第3話
八
「いらっしゃいませ、真由美です」
男二人が生唾を飲みこんだ。
「初めて? ですよね」
真由美は言うと、ポケットからハンカチを取り出して、量を減らしたグラスを手に取り、水滴を拭きとった。
「何か飲んで下さいよ」
伊集院が舐めるように観察しながら言う。
「お言葉に甘えて、戴きます」
言った途端に立ち上がり、スカートを翻しながら反転して歩き出した。
夏を過ぎたこの時期に、薄手のワンピースを着ていた。ともすれば空気感さえ背光に変え、鮮やかな色調と笑顔を同化させている。
ハタチを超えているだろうが、アンバランスさが魔性を取り込んでいるように感じられた。
六オンスグラスにウーロン茶を入れたドリンクを持ち、二人の男の視線を虜にしながら戻ってきた。
「戴きます」と、グラスを掲げる。
「小さ過ぎませんか? 同じグラスで呑めば良いのに」
伊集院が、酒の力を借りた戯れを囁いた。
「妄想家の方から、紹介されて来たんだから、ねっ!」
中里が冗談半分に言う。
「そういうことでしたら、遠慮なく戴きます」と、再び妖艶を振り散らし、カウンターに向かっていった。
「どっから見ても、同じDNAとは思えないよ」
中里は、不可解を口にした。
真由美が戻り、中里の隣に腰を据えた。
「ご縁に感謝して」と中里が言う。
「新時代に先駆けて」と伊集院が言い。
「軍師様とソフィア様に、乾杯」
真由美がグラスを翳した。
男二人が固まっている。
「どうしたんですか」
「哲学を専攻していたの」
「父の受け売りですよ」
「父・」
「お店での設定なんです」
「なんで妹さんと言ったのかな」
「お他人様ですよ」
「理由を教えて欲しいなぁ」
「同じ高校に通っていました」
「えっ、同級生なの」
「違います。それに、私はちゃんと卒業していますからね」
「良く解らないなぁ」
「懐刀とも言っていたよ」
「
「好奇心旺盛な小娘とも言ってたよ」
「小娘ですか」と言った真由美が、
無の状態を終わらせたのは、感性の呟きであった。
孤独感に苛まれた感性がこの世の始まりであり、創世主である。
藻搔き苦しみ、身を削って抗った。削り墜ちるものが神々であり、取り巻きとして周囲に纏わり付いている。
感性の
想いは限りを知らず、
想いが募り、実体を創り出していた。
行動に制限があることが、全てを凌駕して、その存在だけが現実味を帯び始めていた。
合成・分離・反発、たった三つの行いが、遂には光りを創り出し、更には今生を煌めかせている。非実体が彩りを発し、その存在を具現化させて行く。刻まれた時は経験として、この世が確かに造られたのだった。
果てのない宇宙に、限りのない星々。
感性が画いた想像が、全て現実となっていた。
男二人が眼を点にして酔いを覚まし、その途方のない妄想に度肝を抜かれていた。
「それが、森羅万象? なの」
「書き出しの一部分、なんですよ」
「暗記する程、読んでいるのか」
「瞳を閉じ、瞑想に墜ちると、
「若しかして、悪人たちが、うさぎ赤瞳という人を抹殺したい理由? なのかなぁ」
「権威、というものが、裏工作を始めた理由、と
「失敗した。手を伸ばせば読めたのに・・・」
「何故」
「どうしたの?」
伊集院は、真由美の杞憂を見逃さず、取り柄の優しさで支えるつもりでいた。
「封印したものを持ち出した理由が解りません」
決意で志を支え、真由美は気丈に云い放つ。
「封印、って。俺を待ち続けていた。と言っていたよ」
中里は、禁戒に触れたとばかりに、経緯を述べる。
「信用に足りる方、とは言ってました、が」
真由美は内輪話しを隠すつもりがないようだ。
その覚悟を信用した伊集院が、
「命を捨ててもいい、という覚悟があったんじゃないかなぁ」と、中里を庇う。
「お二人が見方になると展開が変わる、とも言ってました」
手応えを感じた真由美は笑顔を繕い、
「僕は、
「昼間も言いそびれたんだが、俺は、中里正美で、ひふみとは腐れ縁の仲なのさ」
「私は、鈴木真由美です」
「源氏名は、本名なんだね」
「懐刀? って聴いてるかい」
「
「鬼神力」
「なんですかそれは」
「本の虫になれば解る? らしいです」
「本の虫か。そう言えば、読書の話しをしたよ」
「芥川龍之介さんに、泉鏡花(泉鏡太郎)さんのことかな?」
「通過点なので、
「僕は、とんでもない人たちと拘わっちゃったかも知れないね」
「伊集院さんは、私の虜になる設定で、店に通って頂きます」
「俺は」
「中里さんは、大震災に備えて下さい。伊集院さんとの連絡で、状況は把握できるはずですから」
「そういうことか」
「どういうこと」
「一二三が通うことで、うさぎ赤瞳さんに会えるのさ」
「安全なうちに、
「情報」
「嗜みですよ、人としての」
「嗜みって? どういうことなんだい」
「そう言いなさいと言われただけで、中身はまだ教えられていません」
「一緒に覚えましょう」
伊集院は刹那に応えていた。
「はい」と応えた真由美に、したり顔が見えていた。
九
二千 七年 一月 某日
伊集院が真由美の元に通い出して三カ月を迎えようとしていた。
「明日のランチのご予定は」
真由美の問い掛けに、伊集院が断る理由は見つけられなかった。ふたつ返事で了承して、妄想を膨らませる始末であった。
約束の十一時には、まだ一時間近くある。トラウマを言い訳に、期待は実直に、
妄想を膨らませ過ぎて、不気味な思い出し笑いを含み、周囲からの冷ややかな目が、伊集院に突き刺さっていた。
夢見心地の本人には、
十一時を過ぎていることも気付かずに、時間さえ停めて、白昼夢に身を措いている。
「バタバタッ!」
耳障りな音で、我に返った。慣習的に腕時計を見る。五分過ぎていることに、
「誘っておいて、遅刻しちゃいました。御免なさい」
今にも泣きそうな顔をして、伊集院に赦しを乞うている。
たまりかねた伊集院が、
「五分なら、遅刻に入りません」
俯く真由美に見えるように手を差し出した。
真由美は息を切らし、動く肩が震え混じりになり、か細く見上げていた。
伊集院はそれで立ち上がり、真由美を座らせて、
「水を取ってきます」と、逃げ出すようにその場を去っていた。今にも泣き出さん、とする女性をあしらう経験は、伊集院にはない。その為に、口実を利用して、場を離れたのである。
グラスに水を注いだ伊集院は、悔やんでいた。何時もなら、最悪の妄想をしているはず。今日に限って、浮かれ果て違う行いで舞い上がっていた。
考えを結論付け
「詫びたことで、赦されました。ここから先は何時もの真由美さんに戻って下さい」と言って、水を差し出した。
真由美がそれを飲み干して、大きく息をつく。
伊集院は禁断を覗き込むように
「
「・・・、少しだけ」
蚊の鳴くような声で、真由美が呟いた。
「何か、食べたいものがありますか」
伊集院は、真由美の不安を、自らのものに置き換え、主導権を明け渡した。
真由美はそれで、俯いたまま考え中を演じていた。
伊集院は『惚れた弱み』に蹂躙され、敗者に堕ちていた。真由美は別に、恋の勝負を挑んだ訳ではない。浅はかな妄想が、あざとい子猫に勘づかれたに過ぎなかった。
一拍と空けた真由美が閃いた。
胸を張り、
「武士の高貴な志を見習い、蕎麦では駄目ですか」と発し、臆病な振りで様子を伺った。
伊集院が畏まり、
「乙な選択をしましたね」と、それに
「決まりですね。富士見庵の三色蕎麦は絶品なんですよ」
真由美は言うなり、空のカップとグラスを返却口に持っていく。
戻るなり手を腰に当て
「一日五十食限定ですから、急いで行きましょう」と、伊集院を
伊集院にしてみれば、『それを先に言って下さいよ』と、腑に落ちなかった。しかし恋の負け組は、それすらを言葉にできないでいた。
惚れた『弱』みの男が悪いのか。
『
弱肉強食は世の常と思うしかなく、それが現代の妙であることに、間違いはなかった。
引き
真由美は途端に、腕に縋り付き、
「卑弥呼さんは、ギリシャ神話のヘスティアさんなんですよ」
「唐突に、何を言ってるんですか」
伊集院は慌てふためいて、おろおろと挙動不審に陥っていた。
真由美は強かに嘲笑い
「森羅万象の主人公を教えようとしてるんですけれど・」と、ちゃかしてみせた。
「公衆の面前で、薮から棒過ぎませんか」
伊集院は、お茶目な妖精を諭すように云う。
「キスの始まりは、女神様が、人の内なる悪(欲)を吸い出した儀式なんですよ」
「それも、森羅万象に描かれているんですか」
「ヘスティアさんはマリアと名乗り、イエス様を産みました。集まりし心に擁護され、東の地に向かっています」
「聖母の逸話ですか」
「辿り着いた時に、出発から同行した者の顔はなかった」
「過酷な旅を、誰が命じたんですか」
「創世主の感性様以外に、神に試練を課す方は居ませんよ」
「感性様ですか」
「強制ではなく、任意です」
「何故命令ではないと言えるのですか」
「大震災で大陸から切り離されたことに、心を配ったんじゃないかなぁ」
「綴られてないんですか」
「切り離された島に和みを施さないと。生命体の行く末が闇に消える。と、感性様は考えた」
「あやふや、のようですね」
「キスが儀式というものだから、
「女心ってやつですか」
「たぶん・・・」
真由美が立ち止まった。腕を引かれた伊集院が、それに吊られて足を止めた。
真由美が指さす暖簾に、富士見庵と書かれていた。
呼吸を整えた真由美が扉に触れ、自動扉が開いた。三歩進み再び立ち止まる。辺りを見回した真由美が、伊集院の手を携えて進む。
「お待たせ、すーさん」
うさぎが立ち上がり、
「うさぎ赤瞳です。急な誘いで、申し訳ありませんでした」
「森羅万象は、ブラフだったんですね」
「私が企画したの。もしかして、怒ってるの」
「怒って居ませんが、狐につままれたようです」
真由美が腕を引き、伊集院を座らせる。
うさぎも倣い腰を降ろした。
「真由美の好きな三色蕎麦を注文しておきました」
「どうして言ってくれなかったんですか」
「手土産、って、伊集院さんは言うでしょっ」
「絶対に言ってます」
「だから言わなかったの」
「他の方法もあったはずでしょう」
「危険を懸念した私がいけなかったんです。申し訳ありませんでした」
「いえ、善悪を唱えていません」
「なら、何が気に入らないの」
「心の準備ができていないだけです。誰も悪くないです」
「ゆっくりと時間かけて馴染みませんか」
「そうですね。無礼講にして頂けると、羽目を外せるんですがね」
「仲間なんだよ。素の交わりなきものを、仲間と呼ぶべからず、だよ」
「その通りですね、宜しくお願いします。伊集院一二三と申します」
「失礼致します」と、店員が三色蕎麦を載せたお膳を運んできた。
真由美が一膳をとり伊集院の前に置いた。店員がそれで、もう一膳をうさぎの前に置く。入れ代わった店員が、真由美の前にお膳を置いた。
「いっただきま~す」と言った真由美が、慣習的な作法に倣い食べ始めた。
二人の男も、律儀に倣い食べ始めた。
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