第2話
五
二千六年 十月 十四日 (土)
中里が記憶を思い返している。
昨夜(十三日の夜)伊集院から連絡が入った。板橋区のマンションで、再び変死体が出た。遺体は鈴木未来と男沢義幸の美容師カップルである。ハタチの若さでご愁傷様と言うしかできなかった。
伊集院は興奮気味で、
「懇意のある捜査員が、無理心中の線で捜査をしている」と教えたらしい。
「無理心中だと、毒物を飲むか、一酸化炭素中毒の酸欠に至る」と言う。
「心停止・脳梗塞を除外する根拠は、この変死体の本筋ではない」と、半ば呆れていた。
「通常死の逆転経由の変死体が出ることは、生命の新時代でしかない」と、毒づいた。
中里は、生命の新時代とはよく言ったものだ、と感心していた。『誰かが正対しないと、収束に至らない』と考えて、のめり込む決心をしたのである。
伊集院が期待したものが、俺の閃きならば、掛けてみる価値もあるだろう。黙って聴いていても埒が空かない。あわよくば道筋だけでも、と考えた。それぞれの思いを重ねることから始めよう。
俺の住む田園調布と、伊集院の住む桜木町(みなとみらい)の交差に気を配ろう。勝手な思い込みで、東横線に飛び乗っていた。記憶と意識を整理しながら桜木町まで行った。
気持ちを持ち直して、反対方向に乗り換えた。 線路の交差に注意して、横浜駅で下車する。
繁華街というものは、ストレスを発散できる。欲望を満たすことは、人々の安心を脅かすこともある。出すことと入れる(手に入れる)ことの比重は、それぞれである。放射のイメージが強すぎる。ここにピースは落ちていなかった。
次に下車したのは、菊名駅である。
乗り継いで新横浜に行けるこの駅の利は、『愉しみ』という遊び心を募らせた。中里のイメージだけを萎ませていく。
ピースは落ちていなかった。
次に下車したのは、武蔵小杉駅である。JR南武線との交差が、視界からも確認出来た。
学生時代に伊集院と、秘密基地ならぬ隠れ家を求めて探索したことがある。その時に駅前の中華料理店で食べた豚肉のしょうが焼きが、絶品であった。
腹の虫がそれで便乗していた。
「腹が減っては戦はできぬ」言い訳を用意できれば、納得するのが人間である。
腕時計に目をやると、一時を廻っていた。
六
腹が満たされ、次の欲望が生まれてきた。
中里は喫煙者である。セットというには烏滸がましいが、コーヒーとタバコは相性が良い。誘惑に誘われるままに、人混みに紛れて流れに呑み込まれていた。
かれこれ二十分程度歩き、ブレーメン通りに出た。土曜日の人混みが、海水浴のいも洗いを想像させる。左右を見回すと、サンマルクカフェの看板を発見した。瞬時に出入り口の前に移動していた。
見上げる二階部分に、至福の白い雲が漂っていた。我慢の限界が出した生唾を飲み込み、意を決した勢いのまま入店している。
まどろっこしい思いを忍ばせて、コーヒーを購入した。狭い階段を上りきると、拓けた視界が、霞んで見える。
足早に灰皿を取り、カウンター席の空いている場所をキープする。取り出したタバコに火をつけて、大きく吸い込んだ。
霞む視界が平衡感覚さえなくし、ニコチンが躰中を駆け回る。安堵感という達成感が気持ちを落ち着かせて、視界が通常に戻ってきた。周りが意識の中に飛び込んで、左端で原稿用紙を前に熟考する者を見つけた。
灰皿とカップを取り、隣の席に移動する。
覗き込んだ原稿用紙に、『森羅万象』うさぎ赤瞳、と書かれていた。
「うさぎあかひと、さんとお読みして良いのでしょうか」
咄嗟に口をついていた。
「うさぎあひと、と読みます」
作り笑いでも、満面であった。
後が続かないことを気にやんで、
「読書がお好きですか」と聴いた。
「まぁ、好きか嫌いか、というと、好き、という程度です」
「社会人になると、本と接する機会が減りますよね」
「本当に好きならば、時間をつくってでも読みますよね」
「私の創作は、忘れてしまう記憶を補う為のものなんですよ」
「作家さんの冗談にしては、洒落が効いてますね」
「因業オヤジの妄想ですから、ただの作文でしかありません」
「そう言われると、余計に拝見したくなります」
「恥ずかしい作文ですから、お他人様にお見せする代物ではありません」
「それならせめてジャンルとか、粗筋だけでも教えて貰えませんかね」
「・この世の始まりからミレニアムまでを神話風に綴ったもの、ではどうでしょうか」
「・・・もう少し、具体的にお聴かせ頂けませんかね」
「元素の話しです。貴方様がお知りになりたい、元素殺人事件に繫がっています」
「申し遅れました。中里正美と言います」
「中里さんで宜しいでしょうか」
「呼び捨てて頂いてもいいです。内閣府の役人ということも、お知りですよね」
「知りません。私は夢を具現化できます。貴方が現れることを待ち続けました」
「友達の名は、伊集院一二三と言います」
「単刀直入に言って宜しいでしょうか」
「どうぞ」
「中里さんが仲間になって頂けるなら、逃げ回らなくてもよくなります」
「逃げ回る」
「私は命を狙われています」
「誰にでしょうか」
「見当もつきません」
「警察に相談したんですか」
「妄想家の言うことですから、被害妄想として扱われています」
「事件が起きないと動かないですよね、警察は」
「だから、逃げ回るしかできないのです」
「それは大変ですね」
「小杉のサンロードにある、パートナーという店に妹がいます」
「妹さんですか」
「私の
「懐刀とは物騒ですね」
「命を護るための手段ですからね」
「ということは、覚悟を決めている、ってことですね」
「好奇心旺盛な小娘です」
「小娘ですか」
「中里さんと伊集院さんの命も護ります」
「人物像が見えませんね」
「通常は月・水・金の出勤ですが、昨日急用で休んだので、今日出勤すると連絡がありました」
「ぐいぐい、迫ってきますね」
「長く拘わると、中里さんの身が危険に晒されます」
「俺の心配をしてくれているのですか」
「真由美という源氏名ですので、是非にでも会っておいて下さい」
「そこまで言うのでしたら、会って確かめてみます」
「長話は、敵さんのターゲットになりますから」
「どうすれば良いんでしょうか」
「私との物別れを演じて下さい」言ったうさぎが、奇声と罵声を罵りながら、帰っていった。
中里は、『パートナーなら、俺たちの隠れ家だよ』と頭を抱えながら、思い出し笑いを含んでいた。
七
中里が色々と考えていた。
信じるか、信じて良いのか、と迷ううちに、『俺は何時も、出たとこ勝負でやってきた。今更スタンスを変えたところで巧くすり抜けられるとも思えない』と、覚悟を決めた。
演技力は小学生でもいいじゃないか。一途な思い込みなら、小学生よりも年季が入っている。お他人様は観て見ぬ振りをするだろう。とどのつまり、自己主張に感知する程暇な方は居ない筈である。
通常サンマルクカフェから元住吉駅までは、一分で充分な距離である。その距離を五倍の時間を要して、行ったり来たりや立ち止まるなどをしている。改札に向かう長いエスカレーターを前にして、踏ん切りをつけた。
三回鳴らして一度切る。心の中で十を数え再び三回鳴らして切る。再び十を数えて掛け直す。
「もしもし、中里か」
相手は、伊集院である。
「出て来られるか」
「何処へ行けば良い」
「武蔵小杉駅にしよう」
「今七時だから、八時で良いよね」
「あぁ、待ってるよ」
中里は、言うなり切った。
駅ひとつの中里が駅前に居る。
小杉駅の南口は路地の交差点のようになっている。西方向の路地がサンロードで、距離にして二十㍍に満たない。突き当たりに聖マリアンナ医科大学東横病院がある。
駅前の人の流れが多くなった。
中里がそれで、腕時計を見た。七時三十分の秒読みである。
七時三十分丁度に、
「待たせた・よ・ね」と声を掛けられた。
「黙って追いて来てくれないか」
中里は言うと、けたたましく歩きだした。
雑居ビルの地下に、パートナーはある。少し急な下り階段を下りると、ガラスの扉が二重にあり一枚は閉店の間だけ閉まっている。一枚だとBGMが溢れていて、入りやすさに繫がるらしい。
中里が、ずかずかと入って行った。
伊集院が寡黙に続いていく。
左奥のボックス席で、掃除機をかける者がいた。
「ちょっと早かったかな、マネージャー」
マネージャーと呼ばれた男が掃除機を止めて半身を捻り、
「あれ~、中ちゃんじゃん久しぶり~」と発した。
「どっかで時間を潰してくるかなぁ」
中里が、見え透いたことを言う。
「掃除は終了したよ。手前のボックス席で待ってなよ。直ぐに用意するからさぁ」
「悪いね」と言った中里が手前に『どかっ』と腰を下ろした。
差し出した手に従って、伊集院が奥に腰を下ろす。
「見つけたよ」
中里は言うと、タバコを取り出して火をつけた。大きく煙を吸い横を向き吐き出した。
「うさぎ赤瞳という物書きが、元素殺人事件と言い切ったよ」
興奮を抑える為に、再び煙を吸い込んだ。
「細菌兵器やウイルス兵器は聴いたことがあるけど、元素兵器は聴いたこと無いなぁ」
中里がタバコをもみ消して、
「夢を見たから、俺を待っていた、と言ったよ」
「夢って」
「俺と一二三の命を心配していた」
「命って」
「逃げ回ってるって言ってたよ」
「ただの妄想なんじゃないかなぁ」
「この店に妹さんが居るらしい」
「妹さんまで関係しているの」
「本物か偽物かを、二人で確かめようぜ」
「良いけどさぁ・・」
「真由美ちゃんって言うらしいよ」
「な~んだ、真由美ちゃんに会いに来たのかぁ。出勤したら付けるから待っててね」
マネージャーが現れて水割りセットを置き、カウンターに戻って行った。
「それまで、手酌でやってようぜ」
中里は言い水割りを拵え始めた。
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