第二章 怒。だから、世界はクソだけど
第17話 幸福の帳尻
そう世の中は甘くできてなかった。
四週間ほどをかけて、東京、埼玉、千葉を巡り、また神奈川に戻ってきたが、それでも成果を得られない。
幸いというべきなのか、茜は元気で明るいままで、一見、病状は安定しているように見えた。
でも、きっとそう感じるのは俺の気のせいだ。元々、茜はネガティブな感情よりも、ポジティブな感情の方がずっと多い人間だったので、病状の進行が遅くなったように見えているだけに違いない。ゲームに例えるなら、ポジティブな感情の方がHPが多いのだ。
そこからは東北方面に向かうか、東海方面に向かうか、二つの選択肢があった。
選んだのは、後者。
単純に人口の問題で、東海地方の方がドナー候補の数が多いからだ。
だが、一時間後、早くも俺はその選択を後悔し始めていた。
六両編成か、三両編成の鈍行はいつもそれなりに混んでいて、上手く席が確保できるとは限らない。仮に確保できても、ボックス席はほぼ存在せず、ほとんどが通勤・通学に使うような横並びのロングシートだ。
つまり、長時間快適に座っていられるような席ではなく、じっとしているとケツが痛くなるので、これなら立っていた方が楽かもな――と一瞬思ったりもするのだが、やっぱり立ちっぱなしでいるには長すぎる距離だ。
大都市間の移動なら新幹線を使えばいいのだが、厄介なことに、ドナー候補が各停の駅周辺に集中していて、スキップすることもままならない。
東海地方に出発してから、数件目のドナー候補巡りを終えた夕方のこと。
俺は鈍行の電車の、一つしか空いていない席を茜と共有していた。
お互いずっと座っていると身体がなまるので、三十分おきくらいに交代を繰り返している。今は、茜が座っているターンだ。
「あのね。青春18切符の旅で、静岡あたりは鬼門なんだって」
スマホで情報を調べたらしい茜が、ふと呟く。
「そうらしい。でも、茜は楽しそうだな」
「うん。だって、その分、純といっぱい喋れるじゃん」
「さすがに飽きてこないか?」
別に俺は言葉を必要としてなかった。
今更、沈黙が気まずくなるような間柄でもない。
ただ茜の側にいられれば、それで幸せだった。
「そんなことないよ――じゃ、あれやろ? 1個、10分換算ね――『心はいつ震える?』」
茜はそう言って、胸のオパールを撫でて、俺を上目遣いで見た。
それは、ゲームの『合図』だ。
お互いの好きなところを、しりとりみたいに交互に言い合う。
先に言えなくなった方が負けで、当然、負けた方には罰ゲームが待っている。具体的な罰の内容は、ジュースを奢らされたり、学校の教師の物真似をやらされてり、その時々だ。
今回の場合は、負けた方が長く立っているということらしいが、果たしてそれが罰ゲームになるかは疑問だった。
まあ、どうせ結果は見えている。
多分、いつも通り、俺の負けだ。
そもそも、俺があんまり喋りたがらない性質だからこそ、茜は殊更このゲームをやりたがるのだから。
「座る時にスカートを抑える仕草」
俺は呟く。
このゲームは、本当は、他に誰も聞いていないような所で、二人っきりだけでやる秘め事だった。
でも、今の茜には『恥ずかしい』という感情もないから、そこまで衆目も気にならないのだろう。
端から見れば完全にバカップルだ。
ああでも、いいさ。
旅の恥はかき捨てだ。
今くらいは、恋は盲目な馬鹿野郎になってやる。
「こう?」
茜が、座り直すふりをしてワンピースの裾を押さえた。
彼女の中から恥ずかしいという感情はなくなっても、その行動は完全に習慣化しているのか、動作を覚えているらしい。
「ああ。――『心はいつ見える?』」
これで、攻守交替。
タマイシを持たない俺の心を、茜は見えるという。
だから、この言葉が合図になった。
「道端の猫のお昼寝を邪魔しないために散歩の道をこっそり変えた時」
茜が即答した。
さっき、サクラさんの猫画像のラインを見たから、猫の話題を出してきたのだろうか。
「あれは違うぞ? たまたま、一本奥の道に新しいラーメン屋ができたことを思い出したからでな――」
「そうなんだ。でも、反論禁止がルールでーす。『心はいつ震える?』」
俺の反論をぴしゃりと封じる茜。
「限定メニューの最後の一つのスイーツセットを、子どもに譲ってあげた時。『心はいつ見える?』」
「私のためにいつも車道を歩いてくれる時。『心はいつ震える?』」
「茜の体温を感じて落ち着く時。『心はいつ見える?』」
「えへへー。純が――を辞めてくれた時。あれ? えっと、おかしいな。すごくうれしかったんだけど。なんだっけ――」
一瞬、『無』の表情を浮かべる茜。
「俺の勝ちだな」
俺は一方的にそう宣言して、強引に話題を打ち切った。
本当は、茜が何を言おうとしていたのか大体の見当はついていた。
空欄に入る言葉は、『仕事』か『タバコ』だろう。
そうだよ。
茜が喜んでくれるのは、いつでも俺の人生が良くなった時だった。
荒んだ――というほど大げさではないが、投げやりで雑な生活を送っていた俺の一日一日を、丁寧な日常に変えてくれたのが彼女だった。
茜が悲しむから俺は多くの、『絶対に必要ではないのに、何となく続けていた習慣』を辞めた。
そして、悲しかった記憶を、茜はもう思い出せない。
だから、悲しかったことを辞めてくれて嬉しかった記憶も、彼女の中では不完全になって当然だ。
初めて、勝ってしまった。
勝っちまったよ。茜。
「負けちゃったー。じゃあ、席は交替だね」
負けたのに嬉しそうに立ち上がる茜。
『次は浜松、浜松――』
「もうすぐ着くぞ」
そんな彼女の手を引いて、俺はドアの前へと歩みを進める。
空いた席を、スポーツバッグを持った部活帰りの学生が埋めた。
やがて、電車がホームへと滑り込む。
停車駅の多い鈍行を、その時の俺は情けなくも救いに感じた。
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