エピローグ 奇跡とは呼ばせない
第36話 そして彼女は目を覚ます
私が目を覚ますと、見慣れぬ木目の天井があった。
上体を起こすと、壁掛けの時計が午後三時を示している。
「おはようございます」
初めてなのに、聞きなれた声だった。
隣を向くと、白衣を着た穏やかな顔の男性がいた。
「お、おはようございます」
「ボクは心科学医の岡本譲二と申します。一度だけ電話でお話しさせて頂きましたね」
「は、はい。その節はどうもお世話になりました」
私は反射的に頭を下げた。
その存在は知っていたが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
彼の話で聞いていたよりも、譲二さんはずっと優しそうな印象だった。
「こちらこそ。――さて、突然のことで混乱しているでしょうが、これからボクがするいくつかの質問に答えてください」
「え? あ、はい」
私は頷く。
「ではまず、あなたは自分の名前を覚えていますか?」
「はい。空海茜、です」
「何歳ですか?」
「17歳の高校三年生です」
「ふう。どうやら、自我の定着は問題ないようですね。混濁もなさそうだ。――どこか身体に異常はありますか? 痛い所とか、不快感とか」
譲二さんは若干ほっとした様子で、質問を続けた。
「いえ、どこも――あっ、タマイシが」
自身の身体をペタペタと触っていた私は、近くにあった姿見を目にした瞬間、異変に気が付く。
物心ついた頃から慣れ親しんでいたタマイシが、オパールから灰色の普通の石へ――口の悪い人が『クズ石』と揶揄するようなそれへと変わっている。
「それは異常ではありませんよ。全ての絵具を混ぜ合わせたら黒になるように、色んなタマイシを混合すると、どうしても単一の宝石にはならないのです。どうしてそうなったか。その辺りの事情も把握していますね?」
「はい! 私は純と旅をして、純が私のためにタマイシを集めてくれて、最後にこの病院にやってきて――そうだ! 純は! 純は、どこですか?」
左手薬指の指輪を見て、私は立ち上がった。
全て覚えている。
まるで身体を動かせない不自由な夢のように歯がゆい記憶だけど、純との旅の思い出は全て私の頭の中にあった。
旅の始まりに食べたお弁当も、砂丘で純とじゃれ合ったことも、彼に買ってもらったパンダのぬいぐるみも、それをバスの中に置き忘れてしまったことも、最高の結婚式で、純が口づけをしてくれた時の感触も、全部覚えている。
そして、ここは純の家だ。
一緒にこのクリニックまで来た。
薬を飲んで、そこからの意識はないけれど、私がこうしてここに存在するということは、手術は成功したのだろう。
早く、早く、一刻も早く、彼に会いたかった。
抱きしめて、キスをしたかった。
「……」
譲二さんは答えなかった。
泣き笑いのような表情で、ただ私を――いや、私のタマイシを見つめていた。
「純は、もうこの世にいないんですか?」
そんな台詞が自然と口をついて出た。
自分でも信じられなかった。
でも、わかってしまった。
なぜか、もう純に会えないと、理屈ではなく心で理解してしまった。
「やはり、わかりますか。そうですよね。あれだけの量の純の自我を移植したんですから」
譲二さんは、悲しそうな、でもどこか納得した表情で力なく頷いた。
「純は、本当にもう……」
「はい。会っていかれますか? 専門医としては、本当は、術後間もないあなたに心理的な動揺を引き起こすような接触は避けるべきなんですけどね。律儀にマニュアルを守ると、あなたは純の葬儀にも出られないことになるので……」
「会わせてください」
私は譲二さんの目を見て即答する。
嘘であって欲しい。
これは純が計画した性質の悪いサプライズなんじゃないか、とか。
まだ、私は夢を見ているんだ、とか。
脳みそはいくつもの彼が生きているかもしれない理由を考えるけれど、私の魂は――私の中にいる彼の一部が、それを許さない。
「下です」
譲二さんはそれだけ言って立ち上がると、私をクリニックへと案内した。
他に人影はない。
おそらく、今日は休診にしたんだろう。
一室の扉が開かれ、譲二さんが手振りで私に入室を促す。
肌寒いほどクーラーがきいた室内に、純は静かに横たわっていた。
銀色のストレッチャーに載せられて、ドライアイスが彼の輪郭を縁取っている。
鎖骨の下あたりには、タマイシを表出させた跡があった。
今、そこはぽっかりと空いた虚空で、彼の魂を私が奪ったのだと、如実に示している。
「純! 純! 純!」
彼の身体にすがりつく。
その青白い頬に唇を寄せても、もう温もりが返ってくることはなかった。
純は笑っていた。
純は、きっと、私がこうして彼の死体を見ることまで想定していたと思う。
私の気を煩わせないために、最後まで無理して笑顔を作ってくれたに違いない。
それが分かるから、なおのことを辛い。
私の頬伝う涙が、彼の長い睫毛を濡らした。
童話なら彼が目を覚ましてハッピーエンドになる場面なのに、彼は物言わぬ屍のままだ。
「わ、わた、私のために純が、私が純を殺して――」
「それは違います。彼は心臓の癌でしたよ。だから、寿命だったんです。彼はドナー移植を希望していましたから、それが少し早まっただけです」
「えっ? 純が、癌?」
愕然として、譲二さんの方を振り向く。
「ご存じありませんでしたか。では、純の心臓が生まれつき弱かったことは?」
「え、え。そんな……。わ、私、なんにも。ああ、でも。そうか! そうだったんだ! どうして気が付かなかったんだろう。いくつもチャンスはあったのに」
私は両手で自分の頬を叩く。
その瞬間、全てを理解した。
思えば、気付けるポイントはいくつもあったのだ。
決してコミュニケーション能力が低くない彼が、人を避けていた訳。
運動神経が悪くなさそうな彼が、文芸部に入っていた理由。
児童文学が好きだっていうのももちろんあるだろうけど、そもそも激しい運動ができなかったんだ。
私と『そういうこと』をあまりしたがらなかった原因も、それなら説明がつく。
そもそも、学校を頻繁に休んでいたのも、彼は『仕事』を理由にしていたけれど、それだけな訳ないじゃないか。学校に『非合法のお仕事で休みます』なんて届けられるはずないんだから。当然、頻繁な病欠が認められる公式な理由があったに決まっていたのに!
(私は、何にも、純の苦しみを知らずに、呑気に彼との時間を楽しんで――!)
私は自分自身を憎む。
昔から、多分、癌になる前から、純はきっと、自分がそう長く生きられないことを理解していた。
だから、なるべく人を避けて、彼自身も、彼が親しくなった誰かも傷つけないように生きていた。
そんな彼の平穏を壊したのは、まぎれもなく私だ。
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