第35話 最後のドナー
「えらく冷静じゃないですか」
譲二が怪訝そうな顔で俺を見つめる。
「ああ。だって、最後のドナーがここにいるからな――譲二、俺の自我を使って、茜を治してくれ。そうすれば、20%の手術成功率を80%くらいにはできるだろ?」
俺は自分の心臓を左手で軽く叩いた。
『喜』、『怒』、『哀』、『楽』、そして『自我』。
五つのパーツが揃って初めて、心は完全となる。
「それがどういう意味か、わかっているんですか? 『自我』は心の脳みそです。取ったらあなたは死にます」
譲二が声を震わせて呟く。
「お前こそ、知ってんだろ? 俺の心臓はとっくに壊れてる。生まれつきの病もあるし、それに加えて、今の俺は世にも珍しい心臓のガンだ。余命も半年――いや、今だと三ヶ月くらいか? ともかく、ドナーにはぴったりじゃないか」
俺が心臓のガンを知ったのは、茜と付き合い始めた後、高校二年の冬だった。
生まれつき心臓が弱くて、タマイシ化の手術に耐えられなかった俺にとっては、年に一度の恒例行事である、人間ドッグで判明した。
心臓はガンにならないって聞いていたのに、世の中に流布している情報なんてまるで当てにならないものだ。
「だからこそ、あなたのタマイシは使えませんよ。癌細胞が魂器官と癒着しているのだから」
譲二が事実を吐く。
俺がすぐに、茜のドナーにならなかった理由がそれだ。
「ああ。周りの感情はな。でも、削れば一番奥にある自我は使えるだろ。もし、俺が自我まで癌に浸食されてるなら、今こうして譲二と会話できているはずがないんだから」
俺も正論で返す。
譲二が難色を示すこともわかっていた。
こいつが優しすぎる人間であることは、俺が一番よく知っていた。
「ボクはね。非合法なことをやっても、あくまで医者であって、殺人鬼ではないんですよ。生かすために仕事をしているのであって、その逆ではない!」
譲二は泣きそうな顔で、声を荒らげる。
いつも憎たらしい微笑を浮かべていたこいつのこんな顔、初めて見たかもしれない。
アレキサンドライトのタマイシが、緑と赤の間で激しく揺らいでいる。
「だったら、なおさらやってくれ。単純な問題だ。二人死ぬか、一人死ぬか、どっちの方がいい? ここで生きながらえても、俺の身体は、長くても一年は絶対もたない。だったら、寿命は俺が決めるよ。今日、この瞬間が、俺の精神的な寿命だ。大往生。祝福してくれよ」
元々、俺が死んだら、臓器は提供するつもりだった。
その提供する相手が見知らぬ誰かではなく、茜だったならば、こんなに嬉しいことはなかった。
「自我のドナー適合率は限りなく低いんですよ。無駄死にとなったらどうします?」
「知ってる。だからもう、とっくにコネクトでばっちり確認してあるよ。譲二が一番よく知ってるだろ。恋人や夫婦など、心的な紐帯で結びついた関係性は、殊更自我の適合率が高い。ましてや、今の俺は、夫だからな」
俺は誇らしげにクズ石の指輪を見せつけて言う。
「それでも、できませんよ。ボクには――プロには仕事のルールってものがある」
譲二が駄々っ子のように首を横に振る。
「じゃあ、破ってくれ。いや、否が応にでも破って貰うぞ」
やっぱり説得は無理か。
なら、強硬手段だ。
「そもそも心臓が弱くて、タマイシ化の手術にも耐えられないあなたが何を言ってるんですか!」
「『耐えられない』と『できない』はイコールじゃないよな。移植が終わるまで、ギリギリ俺が生きてりゃ、それでいいんだよ」
俺はそう言って、パーカーのポケットから一本目の注射器を取り出す。
そして、無色透明のその液体を自らの静脈にぶっ刺した。
ブチブチと身体の中でヤバい音がする。
痛みになれてるはずだったが、これはきつい。
脂汗が噴き出てくる。
「まさか! ボクの薬品棚から、タマイシの凝固剤を盗みましたね!」
譲二が目を怒らせて叫んだ。
そう。俺が自身に投与した一本目は、タマイシの凝固剤。
これで、俺の魂は宝石になる。
「ご名答。じゃあ、当然、次の展開もわかるよな」
俺はまずメスを取り出して、鎖骨の下の皮膚を軽く切る。
「やめなさい!」
こちらに駆けてくる譲二より早く、俺は二本目の注射器を、静脈に突き刺した。
こちらは、タマイシの誘導剤。
これで、タマイシは固定から浮動状態になる。
この世に顕在化して隠れていられなくなった心は、外界への出口を求めて傷口を目指す。
「ガッ」
瞬間、視界が暗転した。
やがて、自分が倒れたのだと気づく。
どうやら、貧血を起こしたらしい。
そして、胸に違和感。
なんだろう。乳歯が抜けて、永久歯が生えてくる時の気持ち悪さに似ている。
これが、タマイシが表出する感覚か。
しかし、一瞬でその実感もなくなり、すぐに強烈な痛みと吐き気だけが俺の脳を支配する。
どこが、とかじゃない。
全身が痛い。
のたうち回る。
「あなたは、そこまで彼女のことを……」
俺の頬に両手を当てて、譲二は泣いていた。
悪いな。
迷惑ばっかりかけるクソガキで。
「あんたの目を盗むのは大変だったんだよ。だから、頼むぜ。無駄死にさせないでくれ」
俺は精いっぱい笑おうとした。
でも、笑えているかはわからなかった。
「それは、『能面』としての依頼ですか?」
「いいや。もう、あんたに、プロとして、払える報酬は、これっぽちも、残ってねえよ。だから、これは、純から譲二への、最初で最後の甘え、だ。頼む、よ。『親父』」
息も途切れ途切れの俺は、おそらく、十二年ぶりくらいにその単語を発した。
俺の心臓がタマイシ化もできないポンコツだと分かって、親に捨てられてから、多分初めてのことだった。
「卑怯ですよ。そう言われちゃ、断れないじゃないですか」
「だから言ったんだ」
「なにか、彼女に言い残すことはないんですか。いきなり目覚めて、純がいないと知った彼女に、ボクはなんて言えばいいんです」
「……頭ん中、ごちゃごちゃ、で、なんて、言っていいか、わかんねえ。まあ、移植が、成功したら、俺の、考えてる、こと、なんて、茜に、以心伝心、だ。問題ない。絶対成功させてくれ」
そう言いながら、俺は必死に首を下げて胸の辺りを見ようとした。
でも、見えねえ。
タマイシってやつは、他人からは見えやすいのに、自分には見えにくい絶妙な位置に出てきやがる。
なあ、茜。
俺の心は、どんなタマイシだろうか。
茜のオパールみたいに、とびきりの一級品なんて望まない。
でも、せめて、ちゃんとした宝石だろうか。
いや、もし、どうしようもなく汚いクズ石だとしても、それでもお前は俺を愛してくれたよな?
絶対にそうだ。
茜。
好きだ。
茜。
愛してる。
茜。
もっとお前と、くだらない話をしたかった。
もっと、キスして、触れて、嗅いで、お前の体温を感じて生きていたかった。
茜。
幸せになってくれ。
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