第8話 ありふれた、スクールライフ

大きな溜息をついて、自転車を止めて玄関のドアを開ける。既に日は落ちかけて、時刻は6時半を回っていた。

ブレザーを脱いで、また大きな溜息をついて、トイレの扉を開ける。すると、トイレの棚に見慣れないものがひとつ。


「これって···」

フランス人らしき詩人の詩集が、商材写真のように横たえていた。仏像巡りの雑誌しかおかない両親がこれをトイレの棚に置いておくはずはない。つまり···


「悠希、久しぶり」

ドアの向こうからどもった声がした。ドアを勢いよく開けると、ゴツンという打撃音がしたのちに鼻を赤くして倒れている兄がいた。

「兄さん、帰ってきてたの?」

「うっ、鼻が····」

とうめきながら、兄はこくんと頷いた。

「前に電話で言った件でさ、彼女と同棲することになったから、要らない家具を置いていこうと思って。あと、少しでも金になるものがあれば持っていこうと」

と、立ち上がりながら答えた。兄は同棲が決まってから、以前と打って変わってすっかり守銭奴しゅせんどになってしまった。昔は顔も、性格までもが僕とほとんど違わなかったものだから、「ケチなほうが兄で、優しいほうが弟です」なんて識別法が今になって生まれてしまった。

「はぁ・・・」

僕はうっかり、なんとなく溜息をつく。

「やれやれ、溜息つきたいのはこっちの方だよ。トイレの扉に鼻ぶつけるし、明日も一限から講義入ってるし」

そう言って兄は頭を掻く。

「悪かったって。ところで、要らない家具ってどんなのを持ってきたわけ?」

「別に、お前が見て面白いと思うものはないと思うぞ。デカめの観葉植物とか、そんなもんばっか」

「なんだ、期待外れだなぁ」

そう言い残して、僕はさっさと自室に向かった。




日曜。何をするでもなくだらだらと過ごしていたら、彩人からラタトゥイユとかいう洒落た料理の写真が送られてきて、それが正午の知らせだった。

その後も適当にだらだらと過ごし・・・月曜日になった。



教室に入ると、男子バドミントン部がまた藍川さんの話をしていた。こいつらも俺みたいな告白をして例のごとく毒舌を喰らわないことを願うばかりだ・・・。彼らの無事を祈って、自席に向かった。窓側の席では彩人が熱心に料理本を読んでいた。藍川さんはまだ来ていないみたいだ。安心して一息ついて、バッグを置いた。



「なあ、佐藤はどう思う?」

「え?」

急に話しかけてきたのは、件の男子バドミントン部の瀬川だ。

「いや、何が?」

「決まってるだろ。転校生の藍川さんのことだよ。綺麗で、おしとやかで、都会的に洗練されてるって感じ?がステキだよな」

「はいはい、そうかいそうかい」

瀬川が純粋な瞳で「彼女はおしとやかで」なんて言ってるのを聞くと、いたたまれなくなってくる。なんだかもう、彼女についての話にはげんなりしてしまって、僕は適当にあしらうような返答をする。

「なんだよ、もしかして興味無いのか?1人の健全な男子高校生として、それはどうなんだ?・・・っていうか、聞いたところによると、土曜日に藍川さんと料理なんかしたらしいじゃんか。どうだった?あと、どうやってそこまで漕ぎつけたわけ?」

「いや、別に。成り行きで」

溜息が出る。返事するのも若干面倒になってきた。思い出したくないアレが脳裏に浮かび、また自分が少し嫌になる。そんな僕の対応を見て、瀬川はいたずらっぽい笑みを見せた。

「・・・ははーん。なるほどね、ユウキくんは天崎しか眼中にないってことか」

「いや、そういうわけでもないし。アカネは中学が同じだけで、そういうことはない」

「そうかい、俺は信じないけどな」

そう言って瀬川はバドミントン部の集団へと帰っていった。どうやら土曜日のお料理会の話を聞きだしてくる役割だったみたいで、瀬川の話を一同が集中して聞いている。机にへばりつくように倒れこみ、またもや溜息をついて、ここ三日間溜息をつくことしかロクにやってないななんて思う。

「はぁ・・・」


「どうかしたの?」

「え」

驚いて、椅子をガタッと鳴らして飛び起きる。右を見ると、藍川さんがきょとんとした表情で立っていた。

「うわっ、びっくりした」

「びっくりしたのはこっちだよ、急に大きい声出して驚くし」

そういって僕を見る彼女。土曜日のことがまるで嘘だったみたいな、天使みたいな表情を浮かべていた。

「ちょっと、来てもらえるかな」

「え・・・ああ、いいけど」

一瞬心がときめきかけたが、彼女はきっと「陽キャ化作戦」の話をしに僕を呼び出しているのだろう。ああバドミントン部、そんな目で僕を見るな。これはそういうんじゃないんだ。特に瀬川、目に憎悪を感じるぞ。




「さて」

・・・そんな具合で、裏庭へとやってきた僕ら。

「で、なんで裏庭?」

「決まってるでしょ。あなたみたいな結婚詐欺師としか結婚できなさそうな無味無職無乾燥男と一緒にいるところなんか見られたら、また転校するしかないじゃない」

開口一番に容赦ない毒舌を食らわせられ、げんなりする。

「はぁ、わかったわかった。それで、僕は何をすればいいわけ?」

げんなりした表情の僕を見もせず、か細い低木を見つめながら彼女は言う。

「前も言ったけど、私が陽キャになるために協力して欲しいの」

「・・・というと、どうやって?」

と尋ねると、彼女はすばやく振り向いて、僕の眼前に指を突き出す。

「決まってるじゃない。陽キャは陽キャから認めてもらわなきゃいけないでしょ」

「でも、君は認められてるんじゃないの?ハイスペックだし」

そういうと、彼女は満足そうに笑う。

「・・・そういうんじゃなくて!仲間に入れてもらう、これが最初の作戦」

まあ妥当な作戦だなぁ、と思って、ふと気づく。

「僕が手伝うこと、なくないか?」

・・・沈黙。


しばらくして、彼女は恥ずかし気に口を開く。



「・・・私、自分から陽キャに話しかけられないの」



案外彼女も僕らに似ているのかもしれない、なんて思って少し笑った。

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ありふれた僕がただ一つ欲しいもの ビネガー酢漬け @naroukainojuuminn

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