第2話 君のいない町で(2)

 チャイムが鳴って、放課後がやってくる。


「あの、久世くん。ちょっといいですか?」


 ドアから近い席のメリットを最大限に活かして、最速で帰宅の路につこうとした俺に、話しかけてくる一人の女生徒がいた。


 きっちりと切り揃えられたロングの黒髪に、縁なしの眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな外見の彼女。


「ああ。……伊笹いざささん。なに?」


 伊笹 玲奈いざさ れな


 このクラスで顔見知りと言ってもいい数少ない一人からの声掛けに、俺は動きを止める。


 彼女の心を体現した、初夏の新緑のごとき翡翠のタマイシ。

 淡く優しい色をしたそれが、西日に照らされて揺れている。


「えっと、進路調査票なんですけど、提出期限が明日の朝までなんです。それで――」


 そこで伊笹さんが口ごもった。


 その緊張を反映したように、翡翠の緑が薄くなり、白色に近い色を呈する。


「ああ、そっか。明日までか。えっとどこにやったかな――あったあった」


 俺は置き勉をしていた教科書を何冊か引っ張り出し、パラパラとめくる。

 数学の教科書の最後のページに、二つ折りにして適当に挟んであった。


「見つかってよかったです」


「もしかして、俺が最後? ド忘れしてた。手間かけさせて悪いな」


 伊笹さんがクラス委員をしていることは、転入初日に校内を案内してもらった時から把握していた。それからも、色々と親切にしてもらっている彼女に迷惑をかけるのは申し訳ない。


「いえ、その、いいんです。私が進路調査票を渡す時に期限を伝えてなかったのが悪いので。それで、もし、考える時間が必要なら、久世くんの期限を延ばすように私から先生に頼んでおきますが、どうしますか?」


「ああ、大丈夫。今書くから」


 俺はプリントのしわを伸ばし、自分の成績に鑑みて妥当と思われる進学先を適当に三つピックアップして記した。

 別に就職なら就職でもよいのだが、進学の方があれこれ口を出される可能性が少なそうなので。


 そう。つまり、提出を忘れていたというよりは、興味がなかったのだ。


 わずか一年先の未来も、今の俺にはどこか現実感がない。


「あの、それ、本気ですか?」


 伊笹さんが複雑な表情で俺の提出したプリントを受け取る。


 彼女の翡翠がちょっと曇った。


「え? うん。情けない話だが、特に将来やりたいことが思い浮かばなくてな。大学行ってからゆっくり考えようと思ってる」


 半分本当で、半分嘘の答えで俺は誤魔化す。


 モラトリアム学生にありがちな模範解答。


 俺にはタマイシがない。


 嘘はつき放題だ。


「……そうですか。それで、あの、クラスの連絡事項なんですけど、グループラインで流すことが多いんです。今回の進路調査票の締切りのリマインドとかもそっちでやってて、それで あの、久世くん、スマホは持ってますか?」


「持ってるよ。あんまり使わないけど」


 俺はポケットから、二世代くらい前のスマホを取り出した。


「そうですか! じゃあ、ライン教えてください!」


「うん?」


「あ、あの、変な意味じゃなくて、友達登録しないとクラスのグループに招待できないから! あの、でも、もちろん、久世くんと友達になりたくないっていう訳でもなくて!」


 伊笹さんは急に早口になり、しどろもどろにまくしたてる。


 彼女のタマイシが、緑、白、青と目まぐるしくその色を変えた。


「ありがとう。色々気を遣ってくれて。えっと、これでいいんだっけか」


 俺はぎこちない手つきでQRコードを表示させて、スマホごと伊笹さんへと差し出す。


 なにせ、誰かの連絡先を新しく登録するのは、一年半ぶりだ。


「ありがとうございます! ――はい! これで私たち友達ですね!」


 秒速で登録を終えた彼女は、俺にスマホを返しながら、そう断言した。

 その口元が柔らかくほころんでいる。


「そうだね」


 俺は頷いた。

 画面の『友だち』欄に、伊笹さんが追加されているということは、つまりそういうことなのだろう。


 彼女の飼い犬とおぼしきミニチュアダックスのアイコンのつぶらな瞳が、画面越しにこちらをずっと見つめている。


「えっと、じゃあ、友達になった記念に、もっと、久世くんのことを訊いてもいいですか? 駅につくまでの時間でいいですから」


「ああ。俺に答えられることならな」


「じゃあ、まず、どうしてこの学校に転校してきたんですか?」


 伊笹さんが単刀直入にそう切り出してきた。


 タマイシが普及した影響だろうか。

 この世界では、とにかく心に正直なことが美徳とされている。

 友人関係において、心に抱いたことを正直に言うのは、それが相手のことを思いやってのことなら、何でも許されるらしい。控え目な彼女ですら、俺のプライベートに踏み込むのを躊躇しないくらいに。

 実際、彼女からは100%の善意しか感じなかった。


「失恋したんだよ。それで、逃げてきた」


 再び教科書を机の中に戻しながら、俺は静かに呟いた。


 さすがにテストを目前に控えた金曜日だけあって、生徒たちの帰宅は早い。


「え、あの、ごめんなさい。えっと、何て言ったらいいか」


 予想外の返答だったのか、伊笹さんが申し訳なさそうに俯く。

 翡翠が、さらに曇りから黒に近い色へ転ずる。


「いや、気にするな。俺から彼女を振ったんだ。だから、俺は傷ついてない。俺は傷つけた側だ」


 それは、実際、100%、混じり気のない真実だった。


 伊笹さんの善意への対価となる情報としては、これで十分だろう。


 俺がろくでもない人間だと伝われば、それでいい。


「えっと、ご自分から別れたのに、失恋ですか?」


 伊笹さんが小首を傾げる。


「ああ。話せば色々と長いんだが、今はこれ以上のことは言いたくない」


 俺はきっぱりとそう告げた。


 嫌な時に嫌だというのも、これまた、この世界の美徳。


 そして、ここから先は、俺だけの罪で、彼女と俺だけの思い出だ。


 親切なクラスメイトとは言え、話すべきことじゃない。


「わかりました。言いにくいことなのに話してくれて嬉しいです」


 伊笹さんが素直に頷き、口元をほころばせる。


 翡翠も、平常時のグリーンへと戻っていた。


「ああ……。それより、どうせ俺について訊くなら、もっと楽しいことにしないか。例えば、俺が飼っていた海で産まれた猫の話とか、もしくは子どもの頃、たくさん石を食べすぎて死にかけた話とか」


 俺はまた、嘘の仮面を被って、そうおどけてみせる。


「ええ? なんですか、それ! すごく気になります」


「そうだろう。どれから聞きたい?」


「えっと、そうですね! それじゃあ――」


 伊笹さんととりとめのない会話をしながら歩く帰り道。


 やっぱり俺は、自ら捨てた彼女のことを考えてしまう。


 ふとした仕草を彼女に重ねて、比べて。


 そんな行為に、何の意味もないと分かってはいるけれど。


 きっと、俺が最後に見た彼女の表情は、あまりにも悲痛だったから、少しでも記憶を上書きしたいと、心が無意識に求めているのだ。



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