第15話 チェイサーという猫
いつの間にか窓の外からは月明かりが差し込むようになっていた。
あたかもそんなスポットライトを独占するかのように、ベッドの上のステージを独占する白猫は我が物顔で毛繕いしていた。
大胆不敵にもほどがある。ホテルのこの部屋は少なくとも一階ではなかったはずだ。そもそもどうやって嗅ぎつけてきたのだろう。もしや、ずっと私の後をつけていたりするのだろうか。
「教えてほしいの。別の世界に移動する、その手段を」
白猫からの返答はなく、なんというか今いいところだから邪魔しないでと言わんばかりにモフモフのその手に舌を何度も這わせている。気まぐれにもほどがある。
「そんなカンタンなことも分からないのニャ? 自分だって別の世界から移動してきたくせに、おかしな奴だニャ」
間を置いて口を開いたかと思えば、何の答えでもなかった。質問に対して質問で返すこのいやらしさときたら、それだけで性格の悪さが滲み出ている。
答える気もないし、その義務もないとでも言いたいのか。
「物事はカンタンな方がいっそ難しいものよ。例え目の前にあるものだって、手の届くものだったって、全部を分かっていることなんてないでしょ?」
身体を丸めて尻尾も丸くひょいと収納しだした。興味も関心も微塵もなさげな態度だ。私は本当にこの白猫に対して会話を試みているのかさえも不安になってきた。
本当は全てが幻覚であり、全てが幻聴なような気がしてきて、目の前のベッドで丸くなる不敵な態度をとる白猫の存在もあやふやに思えてきてしまった。
しまいには、あくびまでしているし。
「もうひとつ、分からないことを訊いてもいい?」
「なんでも聞いてやるニャ」
それはあたかも聞いてやるだけ、みたいな言い回しな気がする。
「自己紹介もしてなかったからさ、あなたの名前を教えてほしいの」
「知らなかったのかニャ?」
「あなたの飼い主を自称している人からはエルメスって聞いてるけど、それが正しいのならあなたはエルメスちゃんよね」
「勝手に飼い主も名乗るし、勝手な名前もつけるし、勝手勝手ばかりだニャ」
あからさまに不機嫌そう。やはり飼い猫の自覚もないようだ。もう野良猫でもいいのではないだろうか。
「チェイサー。忘れたらもう教えてやらないニャ」
「分かったわ。忘れるまで覚えておいてあげるね」
チェイサーと名乗る白い野良猫は、呆れ返るような大あくびを見せ、今にも寝入りそうなくらい、また一層ベッドの上で身体を丸く丸くしていく。高級ホテルのベッドはよほど心地よいらしい。
「ねえ、チェイサーちゃん。お腹すいてない? 丁度ここは良いホテルで、丁度ここにお金がたんまりとあったりするんだけど」
「ご相伴に与ってやるのニャ」
途端に、ベッドからバッと飛び降りてきた。今の今まで寝入る直前だったのに現金な猫だ。現金を見せびらかしたのは私の方なんだけども。
「何が食べたい? お魚? サラダ? ネズミは多分ないと思うけど」
「ステーキを頼むニャ。このホテルのシェフが焼いた肉は一級品だからニャ」
この猫め、ミルク入りのチョコレートをまぶしたバナナをくれてやろうかしら。
まるで事前に調べてきたみたいに言うじゃないか。
「一流シェフの一級品のステーキでもなんでも頼んであげるけど、実は私は今、猫の手も借りたいところなのよ」
「猫も杓子もギブアンドテイクだニャア」
実に上機嫌に言うではないか。さては、この猫、お腹を空かせてわざわざ私の前に現れたな。そんな根拠も何もないけれど、夕飯の献立を訊ねる子供のごとく、なんとも狙ったタイミングが過ぎる。
だけど、それが都合の良い方に動くというのなら何の問題もない。借りてきた猫みたいに猫を被ってくれるのなら猫の目のごとく変わる前に決着をつけよう。
どうせ猫は三日で恩を忘れるともいうし。
「同じ質問を繰り返し続けても?」
「猫に経を読んでも有意義になることだってあるかもニャ」
小判の価値も知っていそうな態度でよく言ったものだ。
チェイサーは足下までのそのそと歩み寄り、馴れ馴れしくもその身体を足に擦ってきたかと思えば、ぴょんと飛び、テーブルの上に鎮座した。
真っ直ぐこちらを見据えている感じだ。今なら話に応じてやってもいいという意思表示だろうか。
「お家に帰りたいから元の世界に戻る方法を教えてくれないかしら」
「犬のおまわりさんにでも頼めばいい。ま、わんわん泣いているのはルックの方だけどニャア」
「それだと結局泣くだけ泣いて帰れないだけじゃない」
コイツのペースに合わせていたら日が暮れてしまう。既に日が暮れているどころか月の綺麗な夜が訪れてしまっているわけなんだけれども。
「ルックには、きっと見えていないんだろうニャア。道というものはその言葉の響きの通りに未知に繋がっている。そういうのを人間どもが言うには、神隠し、っていうらしいけどニャ」
何とも理解しがたい言い回しをしてくれるものだ。何かの冗談を大真面目なフリをして吹聴しているのか、それともちゃんとまともな回答をしているのか。
狼少年なんてものじゃあない、信憑性のなさが底知れぬ怪しさを漂わせる。
「あなたには、未知に繋がっているという道が見えているの?」
「当然。常識に囚われすぎている人間には理解できないのニャア。右の道を行けば右にしかいけないし、左の道を行けば左にしか行けない。そんな固定観念に縛られているから道に迷ってしまう。バカだニャ」
これはどっちだ。ふざけているのか、真面目な答えなのか。言葉の半分も詭弁にもならない屁理屈に聞こえてしまう。
鳴く猫は鼠を捕らぬなんてよく言ったものだけれども、ここまで饒舌が過ぎると、何もかもがはぐらかされているような気分になる。
「世界を移動するには道を渡るだけ。難しくなんてないのニャ」
チェイサーは、また私をからかうようににっこりと笑みを浮かべる。
猫が笑うとこんなにも不気味なものだったのだろうか。
ネットで拡散したらきっと秒でバズりそうな顔をしている。
「そんなこと言われても、私はおかしな道を通った覚えはないし、気付いたら世界を移動してたんだけど」
「何を言ってるのニャ。ルックは誰の後を追ってここまできたと思ってるのニャ」
もしや、お前が犯人か。チェイサー。
私がチェイサーの後を追いかけていってしまったから、私は変な場所に迷い込んでしまい、こんな異世界にまでやってきたというのか。
「つまりチェイサーちゃん。あなたについていけば私も家に帰れるということ?」
「明瞭な帰結だニャ」
それだけ言うと、もう飽きた、とでも言わんばかりにチェイサーはテーブルの上からぴょいんと飛び降りて、気怠そうに伸びをして見せた。
「あ~あ、おなかが空いたのニャア」
どうやらこれ以上、会話をしてくれる気はなさそうだ。しかし、こちらとしてはそうもいかない。チェイサーの語る、なんとも不明瞭な箇所の多い胡散臭げなファンタジー話を受け入れるのであれば、元の世界に帰るにはチェイサーの助けがいる。
「美味しいお肉が食べたいニャア」
何故か私の方を見て、目を光らせながら言う。まさか私を食べたいなんていう意味ではないよね。食えない顔して気味の悪いオーラを出す猫だ。
「分かったわよ。美味しいステーキを焼いてもらうとするわ」
とびきり賢い飼い猫のように、チェイサーは私の足下にすり寄る。
この気まぐれすぎる猫と会話を試みるのは、かなりの骨が折れるということを今、改めて知った。これは収穫と言ってもいいだろう。
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