、

   こんなやつがやったのか?

 おれは監視小屋に入れられた。マジックミラーがひとつある。やがて母が来て、担任と話しをはじめた。廊下から聞える声はうろたえてた。しばらくしておれはだされた。医務室ではまだ止血をしてた。怯えきった眼でかれがおれを見上げた。互いになにもいえなかった。創世記の神はもはやいない。夜の駐車場で、車に乗った。母が嗚咽した。

   ごめんね、わたしのせいで!  

 これはつまらない場面だ。三文芝居。おれが観たいのは無責任な観客たちが、みずからの生贄に喰われていくというさまだというのに、かれらはだれも痛みなど負わない。たがいの痴愚を礼讃しあうだけだ。またしても罠に嵌った。おれが見た女のなかで母ほど愚かなものはなかった。ひたすら自身の責務を回避し、愚痴を吐く。おれは母性など知らないし、どうだっていい。そんなもの知りたくもない。道。ただここから離れられればいい。


   *


苺の31音


 苺はそれ自体が詩だ

 最終バスみたいに

 きみが消えてしまう


 苺の31音はぼくには聞えないから

 ガンマイクとともに

 農夫の武田さんと

 一緒に録音

 するのさ


 甘く、すっぱい、つぶらな短歌をきみに届けたい

 でも手遅れ

 なぜなら苺をぜんぶ食べてしまったから

 31音はぼくのおなかのなか

 どうぞ耳を当ててくれ

17/3/21


   *


 父はそっけなかった。「刺した」という一語にも感ずるところはないみたいだった。話が済むとすぐに眠った。おれはしばらく謹慎になった。室に入って音楽をかけた。バッハの「主よ、ひとの望みと喜びを」だ。やってしまったことを考える。もし山田を狙えたら、どんなによかったろう。それが下っ端で、だれよりも弱い他丹なんて、これこそ恥だ。なんてことをしてしまったのか。これじゃあ、ただの弱いもの虐めでしかない。もっと強いものにむかうべきなのにおれは──もう考えるのもあきあきだった。また学校で珍獣扱いされるだろうし、かわいい女の子にはみなきらわれるだろう。おなじみのこと、いつものことだ。おれは台所にいって製菓用のブランデーをとった。ロックを2杯つくり、室で呑んだ。気分はわるくなかった。さらにロックで2杯呑む。なにもかもどうでもよくなった。酒こそがすべての答えになる日が来るかも知れない。こいつさえあれば怖いものもないときが来るだろう。柔らかい酔いのうちで笑いが零れて来る。父がひろってきた、汚い寝台に横たわり、眠った。

 おもったとおりのことになった。たちのわるいやつらがおれをからかいはじめた。ひとの痛みなんか、こいつらにはわからない。おれは期末試験までただ黙っておいた。ペーパー・ナイフを透に返した。成績ははじめから地に落ちてた。この世ではいちど踏み外せば、もはやまともな世界にもどることはできない。おれは成績表と全学年のテスト結果を改竄した。ふたつをスキャンし、数字を入れ替え、学年別の平均をさげた。そしてふるいコピー機にありがきなノイズをちりばめた。まさに傑作だった。それでも父にはすぐにばれてしまった。中学以降、父はいきなり勉強をといいだした。それまでほったらかしでなにもして来なかったというのに、学業についてかちわめく。子供のような大人だった。怒声を聴かせたところで、ものごとはわるくなる。子供の前頭葉は萎縮し、海馬は変形する。おれは音楽に引きずり込まれてった。ラジオを「ミュージック・スクエア」や「ライブ・ビート」にセットし、エア・チェックした。冬になって教育実習生が来た。すべて女だった。おれのクラスにはおれとおなじなまえの女があてがわれた。わるい冗談だ。クラスのみんながおれとかの女を笑った。憶えてるかぎり、かの女が声を発したことはない。肉の厚い顔に表情はなく、読みとれるものはなにもなかった。全校合唱会が迫ってた。友衣子のクラスは「あの素晴らしい愛をもう一度」だという。なんてちんぷな代物なんだ。斜に構え、おれはクラスメイトにいった。小山という秀才は耳をかさず、そのまま廊下を通り過ぎてった。おれはおそらく世界でいちばんのろくでないにちがいない。

 1月なかば、テアトル梅田までやって来たのに、なんだか怖気づいてしまってた。おれはまだ13歳。映画はR指定だ。いちばんめ、おれは失敗した。受付で15歳といったからだった。しばらくして雨が降りだした。おれはトレーナーを着、眼鏡をし、髪を濡らしてうしろに撫でつけた。われながらひどいかっこうだ。でも、これならいけるかも知れない。受付で学生証を忘れたといった。成功だ。

 映画は「ラブ&ポップ」。庵野秀明の作品で、女子高生の援助交際についてのものだった。きわどい場面もあった。特に浅野忠信が怒声をあげる場面は凄まじかった。おれは裕美が好きになった。きれいな映画だった。かの女の歌う、「あの素晴らしい愛をもう一度」が明るくもさみしさを感じさせた。なんとも名残惜しい作品だ。おれは映画を2度観た。2度めは透と義村とで川西池田まで遊びにいったあとだった。夜の最終上映にいった。母はかんかんだった。おれは村上龍を読みはじめた。

 おれも小説を書こうとおもった。それまで読んだ本といえば、乱歩の「怪人四十面相」、保坂展人「いじめの光景」、辻仁成「ピアニシモ」ぐらいだった。それでも書きたかった。まずは原稿用紙を買い、書き始めた。内容はといえば、ただの風景描写に過ぎない。絵はとっくに描かなくなってた。おれが書き溜めた原稿を父が検閲しただした。辞書から言葉をひろって書いてるだろう!──いさましい父上さまを演じてるつもりなのだろう。いわせておいた。ぼくは字がほとんど読めなかった。それでも辞書を引きながら本を読んだ。夜に読む本は、背徳のようで生きながらにして父や母を殺すみたいな愉しみがある。「限りなく透明に近いブルー」や「海の向こうで戦争が始まる」、「コインロッカーベビーズ」、「音楽の海岸」を読んだ。作品のために地図を書いたり、人物の服装を考えたりした。はじめに書いた作品では薬物遊びに突っ走っていく少年少女の話だった。父はそれを見てかんかんになった。おれは小説を書く。でもだからといってヒーローになれるわけじゃない。おれは音楽にもひかれた。でも楽器がない。歌詞を書いた。進級はあやうかった。ともかくこの世界からでるには表現が必要だ。だれかの命令で動かされたくはない。自由になるには、じぶんだけの方法が必要だ。なんでもいいから特別なものが欲しい。父にやらされてるみたいなことを大人になってもやるなんていやだ。人生に於ける付加価値がどうしても必要だ。おれはなんとしてでも、そいつを手に入れてみせる。たとえだれかがおれのせいで静かな血を流そうともだ。


   *

                     

 雨を聴く

 アルコールという月光液を呑みながら

 田村隆一の「1999」という詩集を捲りながら

 ぶざまな音節のなかで

 あらゆる過古の顔が

 抽斗から垂れてる

 ぼくはもしかしたらきみのことが好きかも知れない

 あんなにもぼくをいたぶったきみのことが忘れられない

 たしかにきみはひどいことした

 それでもきみのなまえを呼ぶ

 そして小説の登場人物にそのなまえをつける

 かの女はとても幸福そうで

 なにものにも穢れはしないだろう

 もしきみがそうであったなら

 いまいちど夢のなかで

 しけこもうじゃないか

 

18/10/23


   *


 おれは進級できた。またも7組。あたりを見渡す。担任は牛尾といった。息がつまりそうだった。柴という女生徒がきれだとおもったぐらいで、ほかになにもなかった。知ってるやつは、透、松尾、山村、そして漫画制作で一緒だった波河、長谷と尾下ぐらいだ。まえの席には長陸が坐ってる。やつはおれのまえでふんぞり返ってた。他丹は転校していなくなった。やつは孤児だった。施設からべつの学校に変わった。そのせいか、少しだけ長陸は窮屈そうだ。気持ちを発散させる仲間がいないせいかも知れない。ぼんやりとおもい、もはや聞く気にもなれない授業を受けてた。

   ミツホ、キッショー!

 こちらを見もせずにやつが叫んだ。だれも反応しない。なにもなかったみたいにまえを向いてる。

   死ねや、ミツホ!   

 おれは青ざめた。恥ずかしくおもった。怒りがすべてを充たす。すべての授業が終わるまでずっと、反撃のときを諜った。そいつは来なかった。おれにはなにもいえない。なにもできない。やつの口ぶりに反発も憶えたが、それ以上に頷かざるを獲なかった。たしかにおれは気色のわるいやつだ。自身でもそうおもってるというのに、その科白を退けようもない。ようやく終礼をやり過ごし、廊下にでた。だれもかも、なにごともなかったかのように歩く。そうして靴箱を過ぎ、玄関の廂をはなれ、おれは植え込みの縁に坐った。しばらくひとが過ぎるのを眺める。あまりに多くのものごとがわずらわしくおもえた。下級生の女の子がおれのところに来ていった。

   ごめんなさい。

  なにが?──かの女は微笑んでる。いたずらっぽく微笑んでる。みじかい髪、あたらしいスタイルの制服。なかなかどうして、そそる子じゃないか?──でもかの女のいってることがわからない。かの女はもういちどいう。──ごめんなさい。──なにを謝ってるんだ?──おれはあたりをみた。悪党気どりの同級生たちがおれを見て、へらへらと薄笑いを浮かべてる。またしてもばかにされてるんだ!──立ちあがるとあたりを一瞥し、歩き去った。またしても逃げを打った。おれは学校を休み、未明まで父からの打擲を受け、それを忘れるために昼まで眠った。おれは休み、その繰り返し。黴臭い寝台のうえで、おれはなにものかに祈ろうとした。架空の恋人や友人たちをおもった。どうやったらかれらの世界にいけるのだろうか。いつまでもこの世界との和解を求めてさまようしかないのか。幼馴染みたちは日増しによそよそしくなった。姉や妹たちだってそうだ。おれにはいけるところはない。金も仕事もない。それでも毎日休むわけにはいかなかった。母が父以上にやっかいな朝もあるからだ。室のガラス戸を破らんばかりに腕をふってわめきちらす。おれは坂本たちと学校へいくはめになる。そしてまたも息苦しさを味わう。あらゆる人間がおれを嗤い、なにもかも奪い去ってった。

 あの女の子を探そうともした。「ごめんなさい」の犯意を探ろうともした。下級生の群れのなかから、なんとか見つけられないかと歩きまわったが、けっきょくは諦めた。おれはふたたび絵を描くようになった。安いコピー用紙にペン画や鉛筆画を描き、長谷と尾下に見せた。かの女たちが気に入ればくれてやった。授業はとうについていけるものでないし、だれかと打ち解けるのもひどく怖い。──細長い男がおれに近づく。清潔そうなつらに、にやにやと卑しい笑みを浮かべて、

   おまえの噂は田臥から聞いてるよ。

  どんな?

   おまえ、あたまのおかしいガイジなんだってな!

 生徒会委員の中島だった。怒りと恥ずかしさでなにもいい返せない。やつは、にやにやにやにや。そのままほかのやつらの群れに失せてった。居心地がわるい。ここにはいたくない。あれが大人たちの望む子供なのか。おれはますます学校にいかなくなったし、朝帰りも多くなった。もはや母は心配などしてくなった。学校はほんとうにくだらなかった。木村真美という女がいちばんめの妹にいった、ミツホに似てなくてよかったねと。なぜこうも悪しき被造物につきあわされるのか。  


   *


 なにもかもが裏庭に放りだされてた。本も絵も画材もなにもかも。だれがやったのかを考える必要はなかった。なんども室を片づけろといって来た。おれには片づけ方がわからなかった。父はそれを侮辱と見做し、報復をとった。そいつがこれだ。しばらくして母が帰って来た。

   早く、片づけて。

 たったそれだけだ。気づかいもない。そういう女なんだ。土をかぶったものは、もうおれのものじゃない。漫画雑誌のうえでおれは踊った。やけくそになってすべてをふり棄てようとした。父はなにもいわなかった。父がおれのものを火に焚べる。それを聴きながら過した。その夜、おれは父のコンピュータを毀した。配線をぜんぶ切り、基盤に唾をした。もちろんただではすまない。おれは公園で過ごした。そのとき、いきなり父が突っ走って来た。

 「おまえ、やりやがったな!」──知ってたんだ、おれがここにいるのを。走った。坂を抜け、林に入り、森のなかに身を隠した。あんなやつは死んでしまえ。光り。殺されたって文句はいえない。呼吸を整えて、町まで歩いた。丘を越え、山をくだり、麓の林道から、国道にでた。光り。北インターまで歩いた。光り。寒かった。シャツいちまいで腕や顔を匿い、道路脇の農道で眠った。暗い。ちょうどコンクリートの水門が冷たいかぜから守ってくれた。朝になっておれは西脇へいくことにした。祖父母の家でとうぶん匿ってもらうつもりで。段ボールがいる。行き先を書かなきゃ。ちかくの工場から調達した。そしておれはヒッチ・ハイクをはじめた。乗せる気のないばかが「がんばれよ」ってほざいた。大きな運送トラックに乗っておれは西脇をめざした。ところが住所を知らなかった。祖父は友人の連帯保証人になった挙句、逃げられた。とうに屋敷を喪い、かれらはJRAの育成場にほどちかい、鄙びた2階家に棲んでる。なにもかもちいさい。集配所に着いたあと、運転手の老夫は弁当を喰わしてくれた。それから電話で1軒づつ、祖父母のうちを探してくれた。西脇には村上姓がやたらに多い。岡山に中田姓が多いみたいに。夕方、祖父がぼくを迎えに来た。かれらに手をふって、それっきり。



 いい天気だ

 ナックルボールを投げてみたくなる

 だれもない町でいつかかげが追って来る、

 そいつはきみのもの?

 ぼくのもの?


 ピーナッツ・バターを塗りすぎたトーストみたいに甘いものを滴らせながら

 大きく深呼吸する

たぶんぼくはたどり着いてしまったんだ、

 緑色の王国へ

 こんにちは

 おはようございます

 群生する蔦がビルディングを覆い、

 かすかにきみのために朝露を滴らせる


 

14/08/26


   *


 湖水を陽が照らす。わたしはもういちど、この村に来た。生きてるのか、死んでるのかもわからない男のためにできることがあるのか。もういちど確かめに来た。まずはフロスト伯父に会った。かれは猟銃会の古顔で、銃砲店をやっていた。客が来るような気配はない。わたしはそれとなくかれの生業を確かめた。ビル・フロストは予備保安官であり、金の多くはそこからだった。ロージーの事件のとき、やくざもののひとりを見つけだし、しばりあげたのもかれだという。ロージーはいまどんな暮らしをしてるのか、仕事は宿だけなのか、危なくはないのか。それらの問いにすべて答えなかった。つぎはハンクに当たることにして連絡先を訊く。

   おれたちを疑っているのか?

   警官の仕事を奪わないでくれよな?

 たしかにわたしのやれることではなかった。届けはもうだしてしまっている。しかし、7日が経っていた。わたしは車をだしてハンクの職場へむかった。村の図書館で働いてるということだ。昼だというのにやけに暗いところだ。廊下のカウチには死体のような老人どもが脚を伸ばして眠っていた。どうやらここも村の寄り合いでしかないようだ。ハンクが台車を押して歩くのが見えた。

  ブローティガンはあるか?

   生憎、ビートやそのへんはおいてないんだ。

それは残念。

   ふるい公衆道徳が赦さないんだ。──ぼくの室にならあるが。

  いや、いいんだ。

 ところで、とわたしはいった。あんたの伯父さんは保安官、ロージーについては黙秘している。滝田についちゃどうかわからないが、組織との癒着だって考えられる。あんたがたがロージーを守るために生贄を捧げたってね。──ふざけるんじゃない!──ハンクは台車を放りだしてわたしに掴みかかった。逆恨みもいい加減にしろといわれた。そうかも知れない。図書館を追われ、わたしは酒場にいった。冷えたビールと、スコッチがあればいい。小さな村だ。店主はわたしを知っていた。

   あんたか、仲間が消えたってのは。

  だれに聞いた?

   もちろんビルだ。

  おれが知りたいのはロージーの素性だ。

   よそものが訊いていいことじゃない。

  ビル伯父もそういったよ。だがそんなやり口じゃ、まるで隠しごとあるって宣伝してるようなもんだ。

   なあ、よそもの。おれたちの流儀をわかってくれ。

   みんなどっかに傷はある。それに女の子だ。赦してやっていいだろう。

責めるつもりはない。ただなにがあったのかを知りたい。

   勝手にしな、

   黄色いの。

 ラフロイグに口をつけ、ビールで舌を冷やした。どうしてこんなところにやってきたのか。道を撰んだのは滝田だった。だけどかれ自身が消えた。店にいるのはわたしだけだった。そろそろもどろうと立ちあがったとき、男が入ってきた。ひとりだ。若い。保安官助手らしかった。青い制服で、顎をしゃくった。「来てもらいたいんだ」。わたしたちはおもてへでてかれの車に乗った。エンジンは切ったまま。

   ここで消えてくれればなにもいわない。

  そうでなければ逮捕か?

   そうはいってない、国外退去ってとこだろう。

  わるいが友人を探してるんだ。

   もう死んでるかも知れない。

   血痕に大麻、そしてロージーだ。

   もしかしたら組織に連れられて熊の餌だ。

   ろくな死体さえ残らない。

  わたしはいずれこの国を発つ。──できることはぜんぶやらなくちゃ気が済まない。──組織はどこにある?

   狂ったか?

 かれは黙ってわたしの眼をみつめた。そして少しだけ口をゆがめ、歯を見せた。笑ったつもりのようだった。さて、わたしのほうも笑わなくてはいけなかった。歯をみせてやった。

   いいだろう、遠くから拝むだけだぞ。

 村の中心地から幾分南東へそれたあたりにちっぽけなモーテルが、売春宿があった。おそらく裏賭博に遣われてるだろう小屋もあった。色褪せた看板たち。そのなかに大きな映画館があった。そこがやつらの巣だった。

 どうやら「血に飢えた断末魔」を上映して以来、あいつらはここを根城に生きてるらしい。女を喰ったり、土地を転がしたり、違法労働者の派遣もそうだ。そして役人とはいい仲らしかった。

  ロージーはここで襲われたのか?

   そうだ。──でもじぶんからだった。

   兄を助けるだめだった。

 ふたりともことばを失くし、ただ坐っていた。無線のノイズのなかで田舎らしい事件の報せが聞えた。かっぱらい、飲酒運転、夫婦同士のいさかい、子供同士のいさかい、役人の失踪やなんか。やがてかれが車をだした。黙ったまま市街へ。あたらしい建築たち。そのひとつを指した。泊まるならあそこがいいだろう。──ばかな気は起こすなよ。あと1週間、猶予をやる。わたしは黙ったままホテルに入った。荷物を渡し、掃除夫にチップを与え、室にあがった。角部屋で大きな張り出し窓がある。ポーターにもチップをはずんだ。そして食事について考えていたとき、電話がなった。ハンクからだ。保安官助手から聞いたという。この町でうろつかないでくれといった。疲れきった声だ。わたしは喰い下がった。──あの映画館でなにがあったんだ?──電話は切れてしまった。

 わたしは町をうろついた。その果てのバーへいった。まるで街区から隔離されたように、なにもないところにひっそりとあった。店に入ってすぐわたしは少したじろいだ。どこを見ても黒人しかいない。かれら専用のバーだった。しかし、いまさらそとへでて長い道を歩く気にもなれず、カウンターに着いた。異物を視るかれらの眼。わたしはビールを頼んだ。つよい酒に頼っていいものか、まだわからないからだ。バーテンは気にしないという態度でビールをだした。そういえばこの町で黒人を見たのは、あの軽食屋以来だった。おれが2本めに入ったとき、若い男が声をかけて来た。

   どっから来たんだ?

  日本だ。

  旅烏って身の上さ。

   なにをしてる?

  絵を描いたり、ギターを弾いたりしてるよ。

   おれが聞いてる話とはちがうな、そういってかれは凄んだ。

   あんたはロージーのところから来たんだろ?

   もちろん問題があって。

  だれから聞いたんだ?

   削げ耳のギルからだ、このまえいったろ、あそこの軽食屋に。

  きみらの情報網は凄いな。

   話を逸らすんじゃねえ、あんたのためにいってるんだぜ、消えた仲間なんか忘れちまえ、さっさと帰りな。

 わたしは黙ってうなずいた。酒代をおいて立ちあがった。若い男も立ちあがった。わたしの耳に囁く。

   もしも、あんたが組織を狙ってるんなら手を貸すぜ、どうだい?

  生憎、そんなつもりはないよ。

  おれにはとてもできないさ。

   早く帰れよ。──その声を背で受け、ホテルまでの道程を辿った。どういうわけか、おなじ道をぐるぐる迂回していたようだった。やがて淡雪が降り染める。──いったい、ここはどこなんだ?


 ピクニックでずっと

  ぼくは女の子たちといる


 男の遊び方がわからなかった

  ぼくは6歳

 

 やがてなにもかもに締めだされ

  フォール・アウト


 中空にさまざまなかたちの動物たちが

  パンチ・アウトされる


 悲しいね

  もうだれもいない


 愛を教えてもらえないのなら

  はやく逃げるんだ、ビニール・シートを棄てて

16/12/30


   *


 7日も経たず、西脇から帰された。母方の祖父には懐いてたし、かれもそれを知ってた。それでも折に触れて口にする、かれの本性にぞっとさせられた。生野までの道すがら、かれは吐き棄てた。「呑み屋の女ごときが」と。死んだ祖母のことだ。つづけて父への怒りをあきらかにし、「あんな女の倅なんかに」とも。しまいに「あの女の戒名には釋の字が入ってる、それは部落のもんの戒名や」──おれは応えにつまった。かろうじてひとこと、──岡山に部落なんかないよ。──「イヨ?──釋の字は部落のもんや!」──近所の坂をあがるてまえで、かれは穏やかな口調へ変えた。

   唾を吐くまえによう考えるんや、

   すぐに吐いたらいかん、

   いくらあんな親父でもな、

   おまえの親なんやからな。

   辛抱せえよ。

 だれも救い主にはなってくれない。やがて家が見えてきた。父とどうやったら会わずに済むのか、だれか教えて欲しい。父はおれをうしろから抱きしめようとした。気持ちがわるかった。ふりはらい、この男がなにも変わってないのを見てとった。またしても日曜大工と折檻が待ってた。姉や妹たちは異星人みたいにおれを見た。もうしばらくかの女らと話をしてない。学校が終わって坂本姉弟と帰った。ワゴン車のなかで姉がいった、おれが女の子の、すけべな絵ばかりを描いてると。おれが普段どんなふるまいをしてるかをおもしろおかしくいいたてた。運わるくおれが描いた絵が車のなかにあった。大智が手にとった。乳房の大きい短髪の女だった。姉はおれをばかにして、囃し立てた。大智がおれにいった、──おまえはそんなやつなのか?──おもいあまっておれはいった。そんなこといってるから、おまえはタラシっていわれるんだ。──タラシがなにかなんておれは知らなかった。姉でさえ定義のはっきりしない俗語だ。大智は眼を丸くした。おれは恥を憶えて押し黙った。家に着いておれは姉に謝ってくれるように頼んだ。しかし、かの女は笑い声をあげるばかりだ。ほかにできることはない。箒のさきにカッターナイフをつけ、戦いの支度をした。じぶんがなにをしようとしてるのか、なにをしたいのかはわからなかった。居間を歩く姉に箒をむけ、絶叫し、突撃した。

  ウラミハラサデオクベキカ!

 すんでのところ、かの女は便所へ遁れた。木戸を破ろうと体当りする。それでもけっきょくは室にもどった。しばらくして姉は近所の英語教師のもとに遁れ、母が帰ってきた。おれを断罪し、おれは素足のままおもてへでた。どうしようもない茶番だった。それでも父からどんな罰を喰らうか知れたものか。泥濘を歩く。おれは歩いて山を越え、麓へ降りた。道場駅まえの商店でポルノ雑誌をみた。金はせいぜいカップラーメン1個ぶん。店主はみえない。盗めるだろうが怖かった。そのまま三田まで歩いた。街灯のもと、靴なしでは目立つ。どうしたものか、坂をあがって公園にでた。ポケットから食品保存剤をだした。こいつを呑めば死ねるかも知れない。水と一緒に呑んだ。灰みたいな味がした。死ねそうになかった。車道に飛びだして死のうともした。できない。ひきかえして道場駅へ来た。ラーメンの自販機のまえ、小銭をかぞえてたら、パトカーが来た。

 警官に捕まり、有馬警察へと送られた。幕。車のなか、おれは保存剤の袋に爪で文字を書いた。村上友衣子が好きだったと。でもおれは死ねなかった。署に着いて1時間、だされたソーダをまえにおれは泣いてしまった。疲れ切ってなにもかもがどうでもよかった。父と母が迎えに来て、そとづらのいいざれごとをいった。あの家には帰りたくはない。次はどんな制裁を受けるか、気が気でなかった。姉は謝らなかった。すねたつらをしてるだけだ。それを妹が援用する。母は姉を叱らなかったし、父だってそうだ。姉も妹はどんどん増長してった。

   自殺しようとしたんやって?

   うちの親から聞いたで。

 大智がいった。

  うそだよ、

  おれはうそを吐いたんだ。

 そう答えるほかにない。まるでみずから悲劇的になってるみたいできまりがわるかった。だれかに申し訳ないとか、悲しむひとがいるということはない。恥ずかしいだけだ。鞄に入れたラジオで音楽を聴き、便所のなかにこもった。じぶんには合わないとおもいながら、激しい音楽を聴いた。だれかがおれを、みんながおれを嗤ってるかもしれない。でもいつか、やつらをやっつけてみせる。そうおもいながらひずんだギターや、荒れたドラムの音を聴いてた。便所からでて息を吸う。理科の授業が終わったころだ。生徒会委員の中島が薄笑いで、おれを見る。人生のすべてはおれのひとり負けだ。だれかが叫んだ。 

   おい、アルフ!

 職業体験が決まった。おれは大智といっしょに弁当屋だ。いきたくはなかった。あらかじめだした希望に意味はない。配膳や洗い場やら、朝の支度を手伝うと、やることはなかった。従業員たちは配達で出払った。ふたりしてちらしを折った。大智がけしかけた。小銭がある、──盗もうか。──卓上の、小さな藤の籠を指す。──やめろよ。──おれはいった。

 テレビ画面では焼けた家屋が映しだされてる。昔しの事件。火事の現場から子供の骨が見つかって、それを隠してた女が無罪になったらしい。行方不明になってた、ジョウマルという男児の骨らしい。

   つまらないな。

 やつはテレビを消した。おれは観ていたかった。おれたちはただ黙ってちらしを折りつづけた。やつが便所に立ったすきに小銭をくすねた。うまくいった。帰り道、生協のスーパーマーケットへ寄った。2階の本屋。おれは村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」の下巻を買った。つぎの朝は、茶道教室へいくことに決まってる。あの寺内麗奈と竹村紗代も一緒だ。最悪だ。たったこれっぽっちのことで、おれはうごけなくなってしまった。朝、母の車のなかでぐずついたまんまでいた。かの女たちがなによりも怖い。恥ずかしい。憎い。かつておもい画いた復讐も役に立たない。車を降りると、歩いて家まで帰った。1時間と半分かかった。もちろんのこと、父は怒った。それしかできなかった。

   女の子が怖いやと?

   ふざけるな!

 坐ったまま木椅子を蹴飛ばされる、床を転がる、嵐が過ぎ去るまで黙った。おれはなにもしないでいたかった。体験にはもういかなかった。くそくらえ。だれもおれを理解しようとしないのなら、おれもおまえらを理解することはない。やがてすべてが終わった。体験発表があった。おれは坐ったままだ。寺内を眺めた。おれには知らん顔だ。こいつらのために人生が惨めになってしまった。しばしば竹村とまぐあうことばかり考えた。寺内はいまでは狐目の、皰づらでしかなかったけれど、かの女はちがった。みてくれがいい。おれ好みに髪が短かった。かの女を辱める、あるいはかの女から辱められる光景をおもって茎を熱く、太く、硬くした。生活はだんだんとばらばらになってった。秋になるころにはまったく学校にはいかなくなった。たまにいっても昼をまわってる。あいもかわらず、歌詞もどきを書き、小説もどきを書きつづけた。そいつを国語教師に見せる、ただそれだけのために学校へいく。松本という教師はおれのクラスの担当じゃない。けれどもあの女教師より見るめがあると踏んだ。かれは童話を書きたいという。

 体育館で講話があった。おれと数人を挟んで透がいる。ばかなやつらが伝言ゲームをはじめた。おれがいってもないことを透に伝え、透がやってもないことをおれに伝えた。腿をつよく叩かれた。講話が終わったあと、透はおれに回し蹴りをした。危うく階段から落ちそうになった。あとでやつは謝った。けれども、おれを下位の存在としか見てないのがわかった。


   *


 あるとき、おれは地階の水飲み場まで歩いてた。紺ではなく、赤いスカーフのセーラー服を着た少女がいた。息を呑んだ。それほどのうつくしさだ。気取られないように、なんてことないっていう顔をしておれも水を呑む。黒く、みじかい髪、曇りのない両の眼。均整のとれた長身。──おれが見とれてるあいだにかの女は去ってった。まるきり映画のなかの人間じゃないか。けっきょくかの女のなまえすら、知ることはできなかった。


   *


ほとんどの夜を公園や森で過してる。眠れる場所を求めてさまよう。家はあっても家庭はない。家族はあっても最愛はない。人間はいても対話がない。そして可能性はあっても無効にされていく。おれが長い夜から朝までのあいだ、いくらさまよってもひとびとは見向きもしない。あるとき、自治会館のある公園のベンチで、おれは眠ろうとしてた。大人たちがなにかを終えてでてきた。そのなかのひとりがおれを知ってた。ナカタさんの息子やろ?──へらへら嗤って手も差し延べずに去っていく。あるいはこういうこともあった。休日のスーパーのベンチでおれは時間を潰してる。それ以外に道がない。あとで母がいう、大智がその光景を見たと。どうして声もかけないのか。名塩グリーンハイツの公衆電話で夜をよく明かした。またあるときだ、たちの悪い男たちが車でやって来た。ラジオを聴こうとする坂の上のおれにむかって。やつらは公衆電話が使えなかったといい、その原因を叩きのめすと脅かした。そして下品な笑いとともに去ってった。酷薄な土地だ。

 山を越えて町へ降る。国道に沿って歩く。当てもなく歩き、コイン・ランドリーに入った。深夜2時だ。回転するドラム、回転するドラム、回転するドラム。やがて男が入って来ていう。──なにやってるんや、はよ帰れよ。──咎めるふうもなくいった。おれは塵箱に棄ててある、弁当を眺めた。まだ白飯が残ってる。男がいなくなってから、そいつを喰った。冷たい飯がうまい。なんどかそこで眠ろうとした。けっきょく、できなくて隣のコンビニエンス・ストアへ入った。早くもクリスマス・ソングが流れてる。the brilliant greenの英詩の唄だ。ふとおれはラジオ番組を使ってかの女に告白しようとおもった。広末涼子のやってるラジオ番組のワン・コーナーで、友衣子にむかってだ。考えは、たわむれに過ぎなかった。それでもいつかはかの女に告げたい。──そうでなければ、おれは一生悔やむにちがいない。

 棚のポルノ本を眺め、そのうちの1冊をとった。「URECCO」。中身を見て、それから便所にいった。マスを掻いた。それからまた件の本を見た。便所にいった。マスを掻いた。店員に本を持ってかれるほどご執心だった。菓子パンを買っておもてへでた。雪が降りはじめ、そのなかを歩いた。それから終夜営業のレンタル・レコードで、シングル盤をいちまい借りた。そいつを歩きながら聴き、生野高原の公園でも聴いた。エレファントカシマシ、「明日にむかって走れ/ふたりの冬」だった。いくらか日が経って、おれは「URECCO」を買った。シングル盤を返すついでに。店員は咎めなかった。川島和津実と沢田舞香、どっちもおれが、それまで見たなかで最高の女神たちだった。おれはかの女たちに汚されたかった。

 冬の校庭、サッカーの試合。山田がゴールキーパーだ。女の子たちがやろうに歓声を送る。なんてこった、くそと味噌の区別もつかないんだ。家に帰ると、姉がおれが読みたかった雑誌の記事を切り抜き、おれをからかった。おれはかの女を追った。風呂に隠れた。おれがガラス戸を蹴って、少しだけ割れた。怒った父がおれを戸外に追いだした。おれは公園で夜を明かした。ことの流れを知っても、父は姉を軽く窘めるのみでなにもなかった。産経新聞や西尾幹二の「国民の歴史」やなんかを読む父は、みずからを保守と見做してたみたいだ。けれどもやつのする、おれへの仕打ちは、アカの総括とかわらなかった。数時間もかけて自己批判と解答を求め、気に入らなければ手をふるい、怒声をあげる。終わりのない仕打ちのなかでおれは自我を喪い、感情を忘れた。昔しみたいに裏庭の木へ縛りつけたり、定規で打たれることはなかったけれど、総括だけは健在だ。終わりのない自己批判の果て、またしても学校へいきはじめた。あるとき、カセットテープを持ってた。ダビングしたばかりのエレファントカシマシ、アルバム「明日にむかって走れ─月夜の歌─」だ。かれらの歌にはちゃらちゃらした詞はない。どれも素直で、まっすぐだ。透がいった。

   なんやそれ?

  エレファントカシマシだ。

   変やで、おまえ。

 やつが顔を顰めて去ってった。いったいどういうつもりなんだ。なにをやっても、おれはおかしなやつなんだ。夕暮れ、やつと歩いてた。やつが中井の家を指していった。──あれ、借家なんやで。内緒やぞ。──どうしてそんなことにかまうのか、おれにはわからなかった。やつの侮蔑におれは顔を顰めて歩いた。


   *


 くるりというバンドがデビューした。「東京」という曲で上京した青年の心情を歌ってる。テレビで流れる装飾過剰な歌なんか聴けたものじゃなかった。すぐにかれらのシングルを買い、アルバムを待った。そうしながらやがておれ自身がバンドを演って歌うことのをおもった。愛するもののためにも舞台に立ちたかった。でも女友だちさえできなかった。じぶんの顔がゆがんでるのか、いつも気がかりだったし、精神科にいくべきともおもってた。おれを愛してくれるひとがこの世界にいるのか、うたがわしい。それでもいい音楽はずっとおれのほうへ近寄りはじめてる。長谷から手紙をもらった。小説の感想だった。「今度はまともな小説を見せてね」とあった。ヘンリー・ミラー風の私小説はまったく受けなかった。もちろんのこと。かの女は姉を尊敬してた。姉はかの女を「微妙な男に媚びる変な女」と評した。たったいちどきり、かの女と長電話をした。詞の感想を聞いた。

   「雪」っていう詞がよかった。

 あれは希死念慮の比喩だ。かの女は気づいてない、おれの危機に、おれの不安にも。

  いちど学校終わったあとにうちへ来ないか?

 べつに下心があったわけじゃない。なんとかかの女をわが家に誘おうとした。

   野球部の水嶋って子、知らない?

  いいや。

   つき合ってんの、わたしたち。

 だから、どうだっていうんだ?──長谷のやり口に怒りがこみあげて来て、おれは気にはなってるだけの子を好きだと告白した。たしか米田とかいう子だ。かの女とはなんのかかわりもない。ただそのおもざしを盗みみただけだ。たぶんどこか三輪明日美に似てたせいだろう。けっきょく、だらだらとした会話を11時に切りあげて、おれは短篇を書き始めた。少年同士の出会いと離別の話だ。できあがってすぐに原稿を学校に持ってった。これがまともな小説だ、そういって長谷へ渡した。自信はあったけど、けっきょく反応はなかった。はじめから期待なんかしてなかったとひとりかぼやきながら、長谷からの長い手紙をめちゃくちゃに引き裂いて横になった。もはやできることはない。

 全校集会、中島が演説をぶった。終わったあと、透が「かれこそ男だ!」と繰り返す。おれからすれば、卑怯者のおかまやろうでしかない。ばかげた世界だ。どいつもこいつもなにもわかっちゃない。そしてその世界から逃亡する手段は死のほかにおもい至らなかった。だれかが、あるいはみんながおれを見て、隠れて嗤ってる、そうにちがいない!──ノートのうえで怨み節を垂れ、本を読む。


   *


 淋しい夜にはエレファントカシマシの「君がここにいる」がよく似合った。じぶんを求めてくれる存在に懐いを馳せ、古い寝台のうえで眠る。ものはみな遠く、儚かった。20歳には死のうとおもうときもあれば、生への意思に溢れるときもあった。でも、けっきょくじぶんにできることがなんなのかがわからないまま夜が明け、日が暮れた。多くのまやかし、他人との和解だとか、慈しみなんてものは信じられなかった。それでも他者を求めずにはいられなかった。ぼくは自身が大人になれるのか、それが幸せなのかを自身へ問うた。

 梅田へ遊びにいった。禁止されるまえにおれはRUSHを買って、18になるまえに川島和津実のビデオを買った。かの女こそあまねくものの答えだった。家に帰って父の葡萄酒をやりながら、姉の室でビデオを見た。かの女の室にはテレビがある。おもったよりも幼い声をしてる。うつくしいおもざし。おれは時間をかけてゆっくりと、みずからを慰めた。


   *


カプセル・ホテルで


  どこにだれがいたのかで、夜の更け方が、時の経過がかわっていく。

  だれかのかげがけもののように吊るされ

  血抜きされる

  まばたきをやめろ

  でもどうせきみたちは信じないし

  1週間後にはアメリカにいってしまう

  

  もう帰ってくるなよ!

  Albatross!

18/02/11


   *


 ロージーが入ってきたとき、わたしは滝田の写真を見ていた。ロージーはわたしのそばでなにもいわず、寄り添って窓に靠れた。わたしはかの女からのことばを待ち、滝田とのことを考えた。やつがはじめてわたしの個展にやってきてドローイングを見たこと、わたしがやつのライブにいったこと、ふたりで音楽をはじめたこと。「おまえもおれも自由の代償を払ってるんだ」というやつのことば。

   兄から聞いたわ、あなたは最低よ。

  その通りだ。

   わたしのからだを見る?──傷口に触ってみる?

  そんなことじゃないんだ。

  ハンクの話しをしてくれ。

   兄のなにを?

  かれはずっとこの村にいたのか?

 「司書になるまえは州立大にいたわ。詩を書いてたのよ。大学の詩人会にも入ってた。有望な詩人だった。でも郷土史を書こうと記事を調べてたとき、祖父と組織のつながりを知ったわ。ずいぶん落ち込んでた。それでも書こうとしてた。夏休みに帰ってきたとき、詩人会から告発状が届いた。──供託金をかれが盗んだとあった。でもアリバイがあった。それを証明しようとしたとき、電話があった」。

  どんな電話だ?

   もうやめましよう、こんな話し。

   淋しいのならわたしがいる、どんなことでもしてあげる。

 いったいどんな──もうロージーにはなにも見えてなかった。ヘロインでもやったのか、眠たそうな眼でわたしを捉え、押し倒した。寝台のスプリングが鳴り、12匹の菟のみたいにうごきだした。わたしにはどうすることもできない。ロージーはまともな女じゃない。きっとだれかに薬と命令を受けてる。そのからだは真っ白で、冷たかった。わたしはかの女のからだを引き剥がし、カウチに運んだ。

  おれは淋しくなんかないよ。ハンクについて訊いてるんだ。

   いったいなにさまのつもり?

   そんなに知りたきゃ本人に聞けばいいことよ。

  いいや、かれは話さないだろう。

   わたしを連れだしてくれる?

  ぜんぶがわかったら。

   ならいいわ。──電話があったの。きみの記事を買い取るって。それでハンクは待ってた男に記事と資料を渡したの。

   詩人会は金のことをまちがいだと謝った。だけど、そのあと高級車がハンクへ贈られて来た。ハンクは返しにいった。

  あの映画館へか?

   そうよ。

 階下から跫音が聞える。窓の下には銀色のルノーがあった。おかしなことにならないうちに、わたしはすべてを聞きだすつもりでいた。だが遅かった。ロージーの握った拳銃がこちらをむいている。小ぶりな自動式だ。ラリってるぶん余計にあぶなかった。ちくしょう。

  おれを殺すのか?

   いいえ、愉しんでもらうの。

   日本人ってけっこうおもしろいんだから!

わたしがかの女の手をとったとき、男がふたり入ってきた。ひとりはメキシコ人、もうひとりはレッドネックと呼ばれる貧乏白人だ。チェックのシャツにデニム、そしてブーツ。レッドネックが口火を切った。──ロージー、おまえは喋りすぎだ。ふたりとも映画を観る必要がありそうだな?──わたしたちはルノーに乗せられ、映画館へきた。上映作品のリクエストまではできないみたいだ。入り口ではビル伯父が待ち構えてた。──いったいどういうつもりなんだ?

 貧乏白人にわたしはいった。やつは答えず、車を駐車場へまわすと、降りてドアをあけた。ふたりとも降りろ。──わたしはビルを見た。ライフル銃を持ち、かたくなな面持ちで立ってる。衛兵みたいだった。わたしたちはなかへ通された。座席を越え、舞台にあがる。スクリーンの裏手に事務所があった。あるいは拷問部屋かも知れない。

   教えてやろう、ここだけの話だ。

 レッドネックが喋りだした。首にナイフの痕がある。──あのとき、ハンクはここへ車を返しに来た。社長からすれば当然面子をつぶされたってところだ。ものを察した三下がハンクを吊るし上げようとした。とちりやがった。反対に腕を折られた。ハンクは恐怖からか、ほかのやつらにも立ちむかった。そのとき社長の女が入ってきた。見物のつもりだったらしい。だが撲られたやろうに巻き込まれ、舞台から落ちたんだ。頭を打ち、重度の癲癇と診断された。ものや金で済む話じゃなくなった。社長はビルに電話をした。いい提案を期待してだ。そのやりとりをたまたま聞いてたロージーはたったひとりでここに来たんだ。かの女は薬を仕込まれて7日間、ここで過ごした。解放されたときには毀れてしまってたよ。薬と男なしじゃあ、生きられない娘になってた。──ロージーがくすくすと笑った。そこにいる全員を嘲るみたいに嗤ってた。


   *


 滝田への線はどこかへいってまった。やつはロージーと寝たのか。ホテルにもどってロージーに訊いた。──ええ、もちろん。大人なふりして初(うぶ)なひとだった。あなたのほうはどうなの?──おれのことはかまわないでくれ。──わたしは苛立っていた。ロージーを救えないこの村の大馬鹿どもや、映画館のやくざたち、そして兄だというのに妹を守れなかったハンク、甥や姪をほったらかしに組織とつながるビルにもだ。怒りではちきれそうなわたしを眺めてロージーは子供をあやす母のように髪を撫でてくれた。わたしたちは窓にもたれて泣いている。雨がふってる。北のなかの北へわたしはむかいたかった。──あなたの話しを聴かせて? おれは、──わたしは話した。

 冷え切った家庭に育った。父と母は半目しあって、とてもじゃないが愛も情もなかった。日本の経済がわるくなっていくなかで、大人も子供も不満を募らせてった。あたまのわるい、勉強もスポーツもできないおれは道化を演じることでなんとか逃げてた。それでもわるいやつらが寄ってたかって家庭や学校の憂さをおれの存在で晴らそうとした。だれにも助けてもえなかった。父はいった、おまえができそこないだからと。そして折檻した。母はいった、がまんなさいと。おれの家は貧しかった。ほかの子のようにいい服も着られず、ビデオゲームもなく、ただハンマーや手斧だけがあった。おれは絵を描きつづけた。どんなにばかにされてもやめなかった。

 やがておれは恋をした。12歳だった。かの女へのおもいをたったひとりの友達にいった。かれはおれを裏切ってかの女に告げ口したよ。それからはさらなる地獄がつづいた。生きながら焼かれるように学校へいった。いくしかなかった。かの女の眼はかつてのようにやさしくはなかった。おぞましい容姿、だれもがおれから立ち去り、おれの存在から色を失わせた。大人になっておれは母を苛み、父を撲った。かつてされたことにあらゆるかたちで仕返しを遂げた。けっきょくだれも愛してくれない。それでも滝田だけはおれの相棒だった。やつのいない世界で暮らしてゆく自信なんかない。

 ロージーが寝台へ導いてくれた。おれは、わたしはかの女の胸のなかではじめて愛に気づいた。そしてかの女をまっとうなといころへ連れていくんだと誓いをした。わたしはもうだれにも負けない。負けてはならないんだ。──ロージー、この町をでよう。


   *


 聖人のふりをして神の水を飲み乾す

 われわれはだれも素直なふりをして

 身内でないものを火破りにかけてる

 われわれはひとりではいられないくせに

 身内しか愛せない──いいや、

 身内すら愛すことができない

 だから苛立ちに火を放つ


  かつて母だった女がいった

  家族は他人のはじまりだと


 牛乳をからになるまで呑み、

 みずからの厩に入っていく

 もうだれにも燃やされないように

 身内だけの道徳に踊り狂うばかどもよ、

 おまえらなんかひとり残らず、

 半額シールでも貼られちまえばいいぜ 

15/02/09


   *


 おれは驚いた。3年になって初日、クラス表に友衣子のなまえがあったからだ。でも喜べない。どうすることもできないとわかってたし、この学校にはもういくつもりはなかった。またも7組。からっぽな女校長の挨拶に飽き、教室に入る。詰め襟が息苦しかった。担任はまたも牛尾、そして透もいる。かれとはもう遊ぶこともなくなった。どうやらおれのお目付役のようでだ。いまや小奇麗な連中とよろしくやってる。おれは制服がいやでならなかった。深夜徘徊はつづいた。終わりはない。父とはまともに話なぞできない。母とも、だれとも話はできなかった。かつてなら道化性があって、笑いを生むこともできたが、それは人間ぎらいにとってかわった。気づいたとき、もう身の置きどころはなかった。学校にも家にもいられない。最愛の友衣子がこんなにもちかくにいるというのに、おれは離れなければいけなかった。おれが醜いからだ。

 湯本香樹実の「夏の庭」と太宰治集をもって夜を歩く。ときどき大学生のハイカーたちがおもしろがっておれに声をかけてきた。だれもかれもしがらみのうちにいる。名塩グリーンハイツの電話ボックスでラジオを聴きながら夜を明かした。「真夜中ラジオ・ユアーズ」が好きだった。やがて朝になると室に帰る。父がいるときは麓の新興開発地で過ごした。家は1軒もない。あるとき、あそこを勃っ立ててストリーキングをして、散歩の老人に見つかってしまった、慌てふためいた、逃げた。こんところにひとがいるなんておもわなかった。夜明け、電話ボックスで「夏の庭」を読み終えた。涙だ。


   *


  夏が来て、くるりの「さよならストレンジャー」を買った。毎日幾度も聴きながら歌詞を書いた。じぶんでも信じられな

いぐらいことばが迸り、うちなる響きが谺した。新譜が待ちきれず、「ファンデリア」も買った。「もしもし」はもう手に入らなかった。「街」を買った。おれはアルバムがわりに歌詞集をまとめた。「普遍的→不連続線」、「ちまたのくうらん」、「sweet bitter candy」と。冬になってガットギターを弾いた。そいつは母のものった。弦は下3弦だけで、Dやその類似コードしか弾けない。小6のとき、そいつで「イエスタデイ・ワンスモア」を短音弾きした。夏休み。おれは家の仕事にかりだされた。姉も妹もいるのに、男はたったひとりだけ。早朝の草刈りから、大工仕事。うだろうような暑さがたまらない。倒れそうになって叢に尻もちをついた。2×4の角材がおれをめがけて飛んできた。背中を直撃し、激痛が走る。

   仕事をしろっていってるやろ!

 こんなことが毎年起きる。母屋に屋根裏をつくり、離れにフローリングを敷いた。車庫の屋根にコンクリートを流し、小屋を立てる。ちょっとでもへまをしようなら、逃げだそうなら、薄く切られ、撓る木材を鞭におれの手を打った。おれの足を打った。──痛い!

   痛いに決まってるやろ!

   おれのいう通りにできへんからや!  

 朝の6時から夜の23時まで、家の仕事はつづいた。父のラジオからばかげた流行歌が流れる。まちがえるたびに父はいった。

   おまえなんか馬鹿でもチョンできることもできん!

   そんなんで世のなかにでてなにができる!

   おまえなんか人間やめてルンペンやれ!

早う首くくって死んでまえ!

 限界だった。夏の終わりの夜、おれは灯油をペットボトルにつめ、好きな音楽をもって家をでた。どうにでもなってしまえ。母がおれを見咎めた。灯油なんかでなにする気や!──くそったれの役立たずめが。歩いて1時間と半分、駅に着いた。梅田まで乗った。東商店街の雑踏をいくと、若い女たちが客引きをしてる。声をかけられて「家出してきた」といった。もしかしたらいいめに遇えるかも知れない。おれはギター弾きに声をかけた。なにかやってくれ。

   なにが好きなん?

  エレファントカシマシだよ。

   エレカシはできへんけど、斉藤和義って知ってる?

  「ソファ」って歌が好きだよ。

   それはいまできへんけど「歌うたいのバラッド」って曲をやるよ。

 おれもギターを弾いて歌いたくなった。ぼくはかれに歌詞集を見せた。幻冬舎から送り返されたものだった。かれはそのなかから「旗」という詞を撰び、即興で歌った。朝になるまで音楽について語った。おれはどうしたものだろう?──テレビ局にむかって歩いた。乞食や浮浪者たちがあちら、こちらで寝てた。関西テレビのそばの、コンビニまえでひとりに声をかけられた。痩せ細って、光りに焼かれつづける老夫だ。憐れだった。 

 「にいちゃん、パン奢ってくれ」──わるいけどぼくもルンペンなんです。かれを背におれは歩いた。わるかったかも知れない。でもできることはなかった。路地裏で灯油に火をつけた。そしてそのまま歩き去った。火は弱く、消えそうだった。夜、またおなじギター弾きを探した。でも見つからず、終電まじかの駅にいった。母に電話した。死にたいといった。駅員が事情を呑み込んで列車に乗せてくれた。おれはいくじなしだ。たったひと晩で帰ってきた。そのあと父の車で駅員に菓子折りを持ってった。父は死にたければ死ねといった。はじめて音楽雑誌を買った。「Rockin'on japan」だ。エレカシの記事が小さく載ってた。ライブで「おはようこんにちは」や「待つ男」をやり、新曲はロックだと告げてた。帰りに叔父の家にいった。おれは車のなかでただただ話が終わるのを待ちつづけてた。

 後日、エレファントカシマシのベストと「浮世の夢」を買った。生々しいことばの連続だ。やるせない日々のなかで支えのひとつになってくれるとおもった。その通りだ。さっそく歌詞をまねて書いた。「夢のちまた」の美しさにうっとりとした。そしてシングル「ガストロンジャー」がでた。文字通り、衝撃だった。なにもいえなかった。学校にいくふりをして森のなかに遁れた。そこで昼まで音楽を聴き、あとは生協のスーパーでやり過ごし、放課後になってから学校にいった。友衣子のことはもうすっかり忘れてしまってた。もはや、かの女は、はるか遠くのなにかだった。じぶんにいまさらできることがあるとはおもわなかったし、なにもしなかった。


   *


 次の正月、おれは山口病院という精神科にいった。治療を望んだけれど、だめだった。医者が親に照会したんだ。おれはしかたなく大阪までいった。ポルノブックを買い、薄汚い外国人から馬鹿高い指輪を売りつけられた。たったそれだけで金がなくなった。

 そのころ、ひとつ下の妹は問題を抱えてた。吹奏楽部でいじめに遭ってた。木村真美や西林絹子たちから。かの女らは口の利き方の知らないけつの穴だった。おれはあるとき音楽教師の佐藤先生に妹のことを問われ、聞きかじりの事実を話した。妹はそいつに泣きながら怒った。さらにいじめられるとおもったからだ。高校にあがってからは退屈しのぎか、憂さ晴らしか、じぶんのからだを切り刻むようになった。あるいは癲癇の発作を起こし、前後不覚に陥ることもしばしばだった。かの女は幼年期、風呂場で転び、後頭部を切っていた。ちょうどおれと風呂へ入ろうとしたときだった。扉の金具に頭を打ちつけ、眼を開けたまま声もださなかった。おれは悲鳴して親を呼んだ。救急車を呼んだ。

 おれは、もちろんろくでもない兄で、いまかの女がどこに棲んでるかもわからない。死んだのかも知れない。兄妹愛などけつくらえ、というわけだ。ここにも父の計略が働いてて、落ちこぼれたものをさらに追いつめ、逃げ場をなくさせ、兄妹間にわざと対立を煽り、攻撃させ合った。なんにせよ、やがて灰は、灰へと還る。気に喰わなかった。両親がきらいだ。なぜならひとの親というものほど、罪人はこの世にいないからだ。もはや姉とも妹たちとも話をしなくなった。通じ合うものがなにもない。父の計略はぜんぶ巧くいってた。植えつけられた攻撃心と反感はなかなかに絶えることがなかった。

 家父長主義なんざ滅ぼすべきだ。おれもおもった、だれかが書いたみたいに《父親を殺したいとおもわなかったものなどいるのか》と。おれはたびたび姉たちに悪態をつき、かの女たちは嘲笑った。家族愛というものはおれの世界には存在しない。家のなかで安心できる場所がなかった。どこにいても監視の眼があった。いつ父は死ぬのだろうかと算段した。あと30年は生きるだろう。それまでおれ自身は生きていられるだろうか。殺すか、殺されるしかないのかも知れない。

 毎朝、撲り起されるとき、反撃への意志を確かめる。でもなにもできないまま時間は過ぎていく。まったくばからしいことに父は、おれが正しい技術や、認識を得る機会を奪いながら、おまえは劣ってる、なぜなら姉も妹も優秀じゃないかと捲し立てた。おれは誓った。あのやろうを死ぬまでいたぶってやる。母は子供が成人すれば離婚する、そう幾度もいいふめた。でもけっきょくそうはならなかった。


   *


山火事



 (こいつを書いてるのは生田川上流の長距離バス発着場。たぶん発表はしない)。


 詩を読むのは

   かなしい

    ことか


 沼に空砲を撃つみたいにむなしいときもある

 なにも感じなくなったぼくはただ頁をめくる


     さようなら

 愛しかったものたち

  ぼくらのけものの

      魂しいが

  自動車に轢かれて

      死んでる


 きみはぼくの友だちじゃない

 たったそれだけのありきたりなこと

 ぼくは詩が読めなくなってしまった


 山火事がきれいな夜を

   ずっと待っている


15/3/4



   *


 「精神科はあぶない」というのが、ものを知らない母の見解だ。おれは有野台にある心療内科へいった。ロールシャッハ・テストや、ほかにもマークシート式のテストを受けた。処方された薬のせいで脚に痙攣が起った。通院はやめた。テストの結果はわからない。おれは、おれをみんなとおなじようにしてくれるところを探してた。あいかわらず歌詞を書き、放課後、詞や絵を見せるためにだけに職員室へ通った。美術教師、国語教師、音楽教師が目当てだった。やがて秋が来た。どうやっても修学旅行にはいけなかった。旅先は長崎だ。みんなが怖かった。なにをいわれるのか気が気でなかった。友衣子のちかくへいきたい。それでもあきらめるしかなかった。でも写真はべつだ。おれは担任に頼んで、女の子の写真を焼きましてくれように頼んだ。でも恥ずかしくて、友衣子のはだめだった。

 かの女のことを考えるだけでおかしくなりそうだった。技術教師が笑った。

   校内はじまっての傑作だ!

 けっきょく写真は届かなかった。ふざけやがって。その娘は、たったいちまいすら注文してないと担任はいいはった。そんなことがあるもんか。以来、おれはかれらを相手にしなくなった。なにをいわれても上の空だ。ちくしょう、おれを値踏みしやがって!──雨のなか、上村透が土産をもってやってきた。写真でもそうだ、「長崎はきょうも雨だった」。

 担任の牛尾は何度も家にやって来た。学校に来いという。教師としての評判が赦さないんだ。成績落第者のための授業もあるという。いざ覗いてみれば暴力者気取りのぬけさくどもが、まじめに机にむかってて、笑いものもいいところだ。どうしてやつらなんかと勉強するのか。おれは廊下で口笛を吹いた。10人ほどが怒ってでてきた。そのとき麻田という、ちゃらちゃらした女が来て、おまえも勉強しろといった。1回だけという名目でおれは加わった。山田が寄って来ておれをからかった。それきりおれはでなかった。はっぴいえんどや、ゆらゆら帝国を聴き、時間を潰した。

 おれは絵入りの歌詞集をつくって、長谷に渡した。喜んでくれた。そして8組できらわれものたちと話し、かれら、かの女らがどうしてきらわれるのかを理解した。そしてじぶんがきらわれものなのも、当然理由があった。つまり集団とのコードを持ってない。それは隠語でもいいし、笑い方でもいい。とにかくそれがおれたちにはなかった。不要なコードが多すぎる。ひとこというためにどれだけの手練手翰が必要か、おもっただけでも嫌気がした。

 じぶんにとって不快なものは不快でしかない。その点、みな素直ともいえる。郷家麻衣は8組で教師の手伝いをしてた。毎年だれかに虐められてるらしかった。それも小学校から。おれとおなじだ。あるとき、透がいった。あいつとは話すな。──けれども、おれがだれと話そうがそいつは、おれの自由だ。おれにはそれほどまで他者におもうところがなかった。あっちが接触してくる以上、そこに悪意がない以上は拒む由しはない。卒業式のまえに写真を撮った。小6とおなじくなんとか友衣子のちかくに寄りたい一心だった。でもおれにはもう野心はない。じぶんで刈ったひどい坊主頭で、ぶかっこうなまま端っこに立ってた。どうすることもできない。細見のやつが青縁の眼鏡をかけてる。色気づきやがったか、このおかまやろうは。卒業式で、でたらめに歩いて賞状をとる。予行演習すらでていなかったからだ。みなが怪訝なつらをした。どうでもよかった。帰ろうと廊下へでたとき、中島のやろうが声をかけて来た。じぶんの卒業演説をじぶんで褒める。にやにやにやにや、と。

   自画自賛じゃねえか。

 おれがいうのを遮って、あるいは聞えないふりをして、まだ自慢をつづてける。こいつはふるってる。こんなやつを支持するくさったやつらしかここにはない。やつの隣の眼鏡やろうは1語も口を利かず、微笑とともに黙ってる。それもまたむなくそがわるかった。やつらを置いておもてへでる、道。家まで15キロばかり歩く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裏庭日記/孤独のわけまえ 中田満帆 @mitzho84

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説