choice.41 そして選んだ未来へと(3)

「んっ……」


 耳朶を打つアラーム音を止めれば、今日も一日が始まる。布団から出たくないという欲求をどうにか打ち負かし、俺は起床に成功した。

 アラームが鳴ってから五分。なかなか善戦したと言えよう。


 自分との勝負(一人相撲と言った方が正しい)であろうと、勝利は勝利。勝利の美酒に酔いしれながら浴びると、眩しい朝の光も美しく見えるものだ……いや嘘。正直辛い。


 だが、今日も今日とて平日だから、いち学生としては学校に行かねばならない。俺は再び気合を入れ直して、自分の部屋から出た。

 ……それに学校には、見たい顔もあることだしな。


「──あ、おはよう」

「ん、おはよう」


 リビングに続く扉を開くと、俺に気付いた少女からそう声を掛けられる。朝の挨拶を返して、俺は席に着いた。


「ねえ、まだ朝ごはん作ってる最中なんだけど……アンタ、こんな日に限って起きるの早いって何なの? 間が悪過ぎない?」

「早く起きて文句を言われるってのも珍しい気がするな……」


 しかも、前は「早く起きなさい」って言ってたくせに。


 キッチンに立っている彼女から零された理不尽な不満に、俺は苦笑を返す。まあ、普段起きてくるのが遅い俺が悪いという見方もできるので、気持ちは分からないでもないからな。

 まあ、俺が寝坊する前提で朝食準備のスケジューリングをしないでほしいとは思うけど。


 ……しかし、アレだな。まだ朝食が出来ていないのなら、先に学校へ行く準備をしておくのもアリかもしれん。少なくとも、が朝食を完成させるのをただ待っているよりは有意義な時間の使い方だろう。


「じゃあ封伽。俺は一旦部屋に戻るから、飯ができても戻って来てなかったら呼んでくれ」

「別にそれは良いけど、そんなに時間掛からないわよ?」

「大丈夫だ。俺もすぐ戻って来るつもりだし」

「……もし二度寝してたら、ごはんは口に詰め込むからね」

「……大丈夫だから止めてくれ」


 そう言って、俺は言った通りに自分の部屋に戻ろうとリビングを出──かけて、即座に振り向いて、ここまでついスルーしてしまった問題に精一杯のツッコミを入れた。


「──お前、なんでこんな時間に俺の家にいるんだよ!?」


 あまりにも自然過ぎて違和感が無かったが……いや、どう考えてもおかしいだろ。


 俺と封伽がしか経っていないというのに、さながら同棲中のカップルか家族のように台所に立ってる彼女。

 いやそりゃあ幼馴染だし、家族みたいな存在だとはどこかで言った気もするが……しかし、こういうことじゃないだろ。


 だが封伽はそんな俺に、「朝からそんな大声出したら近所迷惑でしょうが」って咎めるような視線を向けてくる。自分の行動には何の疑問も持っていない風の態度だ。


「そんなの今更じゃない? 火曜日から木曜日まで、アタシ毎朝ここに来てたじゃん。それを金曜日になって、いきなり言ってくるわけ?」

「三日間もスルーしてたのは、確かに俺の手落ちなんだがな」


 スルーしてたというか、スルーせざるをえなかったのだ。ずっと脳の処理限界キャパシティを越えてたから。四日目の今日にしてようやく、ツッコミを入れるだけの余裕が心に生まれたのである。

 つーか昨日まで、「あれ、俺がおかしいのか? いや、そんなことないよな……よな?」って感じだったんだよ。封伽が家にいる姿が、あまりにも自然すぎて。


「というか、どうやって家に入ってるんだよ。まさか、母さんに毎朝合鍵借りてるのか?」

「ううん。実は一昨日、アタシ用の合鍵もらっちゃって」

「相手が気心の知れた幼馴染だからって、母さんのセキュリティ意識が甘すぎないか……?」


 ワンドア・ツーロックとか、もう何の意味もなくない? ただでさえ互いの部屋は近いのに、封伽が全くのアポ無しで来るようになったら、俺のプライバシーが死滅しかねないよ?


「アンタがどう思ってるかは知らないけど、別にアタシ、そこまでひどい女じゃないわよ。ただ、平日の朝はアンタ一人じゃマトモに起きないじゃない。だから来てるだけ」

「昨日は放課後も遊びに来てた気がするが?」

「学校が終わってから彼氏の家に行くのは普通のことよ……普通かどうかは分かんないけど、でも変ってほどじゃないはず」

「最後にちょっと自信無くすなよ」


 まあ、封伽とずっと一緒にいるのが嫌ってわけでもないんだから、とやかく言う必要も無いのかもしれないけど。別に今のところは、束縛や独占欲が強くて困ってるとかでもないし。

 ここ数年の間は仲良く過ごせていなかったことを思えば、今はその反動というか埋め合わせというか、とにかくそういう時期ってだけなのかもしれないし。


 それに、封伽が自分の気持ちを押し殺す必要が無くなった結果なのだと思えば、現状もそう悪くないと思える──軽く暴走気味なのは、もう少し落ち着いてほしいところだけれど。


 そう思っていると、封伽が俯きがちに「アタシだって、どうしたら良いのか分かんないのよ……」と呟く。朝食を作る手も、いつの間にか止まってしまっていた。


「ずっとアンタのことが好きで、でも言えなくて、それどころかアンタのことを嫌いな振りまでして……急に付き合うことになっても、どんな態度でいるのが正解か分かんないじゃん」


 封伽は俺に背中を向けたまま、辿々しく言葉を紡ぐ。


「最初にアンタと付き合うことにしたときは、ただの演技だって自分に言い聞かせてたから、まだどうにかなってた……でも今は違う。正真正銘の恋人に、なった。なれた」


 演技時代の封伽のことを「まだどうにかなってた」と形容していいものか、ちょっと悩ましい気がするのは気のせいか?

 と思ったけれど、言ったら怒られるだろうし、そもそも口を挟める空気じゃないので黙っておく。


「アンタがアタシのことを選んでくれて、好きだって言ってくれて、すっごく嬉しかった……うん。前にも言ったけど、アタシもアンタのこと好き。たぶん、アンタが思ってる以上に」


 言われて、頬が熱くなるのを感じる。顔こそ見えていなくても、封伽も顔を赤らめているのだろうと思った。


「だからこそ、どうしたら良いのか分かんないのよ……今まで通りの距離感でいるのは切ないし、かと言って最適な間合いなんて分かるわけないし、でも折角なら近付きたいし……」


 そこで封伽の声が、か細く揺れ動いた。さながら、彼女が内側に抱えた葛藤を映す水面のように。


 本人の言う通り──封伽自身、分からないのだ。


「どんな距離感で接するのが正解か」なんて問題、今までは一度だって考えたことはなかった。

 物心が付いた頃には既に一緒にいたし、気が付けばずっと隣りにいたし……同じく気が付けば、離れてしまっていたから。そして流されるままに、新しい距離感が出来ていたから。


 昔の距離感にただ戻るのが正解か、新しい距離感を保つくらいでちょうど良いのか、それとも更に新たな距離感を見付け出すのが最適解なのか──そんなこと、分かるわけがない。


 離れたくない、近付きたいと心が叫んだところで、何も考えずに近付くことが正解だなんてはずはない。

 大事なのは互いが互いのまま、互いに好きになった互いのままでいられて心地よい、そんな距離感を探ること──けれど、それが簡単に出来るのであれば人間は苦労しない。


 それはきっと、誰しもが同じ味を経験しうる労苦。


 そのうえ、俺達がこれまで辿ってきた道の曲がりくねり具合を思えば、ここから先どんな方向に歩めば良いかなんて、簡単に見えてくるわけもない。

 ましてや、常人より輪を掛けて不器用な砺波封伽のことだ。その心中にある迷いは、察するに余りある。


「──」


 とはいえ、俺にその迷いを晴らしてやるだけの力は無い。それが出来れば最良だったのだけれど、生憎と俺には、今の封伽にどんな言葉を掛けてやるのが正解かは分からなかった。

 封伽と同じように、何なら封伽以上に、不器用な俺だから。


 ──だから俺は、ただ無言で封伽を抱き締めることにした。


 言葉なんて無くても、きっと想いは伝わると信じて。


 俺には、その迷いを晴らすことなんて出来ないけれど。

 二人の距離感は、これからゆっくり見付ければ良いから。

 それを見付けられるまで、俺は封伽の傍にいるから。

 傍にいたいと、そう心から思っているから。


 ──そんな想いを胸に、腕に力を込める。強く、それでも温もりを与えるような優しさを持った抱擁を、彼女に捧げる。


「ん……」


 俺の想いに応えるように、封伽が振り返る。羞恥に頬を真っ赤に染めながら、俺の背中に腕を回して抱擁を返し──辿々しく、けれど確かに、俺に向かって唇を突き出してきた。


 そんな控えめな自己主張に、俺が返すべきものは一つだ。

 俺も目を閉じて、愛しい恋人の唇へと、自分の唇を重ねる。


 互いの想いを交換して、二人を結ぶ繋がりをより確かな物にするための接吻。簡単に揺らいでしまう『現実』を知っても、揺るがない絆がどこかに──此処に、あることを信じる想い。


 胸にとめどなく溢れてくる多幸感が、次第に緊張ストッパーを押し流してゆく。そうなれば、後はさながら石が坂道を下っていくように、本能のままに互いを貪るキスが始まる。


 湧き上がる想いを、込み上げる熱を──脳を埋め尽くして胸を焦がすほどの愛情を、粘膜に乗せて、舌で交換する。


 叶うなら、いつまでも彼女とこうしていたい──しかし残念ながら、そう長くは続かなかった。息が苦しくなって、やがてどちらからともなく唇を離す。


 まあ、再び唇を合わせれば良いだけの話といえばそれまでなのだけれど……けれど、一旦途絶えて目を開けてしまうと、不思議と冷静になってしまうのが人間の悲しいさがだった。


 冷静になるというか──有体に言うと、互いの顔を見てしまった瞬間、ここまで脇に押しやっていた羞恥が一気に牙を剥いてしまうというか。

 要は「朝っぱらから何やってるんだ、俺達は……」という気持ちになってしまうわけで。


 封伽も同じ感慨に至ってしまったらしく、目を合わせないように腕を解いて、すぐに互いに背中を向けてしまう。


「あ、朝ごはん出来たから、その……食べておいて」

「あ、ああ……ありがとう」


 誤魔化すように封伽が言って、俺も顔を見れないまま頷く。そのまま封伽は、早足にリビングから出て行ってしまった。


 ちょっと、その……間違いなく、やりすぎてしまったな。

 封伽も乗ってきてたし、怒ってるわけじゃなさそうだったから、謝ったりする必要は無いだろうけど……自滅だが気まずい。


 まずいな……あと三十分もしないうちに一緒に登校するわけだが、封伽に何と声を掛ければ良いんだろうか。


 ……あれ、さっきまで以上に距離感が掴めなくなってないか?


「……」


 ……都合の悪いことは考えないことにした。


 とりあえず学校へは行かなくちゃいけないわけだし、今は封伽が作ってくれた朝食に手を付けるとしよう。


「いただきます」


 俺一人だけ残されたリビングで、食卓に座る。並べた食事に手を合わせて、こんがり焼き上がったトーストを口に運んだ。


「……まあ、これくらいは甘んじて受け入れなきゃだよな」


 食パンは、思いっ切り焦げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る