第3話 回想 俺がクズになった日(1)

 俺が彼女――空海 茜そらみ あかねに別れを告げたのは、五カ月前。


 カレンダー上ではとうに立春を迎えたとはいえ、まだ冬の気配の濃い2月のことだった。


 場所は彼女に出会ったのと同じ七里ヶ浜の海辺で、彼女に出会った時とは真逆の、憎たらしいほどの快晴の日だった。


「初めから、好きじゃなかったんだよ。茜のことなんか」


 城壁にも似た堤防を背に、俺は彼女と視線を合わせず、遠景のサーファーを眺める。


 左手に握るペットボトルのコーラは、ぬるくてもうおいしくない。


「嘘だよ。どうしてそんな嘘つくの! 純がもしそんな人間だったなら、私が好きになるはずないじゃん! 下心だけで告白してくるような人は、何人も見てきたもん!」


 それはそうだろう。


 彼女が告白された人数は、二桁をくだらない。


 俺と付き合ってからも、人数は減ったとはいえ、月一ペースでそういうことがあった。


「そいつらの中で、俺が一番、偽るのが上手かっただけのことだ」


 俺は小馬鹿にしたように答えた。


 トンビが、観光客の食事のおこぼれを狙って、空中を周回している。


「なにそれ! ふざけないで。私を嫌いなったのなら、きちんと理由を教えてよ! 治せるところなら治すし、治せないなら話し合おう!」


「うるさいな。初めからヤリモクだったって言ってんだよ!」


 俺の肩を掴んで、強制的に向き合おうとする茜の手を払う。


 俺は彼女を見られない。


 見てしまったら、別れる決意は簡単に揺らいでしまう。


 ああ、でも、見なくても分かる。


 分かってしまう。


 世界で一番綺麗な、彼女のタマイシ――七色に表情を変えるオパール。


 漆黒の闇に輝くオーロラみたいに揺らめいて、感情豊かな彼女の代弁をしているはずだ。


 染めているのではないかと疑われる天然の茶髪のショートヘア。


 湿気を孕み、ウェーブのかかったそれは、近くで嗅ぐとシトラスの香りがする。


 きついオレンジの芳香は、彼女の体臭と合わさると、もう少し優しくて柔らかなみかんのような匂いになって、俺はそれが好きだった。


 負けず嫌いだから、彼女のそのぱっちりとしたアーモンドアイは、きっとうるんではいない。


 辛い時でも、笑える強さを茜は持っている。


 ああ、でも、一人になってから、きっと泣くんだろうな。


 うさぎみたいに鼻をひくひくさせて。


 わざと不細工になろうとでもいうかのように、ネズミみたいに唇を歪めて。


 頃合いを見計らって、俺みたいに変顔画像を送り付ける誰かに、彼女はまた出会えるだろうか。


「嘘つき。純は私の身体を気遣って、あんまりそういうことはしたがらなかったじゃん。私、結構気にしてたんだからね。女の子から誘ってもいいのかな、とか。純が我慢してるんじゃないのかな、とか。その不満が溜まって、他の子に浮気しないかな、とか。色々!」


「それも演技なんだよ。がっつく奴ばかりだから、奥手なふりをしていた俺に、まんまと騙されただろ。お前」


 わざと傷つけるようなことばかり言った。


 美しい思い出は、鈍いナイフの傷のように長く残る。


 『別れても友達』なんて最悪の関係だ。


 逆に鋭い傷なら、その一瞬は派手に見えても、結局は治りが早い。


 ここまで俺がクズなら、天真爛漫に見えて実は心配性なところがある彼女も、100%自身に非がないと理解してくれるだろう。


 きっと、『次』にもいきやすいはずだ。


「また嘘。騙そうとする人は、もっとズルいよ。そんな言い方は絶対にしない。どうしてわざと自分を傷つけるようなことばかり言うの? 嘘はやめて、本当のことを教えて」


 茜が声を震わせる。


 『本当のこと』が言えたら、どんなに楽だろう。


 だけど、それはできないんだ。


 俺のわがままかもしれないけど、この嘘は貫き通す。


「さっきから、どうして俺が嘘をついていると断言できる? 俺は茜と違って立派なタマイシを持っちゃいない、『タマナシ』だぞ?」


 さあ、次は『彼女に嫉妬する器の小さい男』だ。


 どこまでいけば、俺に幻滅する?


「わかるからわかるんだよ。タマイシが見えたって、その人の全部が分かる訳じゃない。純が一番よく知ってるくせに。どんな理屈を並べたって、私たちが積み重ねた時間はなかったことにならないんだよ」


「それは、茜がそう信じたいだけじゃないのか」


「じゃあ、純は全部嘘だって言うんだ。猫の死体とメッセージボトルの秘密も、ジャンプを失敗したイルカでびしょぬれになったあの水族館も、エアコンが壊れた純の部屋で臭くないかなって二人で嗅ぎ合って、それで――」


「ああ、そうさ。全部ただの暇つぶしだよ。俺と出会った時、茜が弱ってたから、普通なら手が届かないような美人に近づくチャンスだったと思っただけだ。何度も言わせるな」


 ダメ押しするように言った。


 彼女が、美人であることにコンプレックスを持っていることを、一番よく知っているのは俺なのに。


 眩すぎる光には、羽虫がたくさん寄ってくる。


 美しい宝石は多くの人が求めるが、その求められる宝石の気持ちを、誰が分かってくれるのだろう。


「……信じないよ! 私は、信じないから! 『大切なものは目に見えない!』。でしょう!?」


 俺が柄にもなく絵本や児童文学が好きだと知っているのは、彼女だけ。


 心が見えるようになった世界でも、まだ堂々とそう言い切れる彼女の心の透明度が、俺には眩しい。


 dear:星の王子様。


 棘のない素直な薔薇とは、喧嘩すらできません。


「勝手にしろよ」


 俺はそう言い捨てると、茜に背を向けて歩き始めた。


 スマホから、彼女の連絡先を消去する。


 ここまでしてもなお、きっと茜はまだ思ってる。


 俺と仲直りできると。


 これは何かの間違いなんだと。


 そんな彼女を振り切るための手段を、俺は一つしか思いつかなかった。

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